17. John and Eva
次の早朝。
気の早い夏の太陽がやっと昇りはじめたばかりのころ、窓から入る朝日を受けて、エヴァは浅い眠りから目を覚ました。
だるくて、身体の関節が重く感じる。
起きたばかりなのに、寝る前より今のほうが疲れているような感じがする朝だった。傷心はエヴァに安眠を与えてくれなかったようだ。横になったままで深いため息を吐いて、エヴァはふらふらと立ち上がった。
耳を澄ます──と、家の中は静かだった。
まだ誰も起きていないようだ。
ヴィヴィアンとアナトールは昨夜、あれから、どうしていたのだろう。朝日に目を細めながら、そんな考えがふとエヴァの頭を横切った。二人ともまだ起きてきていないということは、なにか進展があったとか……。
そこまで考えて、エヴァはもうこれ以上堪えきれない気分になった。
自分のせいだ。
すべては自分のせいだから、誰を責めることもできない。それでも苦しいものは苦しくて、エヴァはとにかくここから逃げ出したくなった。幸い、まだ誰も起きていない。理由はどうであれ。
エヴァは素早く着替えをすませると、できるだけ静かに廊下へ出た。
やはりまだ誰もいない。
安堵を感じると同時に、がっかりと落胆する気持ちもどこかにあって、エヴァは自分の懲りなささが嫌になるくらいだった。やはり、こんな状態はよくない。
とにかく、少しの間でもいいから、ここを離れたかった。
逃げることで、この状況を解決できるわけでないのは、分かっている。逃げるのはエヴァのやり方ではなかった。しかし、ほんの少しだけ……今日一日だけでいいから、アナトールとヴィヴィアンを見ないですむようにしたい。
エヴァは素早く考えを巡らせて、一階に下りると食卓に座り、そばにあった小さな紙切れに短い手紙を書いた。
『ジョンのところに行ってきます。なにか、手伝いが必要らしいので、帰るのは夕方以降になるかもしれません。
エヴァより』
書き終わった紙切れは二つに折りたたみ、ヴィヴィアンの目につきやすいように台所の上へ置いた。
おかしな気分だった。
手紙を書くという行為は、いつのまにかエヴァにとって息をするのと同じくらい自然なものになっていたのに、最後に自分の名前を記すのに違和感を感じるなんて。
それに気づくと、エヴァはますますここに居づらくなった。
やはりできるだけ静かに、二人を起こさないよう細心の注意を払いながら、エヴァは玄関を開けて外に出た。
木の上から鳥の鳴き声がする。
風はあまりなく、焼けるような太陽を約束する夏晴れの空が広がっていた。
エヴァはできるだけ早足で屋敷から離れ、街の方向へ急いだ。途中、何度か後ろを振り返ったが、誰も玄関から出てくることはなかった。
ジョンの両親が営んでいる仕立て屋は、エヴァにとって第二の家のようなものだ。
少女の頃から毎日のようにお邪魔していたし、大人になった今も、ジョンに会うために毎週のように顔を出している。
レンガ造りの2階建てで決して小さくはないのだが、ジョンを筆頭とする5人の兄弟姉妹に、そのそれぞれの友達たちがいつも溢れているものだから、なぜか狭苦しい印象がついてはなれない家だ。しかし、エヴァはここが好きだった。
小さい頃のエヴァは、家で嫌なことがあるといつも、ここを避難所にしていた。
そしてジョンは、いつもそんなエヴァを優しく迎えてくれた。
今日に至るまで、それは変わらない。
「エヴァじゃないか」
エヴァが『仕立て屋・ウェンティス』の通りにたどり着くと、ちょうどジョンが表から出てくるところで、彼はすぐにエヴァを見つけて驚いた顔をした。
手にしていた掃除用の布をズボンの後ろにたくし込むと、ジョンは駆け足でエヴァに近寄ってくる。
エヴァは言いようのない懐かしさを感じて、それに少し戸惑った。
アナトールがエリオット牧場に来てまだ一週間も経っていないのに、エヴァの人生はまったく違うものになっていたのだと、あらためて気が付かされたからだ。遠くのアナトールに手紙を通じて恋をするのと、実際に目の前で汗を流している彼に恋するのは、まったく違うことだった。
しかし、ジョンはそうではない。
彼はエヴァの日常で、世界で、いつも変わらずに優しく彼女を支えてくれる存在だった。
「おはよう、エヴァ……どうしたんだい? なにか嫌なことでもあったような顔をしているよ」
エヴァの目の前に立ったジョンは、片手でそっと彼女の頬に触れた。
ジョンは背が高くて、ちょうどアナトールと同じくらいの位置に顔があるのに、アナトールの側に立ったときと今では、まったく感じ方が違う。
アナトールにはいつも、エヴァのすべてを呑み込んでしまうような情熱がある。近寄るとそれだけで心臓が高鳴って、息が熱くなった。ジョンは真逆だ。ジョンを前にするとエヴァの心は和らいで、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
アナトールがエヴァを温める──ときには焼き尽す──太陽だとすれば、ジョンはエヴァという船をあるべき場所に留めてくれる
ジョンの優しげな瞳に見つめられて、エヴァはなんとか笑顔を作ることに成功した。
「やっぱり、そんなふうに見えるの?」
「『やっぱり』? それは本当に、なにかあったんだな。君がこんなふうにフラリと家に現れるのはたいてい、なにかで落ち込んだ時ばかりだから」
ジョンの言葉にエヴァは小さく笑った。
「あなたを利用しているつもりはないのよ」
「ところが、僕は君にいいように利用されていると思えてならない。もっと始末が悪いことに、僕はそれを一種の名誉だと思っているんだ」
口調はふざけていたが、ジョンの瞳は真剣だった。
そして口をきつく閉めたジョンは、しばらく黙り込んだあと、注意深い声で続けた。
「あの将校だね?」
エヴァはなにも答えられなかった。
しかし、エヴァの瞳にはきっと答えが書いてあるはずだ。エヴァのことを知り尽くしたジョンが、それを見逃すはずはない。
「まさか……彼は君になにか……?」
珍しく、ジョンの表情に怒りのようなものが見えて、エヴァは慌てて首を横に振った。
「ち、違うの! アナトールはなにも悪いことはしていないわ! 彼は本当によく働いてくれているし、とても紳士的よ。わたしにも、ヴィヴィアンにも」
──多分。
もしかしたら昨夜、それほど紳士的でない行為が、あったのかもしれないけれど。
「問題は……わたしなの」
エヴァは言いながら下を向いた。
嘘の名前で手紙を書き続けて、あげくの果てに、アナトールとヴィヴィアンの二人が一緒にいる姿に傷ついている。
どうしようもない惨めな女。それが自分なのだから。
ジョンは、特に否定も肯定もせずに静かにエヴァを見下ろしていた。これがジョンの素晴らしいところだ。彼はエヴァを批判したり、非難したり、彼の意見を押し付けたりしない。いつも黙ってエヴァの言葉に耳を傾けてくれて、最後にちょっとした助言を加える以上のことはしなかった。
再びエヴァが顔を上げたとき、ジョンの顔に怒りはもうなかった。
ただ、ジョンは小さなため息を吐き、エヴァに向かって「ちょっと待っていてくれ」と言うと店の中に戻った。
一分もしないうちに、ジョンは走りながらエヴァの元へ戻ってきた。
「午前中いっぱい、マーサに店番を頼んでおいたよ」
マーサはジョンの妹の一人だ。
ジョンとは年子で、エヴァも彼女のことはよく知っている。エヴァはか細い声で「ありがとう」と呟いた。
街から外れた人気のない丘を、ジョンとエヴァはしばらく無言で歩いていた。
しばらく雨のない日が続いていたから、地面は乾いていて、二人が歩いたあとは軽い砂埃が立つ。
小さい頃から二人でよく来ていた丘だ。時には二人きりで、時にはヴィヴィアンも加わって三人でこの丘を歩き、時が経つのも忘れて語り合った。
昔から、エヴァがジョンに相談事をしたり、秘密を告げたりするのもここだった。
どちらから言い出したわけでもない。気が付くと、この寂れた丘は二人の秘密の庭になっていた。そして今日もまた、どちらが先に言い出した訳でもなく、自然と二人の足はこの丘に向かっていた。
「それで、僕はどこまで聞かせてもらえるのかな」
ジョンはそう呟くと、足下から視線を上げて、隣のエヴァを見下ろした。
「どこまで……?」
「君があの男について、なにかを隠しているのは分かってるよ。なにを隠しているのかまでは、知らないけどね」
エヴァはぴたりと足を止めて、ジョンを見上げた。
彼の声に、まるでアナトールを責めるような響きがあったことに驚き、ショックを隠せずにいた。
日はすでに昇り、乾いた大地をゆっくり温めはじめている。
きっともう、アナトールもヴィヴィアンも起きているはずだ。書き手紙を残してきたとはいえ、突然エヴァがいなくなっていることに彼らはどう反応するだろうか。
心配するだろうか。
それとも、邪魔者がいなくなって好都合だと、二人きりの時間を楽しむのだろうか?
そう考えるとエヴァはもう黙っていられなくなった。
まるで涙がこぼれ落ちるのを止められないように、エヴァの口から告白の言葉がぽろりと出てくる。
「彼に……アナトールに手紙を書いていたのは、わたしなの」
自分がなにを言っているのか、エヴァは信じられなかった。
こんな告白をするつもりでここに来た訳ではなかった。もしヴィヴィアン以外の誰かがこの秘密を知るとすれば、それはアナトール本人でしかありえないのに。
まるで、アナトールを裏切っているような気分だった。
それでも、言葉は溢れ出て止まらない。
「アナトールはヴィヴィアンに手紙を送っていたのよ。でも、それに返事をしていたのはわたしなの。ヴィヴィアンの名前を使って。彼はまだなにも知らないわ……ヴィヴィアンはすぐ真実を告げるべきだって言ったけど、わたしには出来なかった。怖かったの。真実を知ったら、彼はすぐに牧場から去ってしまうって、分かっているから」
そう一気にまくし立ててしまうと、エヴァの瞳から一粒の涙が流れた。
どうしてこんなことをジョンに告白しているのか、エヴァには分からなかった。真実を口にすることで、少しでも心の重荷が軽くなるとでも思っていたのだろうか──だとしたら、エヴァは間違っていた。
心は軽くならない。
胸の痛みは揺るがない。
ただ、罪悪感がまた増えただけだ。
「馬鹿みたいでしょう? ひどい女でしょう? アナトールは、わたしが書いた手紙をヴィヴィアンのものだと信じて、大陸を渡ってまでここに帰ってきたのよ。大陸をよ! きっと何週間も掛かったはずだわ。わたしの嘘のせいで!」
エヴァは思わず声を上げていた。
「でも、昨日から……彼とヴィヴィアンが親しくなってきたの。アナトールはまだ真実を知らないけど、これで二人が結ばれれば、それで万々歳のはずでしょう? それなのにわたしは、二人に嫉妬して、傷ついてるのよ」
まるで自分が虫けらのような気がしてきた。
嘘つきで、邪魔者で、愛されないことに嫉妬している、美しい姉の醜い妹。
エヴァは涙のにじむ目でジョンを見上げながら、そんな侮蔑を彼の瞳の中に探した。きっとあるはずだと思ったから。きっとジョンは──もちろんジョンだけでなく、すべての人は──エヴァのことを蔑む。彼女自身が、誰よりもそうだった。
しかし、エヴァを見下ろすジョンの目には、そんな感情はまったくなかった。
エヴァの希望的観測などではない。エヴァはそんなふうにジョンの気持ちをとり違ったりするには、彼をよく知りすぎていた。
かわりにあるのは……なんだろう。
安心? 安堵?
ジョンはただ、優しい瞳で静かにエヴァを見下ろしていた。
「あなたは……怒らないのね」
エヴァは呟いていた。
「怒る? 僕が、君に?」
心底、心外だというような声で、ジョンは答えた。
しかし彼の表情は柔らかいままだ。
ああ、いつか来るであろう、エヴァがアナトールに真実を告げる時も、こんなふうに穏やかであってくれればいいと、どれだけ願っただろう。
でも、エヴァは気が付いている。
紳士的に振る舞ってくれてはいるが、本当のアナトールはとても熱くて、激しい人だ。エヴァの嘘を知ったら、ひどく怒るのかもしれない。ひどく……エヴァを軽蔑するのかもしれない。それを想像するだけで身を切られるような痛みがした。
ジョンは軽く微笑んで、首をかしげた。
「なんの理由で? 君に悪気があった訳じゃないのは分かっている。それに、なんとなくそうなんじゃないかって気も、実はずっとしていたしね」
「え……?」
「それに彼も、」
と、言いかけて、ジョンは口をつぐんだ。
驚いた顔のエヴァをしばらく見つめたあと、ジョンは小さく一つ咳払いをして、背筋を正すとエヴァの両手を取った。
「とにかく。君が罪悪感を持つ必要はないと思う。二人が上手くいきそうなら、なおさら。そして、君がそれに嫉妬しているということに関しては……僕に提案がある」
二人は誰もいない丘で見つめ合った。
小さい頃から知っているジョンの瞳が、なぜか急に知らない男性のものになったような気がした。握られた手が、熱い。
なぜだろう。
「エヴァ」
ジョンはゆっくりと、単純で短いこの名前が、世界で一番珍しくて美しい花の名前をさす語であるような敬意と愛情をもって、彼女を呼んだ。
「ここから少し離れたところに、売り出し中の牧場がある。戦争が終わって、これから土地の値段は上がるはずだ。近いうちに僕はそこを買おうと思ってる」
「ま、まぁ」
どう答えていいのか分からず、エヴァは呟いた。
すると、ジョンの手はさらに強くエヴァの手を握った。
「僕と来てくれないか、エヴァ。僕と……結婚してくれないか」
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