河童の住む川

獅子谷英丸

第1話 河童の住む川①

 覚えているのは、思ったより気持ちよくなんてなかったこと。

 好きな小説ではめちゃくちゃ気持ちいいぞ。と言っていたのに。

 中学二年の夏休み最後の日の夜、プールに忍び込んで泳いだのを俺は思い出した。


 *


 まだ7月の始めだっていうのに、連日ありえないくらいに暑い日が続いた。


 俺の思っていた田舎の夏ってのは、こう……爽やかな風が通り抜けて、木々がざわめく、都会の人が作ったような暑苦しさのない爽やかな、夏。だと思っていた。


「……はあ」


 だが現実はどうだ。


 風はある。だが、ドライヤーの温風をずっと当てられている感覚だ。

 木々のざわめき? はっ、木から聞こえてくるのは寄生虫みたいに大量にくっついてる蝉の喚き声だけだ。


 何が田舎だ。何が爽やかだ。


 まあ、別に田舎に憧れていたわけではない。むしろ忌避してきたくらいだ。

 本当なら俺は今頃、必死こいて勉強して合格した都会の名門私立に通う予定だった。そんでもって、設備が整った綺麗な教室で、エアコンの風を感じながら勉学に励んでいただろう。

 

 そうだ、親が突然、海外に転勤なったのが悪い。そんでもって家から通える距離だったのに実家に一人暮らしさせてくれなかったのが悪い。更に預けられることになったじいちゃんばあちゃんちが、その学校から超超遠かったってのも悪い。


 だから、せもて俺の想像した田舎であって欲しかった。ただそれだけなんだ。


 シャツが朝着たときより重くなっている。俺の汗の重さだ。

 担いだ釣り竿の尻から水が滴る。俺の手汗だ。

 さっきからケツを往復ビンタされてるみたいに、びたびたとズボンが張り付く。俺の尻汗のせいだ。

 

 朝の俺は、このまま学校に行ってあのサウナみたいな教室で授業を受ければ死んでしまうと思い、学校へいくふりをして、こっそり家の裏側の物置から釣り竿をひっつかんで近所の小川へ避暑へ行こうと家を出た。

 目的地の小川まではあと10分くらいでつくだろう。

 

 登ってきた坂を振り返った。ほっそい林道。周りを木々に囲われ、目に染みる緑一色。あとは何もない。

 左手、木々の隙間から見えるのは今住んでいる街。一番目立つのは、最近できたらしいファーストフードのテェーン店の看板。あとは何もない。

 上を見上げる。


 木々の隙間から、この暑さの諸悪の根源ともいえるお天道様がにこにこしてる。

 

 上を向いたせいか、少しくらっときた。


 そんなとき、ふと、中学時代の記憶を思い返した。


 小説の真似をして、夜の学校ののプールに一人で忍び込んだ。入る前はすっげえワクワクしてた。

 俺は今、小説の主人公と同じことをしている! これからきっと小説に書いてあるような、不思議な出会いや体験がここから始まるんだ!

 そう考えて、何も考えずに闇と見間違う程に深い黒の水面に突っ込んだ。


 強い衝撃のあと、全身をこしょばい泡が包み込む。


 一瞬で右も左もわからなくなった。


 だけど、このまま泡に身を任せれば水面に辿り着くだろう。

 そう思って、数瞬。


 背中のあたりが夏の空気に触れて、一気に体を起こした。


 水面を出て空を仰げば、ちっぽけで中途半端に欠けた月が空にあった。


 プールの水は思ってたよりもぬるい。そして、繁殖した得体のしれない藻のせいでやたらぬるぬるする。

 あたりを見回しても、ただ見慣れた学校のプールがあるだけ。

 聞こえるのは、はたから見れば溺れているんじゃないかと見間違われる程下手くそな立ち泳ぎから発せられる、自分の水面をたたく音。


 思ってた100分の1くらいの感動だった。


「なんで、こんなこと思い出してんだ俺……」


 あのときの落胆を鮮明に思い返す。


 そのとき、近くを通ったせいで驚いて飛んだ蝉が顔面を直撃した。


 ついでになのか、「びっくりさせんじゃねえよ、コノヤロウ」と言いたかったのか、飛び去り際に、頭のてっぺんがひんやりした。ションベンをお見舞いしてくれたようだ。


 川の流れる音が聞こえ、木々をかき分けた先にはもう目的地が見えるところまで来た。

 

 ──汗も、嫌な記憶も、蝉のションベンも全部洗い流したい。


 そう思ったときには、釣り竿を放り捨てて、Yシャツの第三ボタンに手をかけていた。


 Yシャツのボタンを全部外してブン投げる。次に下に着ていた柄付きのTシャツを丸めて明後日の方向にブン投げる。


「あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 雄たけびをあげながら、生身の身体にあたる小枝を無視して川めがけて走り出した。


 ベルトに手をかけて、転びそうになりながらなんとか両足を抜き出すことに成功。

 駆ける足を前に出すのと同時に、つま先を伸ばしローファーを靴飛ばしの要領で茂みに蹴り飛ばし、残るは靴下と黒のボクサーパンツだけという何ともみっともない恰好となった。


 そして、俺一人分くらいの高さの崖から、流れる清流めがけて


 ──飛んだ。


 何とも言えぬ浮遊感。ああ、これが無重力というヤツか。


 目先に据えているのは、川の色が濃くなったあの淵のとこ。激しく流れ込む岩の段差の脇にあある巻き返しの部分。


 もう手を伸ばせば水面というところで、俺の視界の端に何かが映った。


 少し気になったがこの際どうでもいい。水から出ればわかることだろう。


 そして、水が、体を包む。


 夜のプールより、断然気持ちがよかった。


 水は冷たく、ゆだっていた体を芯から冷やしてくれるような気がした。聞こえていたうるさい蝉の声も水の中までは届かない。代わりに聞こえてくるのは、上流から流れてくる水が自分の頭上近くまで落ちる音。


 だが、そこで気付いた。


 どうやらちょっと入水の場所を間違ったみたいだ。

 勢い余って、思ってたよりも流れの激しい場所まで飛んでしまったらしい。


 得意なわけではないが、泳げないわけではない。まあ、泳げなかったらそもそも飛び込もうなんて思わない。

 それはさておき急いで戻れば問題ないだろう。どれ、ちょっとバタ足で……っつ!


 足が、つった。


 俺は今まで、漫画や小説で足がつっただけで溺れる奴っていうのを軽蔑していた。だってそうだろう。俺だって足がつった経験くらいあるけど、あのくらいの痛さで泳げなくなるって、お前、どんだけ痛がり屋さんなんだよと。


 けどそれも今日までだった。


 足がつったらおよげねえじゃん!

 というのも、実際は痛みよりも足が動かないといった方が正しいだろうか。いつもはあんなに俺の言うことを聞いていたふくらはぎと足先がビクともしない。なんだか、動く部分を全部ガムテかなんかでガチガチに固定された気分だった。


 かろうじて、水面に辿り着く。だが、眼前を白い波が覆い尽くす。


 手を懸命に動かしてみても、足が動かずバランスが取れない。強い水の流れは体を傾け、俺が呼吸することも許してはくれなかった。


 ──このままじゃ、俺、死ぬ!


 もう何が何だかわからなかった。呼吸もできない、体も自由に動かせない。けれども、何もしないわけにはいかず、必死に手を動かした。

 

 何度か顔が水面に出る機会があった。だが、そのたびに呼吸をしようとしても、勢いよく流れてくる水が口に侵入してきて、酸素を吸ってるのか水を吸ってるのかいよいよわからなくなってきた。


 三回くらいそんなあっぷあっぷを繰り返したときだった。


 さっき、視界の端に映ったものの正体がわかった。


 俺が飛び込んだ場所より、ほんの少し上流にある橋の上に人影があったのだ。


 その人影は、次に顔が水面に出たときにはもういなくなっていた。

 

 きっと助けてくれるだろうなんて考えている暇はなく、その人がどこへ行ったかを知るのは俺がの膝で目を覚ましてからのことだった。


 


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