16. A Reason to Fight
戦争が始まったばかりのころ、兵士たちの戦う理由は戦争に勝つことだった。
それが、時が経つにつれ亡き者への慰めに変わっていった。
復讐と言ってしまえば、分かりやすいだろうか。
昨日まで隣でいつも笑っていた戦友が、夜、野営地に帰ってくるころにはもういなくなっている。こんなことが繰り返されると、まともな精神の持ち主なら、なにか心に大きな寄りどころが必要になってくるのだろう──それが、復讐だった。
それは、アナトールでさえ例外ではなかった。
こうなると、もう、待っているのは地獄だけだ。
この暗い感情に捕われた者は、次から次へと新しい犠牲者になっていき、残された者はまたさらなる復讐を誓うことになる。終わりのない蟻地獄だった。
ただ一つ、この内なる狂気に打ち勝つことができるのは、復讐よりさらに深い感情だけだ。
多くの者にとって、それは愛だったのだろうと、今のアナトールは知っている。
階段を上がっていくにつれ、切ないエヴァのすすり泣きが聞こえてきて、アナトールは自分の耳の良さを呪わなければいけなかった。
くそ、泣き止んでくれ。
泣かないでくれ。
足音を立てないように静かに二階の廊下を進んだアナトールは、そのまま無言でエヴァの部屋の前に立って、しばらく佇んでいた。
やがて、泣き声はしだいに消えて、アナトールはほっと胸を撫で下ろした。
このままエヴァの部屋を通り過ぎ、自分の部屋へ戻ってしまうという選択肢も、あるにはあるのだろう。しかしアナトールは、それを選びたくはなかった。
アナトールは一息置き、耳を澄ましながら、エヴァの部屋の扉を二回、叩いた。
「は、はい?」
という、エヴァの戸惑った、くぐもった声が聞こえてきた。「ヴィヴィアンなの?」
「いや、俺だ」
アナトールが答えると、なにかが床に落ちる音が部屋の中から聞こえてきた。
「大丈夫か?」
さらになにかが落ちたか、それとも落ちたものを拾おうとしている音かなにかが聞こえてきて、エヴァはしばらくなにも答えなかった。アナトールは扉に顔を寄せ、もう一度同じ質問を繰り返した。
「エヴァ、大丈夫なのか?」
「ええ……その、ちょっと、待って」
そしてさらに妙な物音がして、やっと、エヴァはほんの数インチ扉を開けて、顔をのぞかせた。少し卑怯で物騒なのは分かっていたが、アナトールは素早く扉の隙間に足を滑り込ませて、扉を閉められないようにした。無理やりこじ開けることだって雑作なくできたのだから、このくらいは許されるだろう。
「入ってもいいか?」
アナトールが聞くと、エヴァは息を呑んだ。
「いいえ」
即答だった。
「じゃあ、外に出て来てくれるかい?」
今度は、返事に少し時間がかかったが、答えは同じだった。
「いいえ。話があるなら、ここでして」
「この扉の隙間で?」
「ええ」
分かったよ、君のゲームだ──アナトールはそう観念し、扉に挟ませていた足をひねり、隙間を少し押し広げた。エヴァは驚いてアナトールの足を見下ろし、そしてアナトールの顔と対峙すべく頭を上げる。
卑怯者、と彼女の顔には書いてあった。
「なにをしているの?」
「まともな成人同士が、普通に会話できるだけの空間を作っただけだ」
もし自分が、まともなという表現を受けるにふさわしければ、の話だが。そんな皮肉が脳裏に走ったが、アナトールは今、どうしてもエヴァに逃げて欲しくなかったから、この保険が必要だったのだ。
エヴァは少し押し黙ったあと、諦めのため息を吐くと、ゆっくり扉を開けた。
部屋の中には色あせた細かい花柄の壁紙が張り巡らせてあり、端にベッド、洋服ダンス、そしてもちろん、手紙を書くためのライティングデスクが置いてあるのが見える。
アナトールはつい、喉の奥から笑い声を漏らしそうになった。
実際に見た訳ではないが、きっとヴィヴィアンの部屋に置いてあるのはライティングデスクではなく化粧台だろう。アナトールには、あの机の前に座って手紙を書き綴るエヴァの姿が簡単に想像できた。
時には微笑みながら。
時には唇を震わせ、悲しみをこらえながら。
アナトールがそうしていたのと同じように、夜、ひっそりと一人きりになったあと、紙とインクで心の内を綴る彼女。それを思うと、アナトールは今すぐエヴァを抱きしめたい気分になった。強く、つよく。気が狂ったのだと思われてもいい。
しかし実際には、アナトールは待った。
エヴァ・エリオットはそのキャラメル色の形いい瞳を反抗的に細め、扉の横に立ち塞がっている。扉は開けても、さすがに中まで入れる気はないということだろう。
十分だ。
「もう一度同じ質問をさせてくれ。でも、同じ答えは聞きたくない。俺はなにか、君に失礼なことをしたかい?」
エヴァは首を横に振った。
「君を怖がらせるようなことをした?」
再び、エヴァは首を横に振った。
そして背筋を伸ばすと、エヴァは「アナトール」と、小さな声でつぶやいた。
「ん?」
「本当になんでもないの。本当に、疲れていて一人になりたいだけだから……あなたは、ヴィヴィアンのところに戻って」
「俺をここに寄越したのは、そのヴィヴィアンだよ」
嘘は言っていない。本当のことだった。
といっても、エヴァが席を立って二階へ駆け上がったあと、『後を追いなさいよ』という感じの鋭い視線を投げてきただけだったが。もちろん、一々ヴィヴィアンに指図されなくても、アナトールはエヴァの後を追っていただろう。
しかしその答えに、エヴァは驚き、そして悲しみのようなものを見せた。力なく首を振り、足下に視線を落としながらつぶやく。
「姉とは……少し話をしなくてはならないみたいね」
「どんな?」
エヴァは答えなかった。
少女のように下唇を噛み、小さく首を振る。
こんなふうな彼女を見るのは心が痛んだ。すっかり落ち込んで肩を落とし、小さな殻の中に閉じこもってしまったような彼女を。
しかもアナトールには、彼女の落ち込みの原因が自分の落ち度であるという、明らかな予感があった。そして、エヴァにはいつも笑っていて欲しいという、明確な欲求があった。
「すまない……君の気を悪くさせてしまったのなら、謝る。俺がなにか嫌なことをしたなら言って欲しい。最初に言ったとおり、分からないんだ、加減が。俺はまだ戦場から帰ってきたばかりで──」
そして、まともに誰かを愛したことがなくて。
最後にそう言いかけて、アナトールは自分を止めた。エヴァにも知らなくていいことがある。少なくとも、今はまだ。
エヴァは顔を上げてアナトールの瞳をじっと見つめた。
再び、驚きと悲しみと……あとはなんだろう、諦めのような暗い影が彼女の表情に差しているのが見えた。
「本当に。アナトール」
エヴァは首を振りながら答えた。
「本当にあなたはなにも悪くないのよ。本当よ。きっと想像もできないくらい、あなたは無実よ。わたしのことは、なにも気にしないで」
そして扉を閉めようとするので、アナトールはほぼ無意識に、それを片手で止めていた。扉の板がギッと音を立てて、閉まりもしない、かといって大きく開いているでもない中途半端な位置で止まる。
「俺になにができる?」
君のために。
君の笑顔のために。
アナトールは自分の声が、まるで懇願するような響きであることに気付いていた。それでも構わない。いっそ、エヴァにも気付いて欲しかった。
必死といっていいくらい真摯なアナトールの言葉を受けて、エヴァは、確かに微笑んだ。
しかしその微笑みは、アナトールが望んだような満点の笑顔ではなく、悲しみを隠そうとするカモフラージュだ。アナトールは顔をしかめた。
「なにもしなくていいの」
エヴァはまた下を向いて、呟くように言った。そして繰り返す。
「あなたは、なにもしなくていいのよ、アナトール」
そして扉は閉まった。
しばらく扉の前で呆然としたのち、アナトールは部屋の中のエヴァにも聞こえるくらい大きく、息を吸い込んだ。
そして覚悟を決めると、大股でもと来た方へ歩き去った。
一段抜かしに階段を下り、一階にもどると、疑わしげな顔をしたヴィヴィアンがまだ食卓について座ったままでいる。
ヴィヴィアンは、アナトールを見ると片眉を高く上げた。
「それで?」
アナトールは答えなかった。特に、答えるべきような答えもない。
「早くなんとかしてもらえると、嬉しいんだけど」
ヴィヴィアンの台詞に、アナトールは厳しい視線を送った。ヴィヴィアンは肩をすくめるが、まったく悪びれる様子はない。
──まったく、エヴァはなにを考えているんだ? 俺とヴィヴィアンが一緒になれば、一月もしないうちに殺し合いになるだろう。そのくらい分からないのか?
「なんとかするさ」
アナトールはぶっきらぼうに答えた。
そうだ。アナトールは戦場にいた。明けても暮れても嫌なことばかりだったが、それでもアナトールはあの修羅場でいくつかのことを学んだ。
図太くなること、諦めないこと、戦いはできるだけ早く終わらせること。
強くなること。
最前線で銃撃の雨を経験したアナトールにとって、ヴィヴィアンの刺々しい言葉も、エヴァの拒否も、楽園とかわらない天国だった。
『いつか私は君の土地にもどり、この愛のために尽くそう』
そうだ。
この言葉が現実となるとき、やっと、アナトールは少し、ほんの少し、天からの許しをもらえるのかもしれなかった。
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