第1章 最果ての国5
間もなく夜が明けようとしている。東の空が淡く浮かび始めているが、地上はまだ夜の闇を深く残している。夜の獣が住み処へと去り、沈黙は冷たさを持って辺りを取り巻いていた。
村の入口には、ミルディと老ドルイド僧を含めた5人が、旅支度の格好で並んでいる。
村人の何人かが、見送りにやって来ていた。
ミルディ
「村はよろしく頼みます」
ミルディの従兄弟
「帰りをお待ちしております」
ミルディが踵を返す。
東の山脈が、薄く光を宿し始める。
ミルディ
「3日目の夜明けには戻ります」
ミルディが進み始めた。それに続くように、老ドルイド僧と3人の従僕が従いて歩き始めた。
村を出ると、細い小道がヒースの草原を横切っている。しかし小道はすぐに途切れてしまう。ミルディは、人を寄せ付けぬ魔性の世界へと足を進めていく。
やがて日が昇り、森に昼の光が射し込み始めた。緑色が明るく映えて、下草を彩り豊かに浮かび上がらせる。ささやかな獣や虫の声に、葉がこすれ合う音が混じる。
しかし油断ならない闇が、森のあちこちに潜んでいる。魔性の気配が旅人を迷い込むのを待ち構えている。
人界から遠く離れた森の景色に、村人らがにわかに怯えを浮かべ始めた。ささやかな音や気配に、亡霊の呻き声を聞くようにビクビクと顔を引き攣らせる。
深く茂る下草に、不浄の者達が残した足跡がいくつもあった。数日前の戦の時のものだろう。
ミルディは構わず森の外縁を、急ぐくらいの足で進んだ。旅はまだ、森の暗い場所には入っていない。魔獣の気配も、まだ感じさせなかった。
やがて、草むらを横切る小さな小川に沿って森を外れた。小川のせせらぎは清く、不浄など混じっていなかった。旅人たちは、この小川で喉を潤す。
間もなく、日が西へと傾き始める。空が暗い影を孕み始めた。穏やかに見えた風景は、急速に魔の気配を強めていく。
ミルディたちは旅の順路を外れて、明るい森の中を進んでいた。
老ドルイド僧
「清らかな霊力を感じる。安全な領域に入ったようじゃ。人の住み処を探そう」
ミルディたちも、体に穏やかなものを感じていた。森を取り巻いていた悪霊の気配から解放され、くつろぎたいような気持ちになった。一日の旅の疲労が現れたのだろう。
森の向こうに、いくつかの人家が現れた。土壁に茅葺きを乗せた、貧しい家だった。煙突から細い煙を噴き出していて、人の所在を示していた。
ミルディたちは宿を得ようと、家へと向かった。
女
「ドルイド様ですか!」
すると、横から女の悲鳴のような声がした。振り向くと、中年の女が手に持っていた籠を放り出して、老ドルイド僧に駆け寄ってくるところだった。
老ドルイド僧
「どうなされた」
女
「私の主人が……どうか、救ってください」
女に案内されて、ミルディたちは家の中へと入っていく。奥の部屋のベッドに、男が寝ていた。
男の様子を見て、老ドルイド僧ははっと顔を強張らせる。男の体が薄く影を消しかけていた。表情はなく、うつろな目は茫然と天井へと投げかけている。意識はあるが意思は絶えつつある――そんな様子だった。
老ドルイド僧は、男の手を握り、呟くように呪文を唱えた。
女
「主人は……主人は助かるのですか」
老ドルイド僧
「この者は、魔の者に名前を奪われたのじゃ。今できる処置は済ませた。紹介状を書くから、明日の朝早く、大パンテオンを目指して旅立つのじゃ。しかし無理はしてはならぬぞ。信頼できる同伴者を連れて、明るい場所を進むのじゃ。外に出ると、危険な森がいくつもあるからな」
女
「ありがとうございます」
老ドルイド僧
「今日はゆるりと休むがよいじゃろう。すまぬが、我々のぶんの食事もいただけるかの。1人につき、パンが1切れあれば充分じゃ」
食卓に案内されて、女がミルディたちに食事を振る舞う。パンだけではなく、スープと果物も用意された。
村人
「ドルイド様、あの者はいったい……」
老ドルイド僧
「魔物に名前を奪われたのじゃ」
村人
「名前を奪われてしまうと、あのようになってしまうのですか?」
老ドルイド僧
「そうじゃ。お前たちもよくよく注意することじゃ。魔物を前にして、軽々に名前を口にしてはならない。魔物の中には人の名前を奪う者もおるからの。名前を奪われてしまうと、その者は影なき者として、人から忘れられ、自身の役目を忘れ、最後には命を落として森を彷徨う幽鬼と成り果ててしまう」
ミルディ
「あの女は、夫の名前を口にしませんでした」
老ドルイド僧
「そうじゃ。名前を奪われてしまったから、もう夫の名前を思い出すことすらできなくなったのじゃ。あと1歩遅かったら、あそこで眠っている男が誰なのかもわからなくなっておったじゃろう。たまたま通りがかったとはいえ、間に合ってよかった」
村人
「よくわからねぇ。なんで魔物は人間の名前なんて欲しがるんだ?」
老ドルイド僧
「おぬしは、名前を知らぬ者を斬れるか? 偽りの名前をまとった者を本当に殺すことはできぬ。斬ったと思っても、それは偽りだからじゃ。魔物の中には偽りの名前を盾にする者がおる。そういう魔物を殺すには、本当の名前を明らかにせねばならない」
村人
「ドルイド様ならわかるんですよね」
老ドルイド僧
「いいや、わからぬ。古い文献や、人々の記憶の中にヒントが隠されておるが、それを探らない限り、本当の名前はわからぬ。しかし我々の伝承によれば、姿を見ただけで、すべての名前を明らかにできる者がいるという」
ミルディ
「そんな人が……」
老ドルイド僧
「魔物たちもその者を恐れて、血眼になって探しておると聞く。もしも見付けられれば、我々にとって大きな成果になるじゃろう。……お主たちも気をつけることじゃ。名前はその者の存在を繋ぎ止める。名前を失った者は人生からも運命からも外され、終わりなき暗闇を彷徨うじゃろう。親や神から与えられた名前を、軽んじてはならぬぞ」
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