酒井七馬と手塚治虫
須崎正太郎
第1話 焼け跡の憧憬
男が笑っていた。
漫画家である。
笑わせるのが仕事と言える。そんな自分が落ち込んでばかりはいられない。だからまず自分が笑うのだ。
そう思った。
漫画家は、瓦礫の山と化した大阪の街に立っている。
絶望的な光景が広がっていた。崩れたコンクリートの山が、焼けた木材が、ずたぼろになった自転車や車が、成す術も無くその場に放置されている。一九四五(昭和二十)年八月末の大阪はこのような有り様であった。
そんな焼け野原を、薄汚れた子ども達が歩いている。
親はいるのかいないのか。数人で群れをなして、とぼとぼと歩いていた。
漫画家はそれを見て、
「笑わせなあかんな」
シケモクを吹かしながら、ぽつりとつぶやいた。
人に聞かせて良い言葉ではない。天皇陛下が戦争の終わりを告げた玉音放送からおよそ半月。人心は未だ落ち着かず、こんなときに笑えと言えば、不謹慎だと罵られかねない。
だが、漫画家は大真面目である。
「人間は笑うのが仕事なんや」
数ある生き物の中で、笑うことができるのは人間だけだ。万物の霊長を気取るのであれば、笑え笑え、とにかくニッコリ笑って生きろ。それこそが、人間が人間たる何よりの証ではないか。
「だから、笑わせる」
漫画家は焼け跡を眺めながら言ったものだ。自分の漫画で、敗戦に打ちひしがれた子ども達を笑わせる。笑わせてみせる。
自分の作品にはそれだけの力がある。そう自惚れている。
「自惚れておらねば、漫画家などやっておれんわ」
と、本名酒井弥之助は、誰に言うでもなく一人で笑った。
漫画家としてのペンネームは、
このとき、既に四十歳。もう若くはない。
一九〇五(明治三十八)年、大阪市南区(現在の中央区)に生まれた七馬は、長じると兄が漫画の下絵を描く仕事をやっていた縁から、自分も漫画を描き始めた。
やがてその実力が評価され、京都日活の漫画映画部に勤めることになった。漫画映画とは、現代で言うアニメーションである。漫画映画部の従業員はわずか十人で、実力がある者しか雇われない少数精鋭の職場だった。いかに七馬が優れた絵描きだったかが分かる。
つまり七馬は、戦前の漫画及びアニメ業界における重鎮であった。
自惚れるだけの実績があったのだ。
そんな七馬も、いまはみじめに飢えていた。
金がない。
食べ物もない。
太平洋戦争が激化すると共に、漫画やアニメの仕事は失われていった。娯楽に目が向けられなくなった。大衆から余裕がなくなったためだ。
そうして仕事が失われていった矢先に、三月十三日の大阪大空襲によって、七馬は住んでいたアパートを焼かれてしまい、住居と財産を失った。
住むところだけは、知人の家に転がりこんでなんとかなった。居候である。
だが、確保できたのは住むところだけだ。
何せ仕事がない。だから、繰り返して言うが金がないし食べ物もない。
(夢しかないわ)
七馬には夢がある。
はるか海の向こうにあるアメリカでは、とても明るい漫画やアニメがあるらしい。
特にディズニーという人物が作り出したアニメは、それは素晴らしいそうだ。それをこの目で見てみたい。
そしてできることならば、そんな漫画やアニメを自分で作ってみたい。
戦前、七馬はアニメを描いていたが、それは決して満足のいくものではなかった。技術的にもレベルが低かったし、何よりも戦争が激化すると共に、戦争や軍隊をひたすらに礼賛するアニメばかり作らされたことが、我慢ならなかった。
「もう、あんな漫画やアニメはごめんや」
描きたい。
自分だけの漫画やアニメをやりたい。
強烈な、人間の心を徹底的に動かすような作品を、この手で作りたい。
特に子ども達を笑わせたい。
――四十歳にもなって嫁も持たずに。何がアニメや。
そんな冷たい視線を向けられたこともある。
だが、年齢など糞食らえである。やりたいものはやりたいのである。夢を失ったとき、人の精神は老いていくものだと、七馬は思っている。
「しかし、銭が無い」
漫画を描くにも、アニメをやるにも、金が要る。しかし七馬は無一文だ。
ならば、稼ぐしかない。
そのために七馬は歩いている。
向かう先は闇市だ。
闇市――
国家が管理していない食料や物品を、どこからかかき集めてきた連中が非合法に売買する場所だ。
もちろん違法である。しかし違法を承知で闇市を利用しなければ生きてはいけない。当時の日本人はそれほど貧しく、かつ飢えていた。
七馬が向かった闇市は、上本町六丁目で開かれている闇市だった。二十一世紀のこんにちにおいては、複合型の商業施設【うえほんまちハイハイタウン】があるあたりなのだが、終戦直後は荒んでいた。
闇市に到着すると、七馬は目を見張った。驚くほど多くの人々が行きかい、どこから集めたのか、食料や生活必需品を販売しているのだ。
「米、あるで。米、あるで。銀シャリやで。嘘やあらへんで、本物やで」
「おっちゃん、タバコあるで。買うていかへんか?」
「小豆あるでー、小豆あるでぇー。これは甘いでぇー、甘うて甘うて、ほっぺたが落ちるでぇー」
――暗黒の活気やな。
闇市を歩きながら七馬はそう思った。
まったく、惨憺極まる光景だ。闇市で売られている物は、例えば農家などから買ってきた物ならばまだ良い。中には焼け跡から盗んだ物もあるだろう、あるいは人から奪った物もあるだろう、ついには死体の衣服からハイエナのように奪い取った物もあるに違いない。
それを証明するかのように、ふと視線を横に向けると、やせ細った男がごろんと横になっていた。一見して、死んでいると分かる。
(餓死者か)
もはや見慣れた光景である。心の中で念仏を唱えつつ、七馬はその場を去った。
雑踏の中を二百メートルほども歩いたか。
(このへんでええやろ)
そう思った七馬は、どっこらしょ、と言って大きめの石に腰掛けると、風呂敷包みの中から丸い厚紙を何枚か取り出した。
メンコである。
闇市の中には、子どもも歩いている。そんな子ども達の娯楽商品として、もしかしたら売れるのではないかと考えた七馬は、厚紙に絵を描いてメンコを作成したのであった。
「一枚でも二枚でもええ」
とにかくメンコが売れて欲しい。いずれ作る漫画やアニメの元手とするのだ。
メンコ用の厚紙には原稿用紙を使った。
このご時世である。紙さえろくに手に入らない。
焼け跡から見つけ出した漫画用の紙は、貴重なものだったが、背に腹は代えられなかった。
「わしのメンコや。きっと売れるで」
七馬は足元に風呂敷を敷くと、そこにメンコを数枚並べた。
「メンコォ。メンコは要らんかあ? 人間、遊びを忘れたらあかんでぇ。メンコォ」
七馬なりに、声を張り上げてメンコを売ろうとする。
「メンコ要らんかあ」
渋めの声を張り上げた。
しかし、元々が客商売の人間ではない。どれほど叫んでも、周囲の声や音にかき消されてしまう。
まして、商品が商品だった。
大人は絶対に買わないメンコである。
たまに子どもが物欲しそうな目で見てきても、買うお金が無いから、そのまま立ち去ってしまう。
中には親子連れで来ている者もおり、
「父ちゃん、これ買うてんか」
と、父親におねだりする子どももいるのだが、
「あほう。こんなもん、買う余裕があるか」
と言って、父親はさっさとその場を立ち去ってしまうのだ。
(あかんわ)
現実は予想以上に厳しかった。
思わず、ため息が出る。
まったくお笑いである。子ども達に夢を与えると息巻いたはいいが、この体たらくでは笑うしかない。夢どころか今日の食い扶持さえ稼げそうにない。
それでもなお、希望は捨てなかった。
考える。
(売る場所か、方法が悪かったかな)
自分の作ったメンコがつまらないのではないか。
――とは、考えもしなかった。七馬は自分の仕事を卑下しない。何も漫画に限らず、男が自分の仕事を卑下するようになってはおしまいだと思っている。
(さて、どうしたもんやろ)
あくまでも七馬は前向きだ。
メンコを一枚一枚眺めながら、次の策を考えていると、
「おっちゃん、珍しいもん売っとるな」
甲高い声が聞こえた。まだ、ろくに声変わりもしていない少年の声だ。
七馬が顔を上げると、そこには十四、五歳くらいの少年がにやにや笑って立っていたのだ。
少年にしては背が高く、しかし痩せぎすで、すらり、というより、ひょろり、と表現したほうが正しい。そんな少年だ。
「これ、メンコか。はぁー、懐かしいな。こんなもんもあったなあ」
「坊主、買うてくれるんか」
七馬は愛想笑いを浮かべてそう言ったが、しかし少年は七馬の言葉を無視して、
「これ、絵がええなあ。おっちゃん、これ、どこで仕入れたんや」
と聞いてきた。
「これは仕入れたもんやない。わしが描いたんや」
「おっちゃんが? 本当か?」
「嘘をついてどうするんや。わしは漫画家やで」
「へぇー、漫画家」
少年は目を見開いて、ジロジロと七馬を眺める。
「漫画家いう人種を初めて見たわ」
「未開の土地の人間みたいに言うなや」
あまりにもあけすけにものを言ってくる少年を、七馬はさすがに鬱陶しく思い始めた。
「坊主、メンコ買わへんのやったらどっか行ってくれや。商売の邪魔や」
「邪魔? あっははは!」
「何がおかしいんや」
「邪魔するも何も、客なんかおらんやないか」
「これから来るかもしれんやろ」
「来えへん、来えへん! 大体おっちゃんは商売の手際が悪いんや。この闇市で、メンコなんて糞の役にも立たんものを、ただボサーッとしとるだけで、売れるはずがないやないか」
「糞の役にも立たん、とはなんや」
七馬はそう言いながらも、腹が立つよりだんだんおかしくなってきていた。事実、国民みんなが腹を空かしているこの時代に、メンコなど確かに糞の役にも立たない。
七馬が感じたおかしみが、少年にもあるいは伝わったのか。彼はニコニコ笑っている。
「おっちゃん、こういう場所で役にも立たん物を売るには、どないしたらええか、分かるか」
「分からん」
正直に答えた。
「パフォーマンス、や」
少年はそう言うと、声を落として七馬の耳に何やらヒソヒソと耳打ちした。
七馬は眉をひそめて、
「そないなことをやるんか」
と言うと、少年はウンウンうなずいた。
「おっちゃんがホンマの漫画家やったら、それくらいお茶の子さいさいやろ」
「そうやなあ」
少年の提案は、あまりにも馬鹿げたものだった。
しかし、そこは酒井七馬、漫画家である。ユーモアのセンスは人一倍あるし、ふざけるのが好きな男であった。どうせ駄目でもともとだ。この坊主の口車に乗ってやれ。そう思った。
「よっしゃ、ひとつやってみるか」
人々が行きかう闇市に、少年の甲高い声が響く。
「さあさあ皆さん、お立会い! こちらにいてはるお方は大阪が誇る天才漫画家、酒井七馬先生や! 皆さん、知ってはりますやろ! 何、知らない? お兄さん、あんたさてはモグリやな? いや、隠しても分かる。顔に書いてあるで!」
巨大なコンクリートの壁の前。元はビルディングだったであろうそのコンクリートは、空襲によって無残にも崩壊し、いまやただの真っ白な壁だけの存在となっている。
そのコンクリート壁の前で、人を集めるために甲高い声で騒ぎまくる少年と、一枚の手ぬぐいを持った七馬がいた。
「さあさあ、皆さん。お代は要らんで、ちょっと見ていってくれへんか! こちらの酒井七馬先生がいまからなんと、目隠しをしながら漫画の絵を描くで!」
二人の前に集まった十数人の観衆が、ニヤニヤ笑いながら腕を組んでいる。「オウ、やれやれ!」と、どこからか酔っ払った声が聞こえてきた。
少年はニッコリ笑って、
「それでは先生、お願いします!」
チャンバラ芝居に出てくる悪役のようなセリフを口にした。七馬はニコリともせずに手ぬぐいを目にかけ、後頭部でギュッと縛る。
手ぬぐいで目隠しをした状態である。目の前は、まったく見えない。
(これは見えんなあ……)
だが七馬の腕には、漫画を、またアニメを、何千回、何万回と描いてきたその技術が染み込んでいる。
目隠しをして絵を描くなど、さすがの七馬もこれまでやったことが無い。
しかし七馬は、なんとなく分かった。
見えないはずの目の前に、絵を描くべき場所がある。あとはそこに絵を描くだけだ。
目隠しをした七馬の右手には筆がある。漫画家の仕事がいつどこで来るか分からないと思って、常に持ち歩いている筆だった。
その筆が、動く。
コンクリートの白い壁。その壁がキャンバスだった。
目隠しをした七馬の腕が、動く。その動きには一瞬のためらいも無い。すらすらと、動く。
数十秒後、七馬は筆を止めた。
「完成や」
そう言って、手ぬぐいをほどく。
復活した視界に、少年と観衆の驚いた顔があった。
コンクリートの壁には、見事な猿の顔が描かれていた。そして、その猿にはチョンマゲがのっかっている。
「太閤はんや!」
観衆の誰かが叫んだ。
なるほど、それは確かに太閤秀吉であった。七馬は、猿に似ていたという戦国武将、豊臣秀吉を漫画チックに描いたのだ。
その絵は数十秒で描いただけあって、実に簡素な線で、しかし素人にも分かるほど見事な漫画タッチで描かれた秀吉であった。
「おっさん、やるやないか!」
「おう、次はのらくろ描いてくれや!」
「それにしてもうまいもんやなあ!」
観衆がわっと沸く。少年と七馬は目を合わせて微笑み合った。
それから七馬は観衆の要望に応えて、目隠しをしながらコンクリートの壁に様々な絵を描いた。中には、手ぬぐいに仕掛けがあるのではないかと疑う者もいたが、
「そしたら、あんたの手ぬぐいで目隠しをしてもらいましょ」
と七馬は言った。
ケチをつけてきた観客は七馬の言う通り、自分の手ぬぐいで彼の目を隠した。しかし七馬はそれをものともせず、またまたうまい忍者の漫画絵を描きあげた。
(これがプロというものや)
七馬は内心、得意であった。
まったく不安が無かったわけではない。紙の原稿ならば、まず間違いなく、目をつぶっていても絵を描ける自信があった。しかしコンクリートの壁に絵を描くのはさすがに少し怖かった。
(しかし、うまいこといったな。案ずるより生むが易しとはこのことや)
そしていつの間にか、コンクリートの壁は七馬の絵でいっぱいになった。
「これでもうお開きや」
七馬がそう告げたとき、観衆は実に五十人前後にまで膨れあがっていたのである。
そして、七馬のメンコはすべて売れた。中には、
「メンコは要らんで。楽しませてもろうたさかい、貰ってくれや」
と言って、お金を置いていった者もいた。
「おっちゃん、うまくいったやんか」
七馬の両手に溢れたお金を見て、少年はニッコリ笑った。
「おお、うまくいったわ。坊主のおかげや。おおきにな」
「礼なんてええよ」
「いや、坊主がおらんかったら、ここまでうまくはいかんかった。この金、半分は坊主のもんや。持っていけ」
「せやから、ええて!」
お金を渡そうとする七馬。だが少年は両手を振って断る。
そして彼は恥ずかしそうに、頬をポリポリ掻きむしった。
「正直言うと、俺もこんなにうまくいくとは思わへんかったんや」
「ほう。もしも失敗したときはどうするつもりやったんや」
「そんなもん、逃げるだけやないか」
「こいつ」
七馬は殴る真似をしたが、もちろん本気ではない。親子ほど年が離れた二人は、ニヤニヤ笑い合った。
「なあ、おっちゃん。金なんか要らんさかい、代わりにお願いがあるんや」
「お願い?」
「うん」
少年はまた頬を掻いて、恥ずかしそうに言った。
「俺に絵を教えてくれへんか」
「絵を?」
「うん。俺も、漫画家になりたいんや」
少年は真剣な眼差しで、七馬を見つめた。
「坊主……」
「別に今日の出来事で興奮したからやないで。昔から、漫画を描きたい描きたいと、ずっと思っていたんや。せやけど戦争でそれどころやなかったやろ? それでこの間、やっと戦争が終わって、日本が負けて――」
「……」
「この先、日本はどうなるんやろうかとずっと不安で……俺はどうしようか、どうしたらええんやろかとずっと考えて、せやけど分からんで……今日もそれで、自分の気持ちをごまかすように、ぷらっと闇市にやって来たんやけど……こうしておっちゃんと出会えたのもきっと何かの縁や。頼む、おっちゃん。――いや、お願いします!」
少年は姿勢を正しくし、口調も変えて、七馬に頭を下げた。
七馬は迷った。
漫画家は決して楽な商売ではない。まして、こんな時代である。ただでさえ先の保証が無い職業だが、日本全体の先が見えないこの時代に、漫画家を目指せなどと言っていいのかどうか。自分一人ならば飢え死にしようが野垂れ死にしようが勝手だが、こんな前途ある少年を巻き込んでいいのか。
だがそのとき七馬の脳裏に、先ほどの観衆の笑顔がよぎった。
(楽しそうやったなあ)
七馬が壁に絵を描く度に、観衆が笑い、拍手を送る。
(みんな、娯楽に飢えとったんや)
満足そうな観衆の顔。それを見て、七馬は直感したものである。
戦時中、ありとあらゆる娯楽は規制された。遊びなどというものは日本人を堕落させる、けしからんという理由で次々と無くなっていった。
代わりに出現したのは、ひたすらに軍事色溢れるものばかりで――それは娯楽と呼べるものではなかった。
小説も、映画も、芝居も。そして漫画とアニメも。ひたすらに戦争と軍隊を賛美したものだけが生産され、消費されていった。
七馬もそれに加担している。『空の慰問隊』という軍事アニメが、一九四二(昭和十七)年十二月に公開されているが、その作画を担当したのが七馬なのだ。
――アホらしい追従アニメやな。
内心、そう思いつつも、時代に逆らうこともできず、七馬は戦争賛美の漫画やアニメ、イラストを描き続けたのだ。
(そんな時代にうんざりしとったんは、わしだけやなかったんやな)
多くの観衆からお金を貰いながら、またニコニコ笑って闇市を去っていく人々を見ながら、七馬はそう思ったものだ。
人間はメシを食うだけで生きているのではない。心を豊かにする娯楽が必要なのだ。そして漫画やアニメは、その娯楽のひとつである。
戦争は終わった。
だが、未だに日本国民の心は暗いままである。
そんな国民の暗い気持ちを明るくする。笑わせるのが自分の使命だ――
焼け跡の大阪を眺めながら思った、あの決意が七馬の胸に甦る。
七馬は、自分の前に道が開かれたような気がした。ならばその道を、共に歩む同志がいてもいいではないか。そして同志ならば、年齢などは関係無い。志が同じならば少年であろうと仲間である。
「よし、坊主。ええで。漫画を教えたる」
「えっ」
先生、それはほんまですか、と言いながら少年が頭を上げる。七馬は笑ってうなずいた。
「ほんまや。ただ、先生言うのはよせや。わしのガラやない。先生と弟子やなくて、友達になろうや」
窮屈な上下関係が嫌いな七馬はそう提案した。
少年は、分かりました、と言ってから、
「先生があかんのやったら、どう呼べばよろしいですか」
「そうやな。ヤノサン、でええ。昔、雑誌などに漫画を描いとったころは、そう呼ばれとった」
七馬の本名、弥之助のヤノをさん付けで呼んで、ヤノサン。七馬は親しい人間からはたいてい、こう呼ばれていた。
「そしたら、ヤノサン! 俺に漫画を教えてください!」
「おお、ええよ。一緒に頑張ろうや」
「はい!」
少年はニッコリと笑った。
この漫画家志望の少年、名は
人なつっこい笑顔である。
松葉健の笑顔を見て七馬は、日本の未来もまんざら暗いものではあるまいと、そう感じた。
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