粗悪女子

第1話 非日常への第一歩

 ガタガタと鳴り響く無機質な電車の音は、私に死という文字を連想させるだけだった。


『――間もなく、博多行、快速電車が到着します。危ないですから白線の内側に――』

 

 無機質な声だ。朝からまるで、やる気を削ぎ落とすような。


 私はブレザーの袖から伸びている小さな糸くずをプチリと引き千切りながら、その声を聴いていた。

目の前に見えるのは学園指定の制服をキッチリと着た私の袖と、長くもなく、短くもないチェック柄のスカートの裾。そして、電車と私を隔てる点字ブロック。


 ――超えてやろうか。そう思い黄色い点字ブロックを少しだけ踏む。超える勇気は。最初からない。


 こんなの只の暇つぶしだ。意味のない暇つぶし。只、疲れ切った自分を癒す為の暇つぶし。



 ――何に疲れたか。


 学校だ。それ以外ない。私の居る学校は牢獄だ。皆楽しそうにしているが私には楽しみなんてない。只、行って。只、学んで。後は帰るだけ。楽しそうに話す友達は居ない。信頼してくれる者は。


 ――少しだけ考える。居るのだろう。居る、一応。

居るから私は生徒会長という地位に就いているのだろう。だが、その地位すら私は失いたくてしょうがない。


 一番上というだけで、仕事は押し付けられる。他の委員はやる気がない。

やる気がある人間が居ると、浮く。

少なくとも副会長にはやる気はある。だが他には皆無だ。任された仕事すらしない。やらなくてはいけない仕事などは全て私に押し付ける。


 押し付けておけばするから。そういう意味では信頼されているだろう。――都合の良い人間として。


 昨日だってそうだ。三日前に行われた月に一度の委員会会議。生徒会役員と各委員会の代表者二名が集って重箱の隅突き合うだけの会議。そこで副会長から指摘を受けたのは、図書委員だった。


 余りにも紛失書籍が多い、と。借りパクなのか、はたまた盗まれたのか。ここ一年で紛失書籍の数は20を超した。


 返さない者には督促状を書く、図書館を訪れた際返すよう促す。書籍の盗難は犯罪で有る事を警告する紙を貼る。等の提案が出され職員会議にかけられることが決まった。そう、それだけなら良かった。


それだけなら。



「会長、これやっといてくんない?」


 と昨日手渡されたのは一枚の白紙の紙。渡してきたのは図書委員の明らかに不真面目そうな茶髪の女子生徒だった。


「えっと、これ、何?」


 当然、私はそう聞いた。白紙一枚渡されたところで何なのか等わかるわけがない。


「ほらあ、副会長の言ってた図書室の貼っとく警告文。先生がさあ、手書きで絵とか書いてあった方が分かり易いってー」


 それが、どうした。と聞きたくなる。けど聞かない。解っている。何を言われるかなんて。其処そこから続く言葉は全てお見通しだ。


「あたしさあ、絵。苦手なんだよねー」


 私だって得意じゃねえよ。


「字ぃ汚いんだよね」


 知ったこっちゃないわ、書いてから言ってよ。


「本を盗むのは犯罪です! なんてお堅い文章書けないしぃ」


 書けるだろ。


「あたしが書いたって知られたらなんか言われてめんどくさいし」


 ……。


「だからあ、やっといてくんない?」


 可愛らしく、語尾の上がった声。そんな声で言われたら受け入れてくるんだと顔にもクラスの立ち位置にも自信のある彼女はわかっている。――私に愛想よく振る舞うのも、そんな笑顔見せるのも。全部全部仕事の為。そして、ここで断れば……。


「――良いよ、やっておくね」


 断った時の光景を想像して私の口から出たのは、萎縮したセリフと媚びた笑顔だけだった。


「やったあ! 有難う、会長。何時いつもごめんねー」


 絶対にごめん等とは思っていない様な明るい声が教室に響き、私の席から彼女が遠ざかる無機質な足音が聞こえた。


 思わず、ハアと溜め息小さくつく。


 ――何時も通り。世界は何も変わらない。通り過ぎて行く様な風景ばかりで。


「――会長ってホント、何でもやってくれるよねー」


「だねー。ちゃんとやってくれるし信頼出来るー」


 信頼? 果たして其れは本当に信頼というのだろうか? 答えは決まっている。「信頼出来る、都合のいい人」だ。



 ――電車の入って来る轟音と共に、回想は掻き消された。余りにも有り触れた、溢れ者の日常がまた始まる。

人に呑まれる様にして電車に乗り込み、終点で人に呑まれつつ降りる。きっと私は此の儘変わらない。社会人になっても人に呑まれ乍何もなく生きるのだろう。其れで良い。其れで……。


 ――そう思った瞬間だった。


 満員電車の中。蒸し暑く揺れる車内。じんわりと伝う汗と共に。――何時もと違う不快な感触を覚えた。


 スカート越しに感じる。硬く、骨張った手の感触。初めて感じたゾワリと背筋の震える様な感覚。ちょっと触れたとか、そんなのではない。完全に臀部を包む様に其の手は這う。


 ――え? 何?


 一瞬の戸惑い。手も声も出ない私を余所に、其の手は臀部を揉む様な仕草をする。其れに反応する様に身体はピクリと震えた。――嫌だ。厭だ。不快だ。気持ち悪い。


 思わず手が伸びる。其の太い手首を掴み振り払う様に上に挙げた。


「……此の人……痴漢です」


 震えた小さな声と共に、乗客の視線が一斉に此方に向く。私はゆっくりと後ろを振り向く。

――私に手を挙げられた侭、呆然としているのは三十代位の何処にでも居そうなサラリーマンだった。恐らく、中間職とか。ソコソコの地位に居そうな。妻も子供も居そうな。そんな人……。


 不安げに揺れる目が私の方を見詰める。――瞳が合う。其の瞬間、手を振り払われた。


「じ、冗談じゃない! 私はそんな事はしていない! 誤解だ!」


 震えた。嘘とバレバレの言葉。


「大体、こんな地味な女に触るものか!」


 良くフィクションの中で聴く言い訳。


「何だ、何が目的だ!? 金か! やるよ! やるから!」


 やるから、勘弁してくれとでも言っているのだろうか? 混み合う車内にて彼は鞄を漁りやや分厚い財布から一万円札を取り出すと無造作に私の胸下に押し付け逃げる様に人をかき分け離れていった。


 少しだけ騒つく車内。思わず受け取ってしまった一万円札を握り締め、私は只動揺していた。早口で捲し立てられた先程の声が脳内で響く。


 ――こんな地味な女に触るものか。


 ……。

 触ったんだよ。どうせ後ろ姿しか見て無かったんだろうけど触ったんだよ。何見え見えの言い訳して――。


「ねえ、さっきのどう思う?」


 ――近くから。高い声が聞こえた。少し視線を巡らせると福工大前辺りの高校の制服を纏った女子高生が二人見えた。


 一人は金髪に近い茶髪。もう一人は黒髪のボブ。二人共薄いもののバッチリと化粧をしている所謂「ギャル」だった。


「此の電車で痴漢とか、初めて見たんですけど」


「もう此の電車使えなくない?」


 聞こえるか聞こえないか、ギリギリの音量。目の前であった事なのに他人事の明るい声色。


「大丈夫っしょ」


 言い切る様な口調の後聞こえたのはある意味一番聞きたく無い言葉だった。


「だって、痴漢ってああいう地味なのの方が狙われやすいじゃん。気の強そうな女は狙え無いーって良く言うし。つか。


 ――冤罪じゃないの? アレ」


 ――電車の騒音と共に、其の言葉は確かに私の耳に届いた。頭を殴られた様な衝撃を覚え目を見開く。彼女達の姿を見るのが辛くなり、視線を逸らした。其れでも、声は私を追い詰める様に聞こえてくる。


「地味な子狙うにしても、もうちょっと可愛い子に触るでしょ。何処にでも居そうじゃん。“あんな子”」

「確かに……クラスに絶対1人は居そうな顔してるよねー」

「真面目そうな顔してるけど、お金が欲しかっただけなんじゃない?」

「だったらさっきのオッサン可哀想だよねー」

「ああいう真面目そうなの程やる時はやるんだよね」


――くすくすと嘲笑う様な声。聞きたくない。今直ぐ駆け出して電車から降りてしまいたいとそう思った。だが、私の降りる駅は彼女達より後。終点だ。此の儘好機の視線に耐え乍終電迄行かなければならない。正直、吐きそうだ。


「でもさ、あれやってるって事は逆に……

 ――金払えば出来るんじゃないの?」


 は?

 思わず口から疑問詞が飛び出そうになる。


「出来るって、何が?」

「セックス?」


 腹の底から馬鹿にしているで有ろう声。


「居るのかなー? あれとしたい人」

「居るんじゃない? 割と胸デカイし」

「あー確かに」


 もう辞めて欲しい。好い加減にしろ。何で私が其処迄言われなければならない!? 彼女達の言葉に沸々と憤怒の感情が沸き上がる。


 ――私が何をしたっていうのよ? 如何してこんな好奇の目に晒されなければならない。一体私が――何をした?


 何も――何もしていない。


 そう。何もしていない。単純にあの子達は此の方が面白いからそう言っているだけなのだ。別に其の甲高い声が私に聞こえようと、乗客に聞こえようと知った事ではないのである。彼女達は只――。

 自分の事しか考えていない。



 ――プシューっという間抜けな音と共に電車が止まる。其の瞬間、何だか頭が冷えた。

 止まった駅は福工大前。先程の女子高生達は何食わぬ顔で別の雑談をしつつ私の横を通り過ぎて行く。


 ――一人と目が合った。


 嘲笑でもされるかと思ったが、何もされなかった。私の事を話題にしていたのも忘れた様に。――其の事が。何だかとても屈辱的で、胸の中が“チクリ”と痛んだ。


 少しだけ周りを見渡す。乗客の殆どが私の事など気にしていない。皆んな残酷だ。無関心だ。自分の事しか考えていない。


 かと思えば、私に目を向けている乗客も数人居る。殆どが30、40過ぎたオジさんだ。彼らは意識していないかもしれないが、其の視線は実に厭らしく私の身体を舐め回す様なものだった。


 先程の女子高生が「胸がデカイ」等と言った所為か。複数の視線を胸元に感じた。


 ――吐き気がする。あの人達も自分が無実なんて思っていないだろう。きっと、金を払えばヤらせてくれると思っているんだろう。其の方が、自分にとって都合が良いから。――嗚呼、世間なんてこんなものだ。こんなにも無関心で、こんなにも自分勝手なのだ。厭と言う程解った。身に染みた。


 そしてフッと……。先程同様頭が冷めた。結局皆んなこんななら、今迄私は何故真面目にして来たのだろう? と。何故顔色等伺っていたのだろう。と。こんな世界なら全て無意味だというのに。どうして。



 ――どうして、真面目にして生きて来たのだろう……。と。

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粗悪女子 @sakuranaki_

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