第7話 創作は誰がために

 七馬と手塚のコンビが、次にとりかかる作品の題名は『怪ロボット』に決まった。

「『新宝島』のようなことが無いように、ひとつひとつ、よく相談していこうや」

 七馬がこう提案すると、手塚は大きくうなずいた。

 とは言え、大方針そのものは『新宝島』のときと変わらない。

 つまり、七馬が大まかなあらすじと構図を取り決め、それを手塚が漫画にすると言う流れだ。

 手塚はおおいに張り切った。『新宝島』については、トラブルもあったものの、売れたことは事実であり、それが彼の自信に繋がったのだろう。

「漫画にも非ず、小説にも非ず――いままでに無かったような、新しい漫画を描いてみせますよ」

 と、大言したくらいだ。

 それを聞いた七馬は、少し顔をしかめて、

「手塚君、漫画は漫画や。多くの人を笑わせて、愉快な気持ちにさせてなんぼやで。新しいことにこだわりすぎるな」

 そう注意すると、手塚は困ったような笑いを浮かべながらも「分かりました」と言ってうなずいた。

 本当に分かったのかどうか。

 七馬は少し不安だった。

 不安と言えば、『まんがマン』である。

 七馬と大坂ときをが作り上げた雑誌だが、号が進むにつれて批判の声が大きくなっていった。

 つまらない、古臭い、と言う声である。

(そんなにつまらないやろうか……)

 世にものを送り出せば、批判されることもあるだろうと思っていた七馬だったが、それでも批判の手紙が続々と送られてくると、さすがにこたえた。

(そこまで古臭いやろうか)

 七馬は何度も首をひねった。

 それでも売れているなら、まだ救いになる。

 『まんがマン』は、返品も少ないことから、売れていると思っていた。

 しかし、それは間違いだった。

 ある日、どっと返品が来たのである。


「流通の関係で返品が遅れとったそうで」

 大坂ときをは、汗をぬぐいながらそう言った。

 終戦直後の混乱した時期であり、交通機関も完全に復旧していなかったため、こういうことはままあった。

「大赤字ですわ……」

 大坂ときをが暗い顔で言った。

 さらに彼には追い討ちがかかった。大坂ときをは『まんがマン』の他に『漫画家』と言う漫画雑誌を出していて、七馬もこれに協力して裏表紙や漫画を手がけたりしていたが、この雑誌も休刊になってしまった。

 売れなかったからではない。

 五千部を刷って完売した雑誌である。

 だが、時代が悪かった。当時、俗悪雑誌追放の運動が高まり、その結果、『漫画家』はカストリ雑誌と認定され、休刊に追い込まれてしまったのだ。

「弱り目に祟り目とはこのことですわ」

「踏んだり蹴ったりとも言うな」

「……」

 大坂ときをと七馬はため息を吐くしかなかった。

 結局、『まんがマン』は販売不振で休刊になった。

 借金を抱えた大坂ときをに、赤字でもいいから雑誌を出せ、などとは、七馬も言えなかった。

「『漫画家』は運が悪かったとしか言いようがあらへんけど、『まんがマン』は何があかんかったんやろうなあ」

 七馬は暗い顔でそう言った。

 ――分かりきったことや。

 大坂ときをは内心で呻いた。

 関西まんがマンクラブという発行人名義のスケールの小ささ、さらに応募されてきた作品を雑誌に掲載するという同人誌のようなやり方。

 大坂ときをが危惧したことが、的中してしまった結果が、これではないのか。

(あのとき、酒井先生にはっきりと言い出せなかった僕も悪い)

 商売である。尊敬している七馬が何を言い出しても、それはまずいと思ったらはっきりと言うべきでは無かったか。それが仕事と言うものではないか。

(いまさら言ってもしょうがないが……)

 七馬は未だに首をひねり続けて「なんでやろな、なんでやろな」「うまくいくと思ったんやけどな」と言い続けている。

 ふと、大坂ときをは思った。

(これがこの人の限界じゃないのか)

 『まんがマン』の抱えた欠点に気が付かない。酒井七馬はどこまで行っても、関西のローカル漫画家で、かつ戦前の漫画家でしか無いのではないか。

 七馬のアイデアは、戦前ならば良かったのかもしれない。

 だが、戦後に通用するやり方では無かったのだ。

(そうかもしれん)

 思えば、あの『新宝島』も、七馬が関わった場所は少なく、ほとんど手塚が描いた作品だった。すると読者は七馬ではなく、手塚の漫画に惹かれて『新宝島』を賞賛しているのではないか。

 きっとそうだ。

 『まんがマン』にしても、手塚が『新宝島』にかかりきりになり、ほとんどタッチしなくなると、批判の手紙が増え始めた。

 こうなると、もはや疑うべくもない。

「手塚君がいてくれればな」

「何?」

 ぽつりと、大坂ときをが漏らした一言を、七馬は聞き漏らさなかった。

「江上君。手塚君が、どうした」

「手塚君が『まんがマン』に関わり続けてくれていれば、もう少しはもったかもしれないと、そう思ったのですよ」

「……」

 七馬は、複雑な顔である。

(時代が変わった)

 大坂ときをはまだ若い。その現実を敏感に感じ取った。

 酒井七馬は古い。

 手塚治虫が――

 つまり、戦後が求められ始めている。

 それは、若者ならではの直感であった。時勢を悟るには若さが必要である。

 戦前が遠くなり始めている。

 酒井七馬が通用しなくなってきている。


 それから、三月も暮れのことだ。

 手塚が七馬の家にやって来た。

 手塚は鞄の中から本を取り出した。

 『新宝島』だ。

「これは最初に出たものでなく、再版されたものです。酒井さん、初版の『新宝島』のとき、奥付に僕の名前が無かったことを、抗議しましたよね」

「ああ」

「けれども再版されたこの『新宝島』の奥付にも、僕の名前がありません」

「……」

 七馬は、奥付の一件を、確かに育英出版の近藤に伝えておいた。

 だが、育英出版からすれば、あくまで『新宝島』は七馬に任せた仕事であったため、奥付の一件はまったく気にしていなかったのだろう、再版でも奥付に手塚の名前が載ることはなかった。

「言おうかどうか迷いましたが、やはり僕はこのことが、我慢ならない……」

「いや、それは……」

 七馬は何か言おうと思ったが、やめた。再版時に載せると約束した手塚の名前が、奥付に載っていなかったのは事実なのだから。

「すまんかった。近藤さんには確かに言っておいたんやけど、手違いやったな」

 そう言って、七馬は頭を下げた。

 ――近藤さんもいい加減な仕事をするわ。

 内心毒づく七馬だったが、それを声には出さない。

「次は気を付けるわ」

「……」

 手塚は不満げな顔付きだったが、もう何も言わなかった。

(――どうもいかんな)

 話題を変えようと、七馬は合作の件を持ち出すことにした。

「ところで手塚君、『怪ロボット』の件はどうなった」

「ええ……」

 手塚はまだ納得できない顔をしていたが、とにかく鞄から『怪ロボット』の原稿を取り出した。

「読んでください」

 そう言って手塚が差し出した原稿を、七馬は受け取った。既に何十ページか描かれている。

 七馬は早速、読み始めた。

「……」

 相変わらず、絵はうまい。

 いや、うまいだけではない。

 味がある、とでも表現するべきか。読んでいるだけで思わず引き込まれてしまう何かがある。それは技術とは別の何かだ。

(『新宝島』のヒットもうなずける……)

 改めて、七馬は思った。

 しかし、七馬は同時にまた別のことを思っていた。

(話が複雑すぎる……)

 『新宝島』のときの、最初の手塚案もそうだったが、手塚の描く漫画は、一見すると子ども向きの柔らかい、かつ優しい絵柄なのだが、その中には激しい毒が含まれている。わくわくして読んでいると、背後から突然ナイフで刺されるような、不意打ちに近い何かが含まれているのだ。

(これではいかん)

 七馬の理想は、あくまで子ども達が笑って読める、楽しい漫画なのだ。毒などは大人向けの風刺漫画で発揮するべきであって、子どもに読ませる漫画には必要無いというのが七馬の自論であった。

「手塚君」

「はい」

「『新宝島』のときも言ったが」

 と、七馬は前置きすると、

「君の話は複雑すぎるわ。これでは子どもには受け入れられへん。漫画なんやから、もっと楽しく、明るくせんと……」

「……」

 手塚は複雑な表情だ。

「皮肉めいた展開が話の中に入るのは、君の悪いくせや。もっと単純明快でええんや。子ども達には明るく笑って楽しめる漫画がええのや」

「そうでしょうか」

 手塚はまっすぐに七馬の目を見据えると、

「僕はそうは思いません」

 と言った。

「確かに僕も子どもの頃、明るい漫画、楽しい漫画が大好きでした。けれどもそれと同時に、皮肉っぽかったりひねった話だったり、あるいは暗い雰囲気の小説も大好きでした」

「手塚君、小説は関係無い。いまは漫画の話をしとる」

「いえ、酒井さん。まず聞いてください」

「……」

「子どもの頃の僕がひねった小説を好きだったと言うことは、もしもそのとき、ひねった漫画が世の中に出ていれば、僕は小説と同じように、きっと飛びついていただろう、と言うことです」

「おいおい、手塚君」

「明るい漫画を否定はしません。そういうものも必要でしょう。けれども僕は、それだけでは漫画の世界に進歩は無いと思うのです。皮肉めいた小説、ひねった小説のような……けれども小説ではない、既存の漫画とも違う、まったく新しい漫画があっても良い、そう思うのです。そして子ども達も、きっとそういう漫画を受け入れてくれる。そう確信しています」

 手塚ははっきりとものを言った。

『新宝島』のヒットが、彼に自信をもたらしたのだろうか。手塚がここまではっきりと自論を主張するのは、これまでに無かったことだった。

 ――手塚の主張にも一理はあるかも知れない。

 と、七馬は思った。

 しかしそれでも、彼はあえて首を振った。

「手塚君。それは大人向け漫画の道や。子どもにはやはり明るい漫画が合っとる。例えば前の『新宝島』――あれを、君は当初、夢オチにするつもりやったな?」

「はい」

「もしもそのままやったら、どうなっとった? 子ども達が、こんな宝島を冒険したいと思っていたその気持ちを、実は夢でした、こんな話はありえませんと現実を突きつける、それが子どもにとって必要なことか? 子どもに夢をもたせるだけもたせておいて、最後は打ち砕く。そんな漫画を子どもに読ませてええのか? それは子どもの夢を壊すことやないか!」

「いえ、例えそんな作品だったとしても、子どもたちはきっと受け止めてくれます。子どもはそんなに弱くはない!」

「手塚君!」

「明るく笑わせて、楽しい夢を見させるだけが漫画ではないでしょう。泣きや悲しみ、怒りや憎しみのテーマを使い、必ずしもハッピーエンドではない子ども向け漫画があってもいいはずだ!」

「そんな現実的な話は子どもにはいらん!」

「そんなことはない! ピーターパンでもウェンディの両親が大人の現実主義を振り回します。だからこそ、夢はいっそう美しく輝くんです!」

「何を、馬鹿な――」

「夢の裏に冷たい現実を含ませることで、作品はよりリアリティを増し、面白さも増す。そして子どもたちは物語の世界に――そう、夢の世界に没入していけるのですよ! 僕は、もうひとつの世界そのものを読者に与えたいんです! それこそが僕の考える夢の形です!」

「違う! それは作り手の自己満足や!」

 七馬は、かぶりを振って叫んだ。

「子どもにはもっとシンプルに、楽しい夢を見させることが大事なんや! それこそが娯楽や。それこそが漫画なんや!」

「酒井さん、それこそ自己満足の世界ですよ!」

「何ッ!? 手塚君、いまなんと言った!!」

「現実の読者に自分の理想を押し付けて、新しい世界を描こうとしない。これを自己満足と呼ばずになんと呼ぶのです!」

「ッ……!!」

 二人の男が、睨み合った。

 七馬は、激しく憤慨している。

 手塚も青筋を立てて興奮していた。

「…………」

「…………」

 二人の荒い息が、部屋中に染みとおっている。

 少し、風が強く吹いた。

 がたがたと、窓ガラスが音を立てる。

「君は」

 七馬は、ゆっくりと口を開いた。

「子ども達に、夢を与えようと思わんのか。日本のディズニーになると言ったのは、うそやったんか」

「うそではありません」

 手塚はすっくと立ち上がった。もう、話すことはないという感じだ。

「僕は僕のやり方で、僕の考える夢を、子ども達に与えたいのです。……新しい形の夢を」

 そう言うと手塚は『怪ロボット』の原稿を七馬の目の前に置いた。

「これはお返しします。僕では酒井さんの夢を描けそうにありませんから」

「わしと縁を切る、言うんか」

「…………」

 手塚は何も言わず、七馬の家を後にした。

 あとには『怪ロボット』の原稿だけが残っている。

 七馬は残された原稿を、一枚一枚、丁寧に見ていった。

 やはり、抜群にうまい。

 認めなければならない。

 手塚は、七馬よりもうまい。

(嫉妬していなかった、と言えるか……?)

 七馬は自問した。

 自分より二十歳以上も若い新人が、自分よりも絵がうまく、大坂ときをが頼りにしているのを目の当たりにして、嫉妬していたのではないか。そうではないと断言できるのか。

(そうではない、と……)

 そうではない。

 自分と手塚の対立は、信念のぶつかり合いなのだ。


 子ども達にはあくまで明るい夢を、と主張する自分。

 もうひとつの現実、という夢を描こうとする手塚。


 明るい作品こそ何よりの娯楽と考える自分。

 暗い部分まで含めた娯楽があっていいと主張する手塚。


 子どもたちには楽しい世界を、と思った自分。

 悲劇を含めた世界さえも、子どもは楽しむと訴える手塚。


 二人の人間そのものの、避けられない激突だったのだ。


(と、言えるだろうか)

 七馬には分からない。

 なお、この日のことは手塚の日記に、単純に、しかしはっきりと記されている。

「酒井氏のもとへ「怪ロボット」の原稿を返す。これで彼とは関係をなくすることにしたのだ」


 後日談がある。

 七馬の家に、手塚が母親と共に手土産を持参してやって来たのだ。

「この度は、息子がとんだ粗相を致しまして……」

 手塚の母は昔気質の女性である。息子が年上の恩師とけんかをしたと聞いて、まずは謝るべきだと主張し、頭を下げに来たのだろう。

 手塚もまた、頭を下げた。

 七馬はそんな二人に笑って対応した。

 ひとまず表面上は、七馬と手塚は和解した。

 だが二人はすれ違った。創作者同士の信念がかみ合わなくなった以上、その心はもう二度と通い合うことはない。

 事実、七馬と手塚はその後、一度も合作をしていないのである。

(『まんがマン』は潰れた。手塚君とは縁が切れた……)

 自分の人生に、何やら暗い影が射し始めたような、そんな気がした七馬であった。

 七馬は気が付いていない。

 近頃、笑わなくなっている自分に。

 だが時間は容赦なく流れる。

 世相が安定していくに連れて、米軍キャンプの似顔絵の仕事も次第に失われていった。

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