第五章『大切なもの』

「ねぇ、お兄ちゃん?」


 マキナの膝で眠っていたカイが不意に声を出した。


「どうした? カイ」

「もう離れ離れは嫌だよ?」

「わかってる、あれが最後だよ。もうお前を離したりはしないよ、約束する」

「へへっ、ちょっと照れるね」


 頬を染めて、カイが視線を逸らす。


「言ってる方も結構恥ずかしいんだぞ?」


 あんまり照れられると言ったマキナの方が照れくさくなってしまう。マキナはその場の空気を変えるべく一つ大きな咳払いをすると、ところで、と続ける。


「あの化け物、いったいなんだったんだ?」


 その言葉には、あの化け物の存在に対する問い以上に『あの化け物が何故カイの名を呼んだのか』という意味が強かった。


 マキナの言葉を聞いたカイももちろんそれは理解しており、頭を抱える。

 

 当然ながらカイだって理由はわからないのだろう。疑問を解く鍵すらない。情報が不足しすぎている。この状況で答えを見つけること自体不可能だ。マキナ自身、考えても仕方がないことはわかっていた。それでも、あの化け物が言った言葉が頭にべっとりと張り付いて取れなかった。


「まぁ、考えたってわからないよね。またあいつらが出て来てもしっかり守ってやるから、安心して、カイ」


 マキナは心に不安を感じつつも、カイを安心させるように言った。カイが笑うのに会わせ、いつものように優しく頭を撫でてやる。


「それにしてもカイ、お前が無事でよかったよ。本当にどこも怪我してないんだよな?」


 マキナは本当にほっとしていた。苦肉の策とは言え、別々に行動するのは大きな賭けだった。もう二度と会えなくなってしまう可能性も少なからず存在したのだから。それゆえマキナは、カイともう一度会えたことに心から安堵していた。


「へへっ、お兄ちゃんさっきからそればっかり。大丈夫だよ、安心して。あ、でもなんだか怖い人に助けてもらったよ」

「……怖い人?」


 マキナは驚きを隠せない。この世界で、誰かが誰かを助けるなんてことはまず有り得ない。そんな優しさが残っていたことに驚愕と言って差し支えないほど、の衝撃を受けていた。


「うん……。顔に包帯を巻いてて顔はわからなかったけど、その人がいなかったらあたしはダメだったと思う。あたしの恩人だよ」


 そう言ってカイはゆっくりとその時の詳細について話し始めた。化け物に追いつかれ危なかったこと、謎の男に助けられたこと、男に聞かれたこと。


「また疑問が増えたな……。取りあえず何にせよ、その人に会ったらちゃんとお礼言わないとね」


 マキナがそう言うと、カイはにっこりと笑いながら頷いた


「疲れただろ? もう寝た方がいいよ、カイ。ずっと隣にいるから安心しておやすみ」

「お兄ちゃんは? 寝ないの」

「寝るよ、俺も。大丈夫、俺のことは心配しなくていい」

「ほんと?」

「ほんとだよ」


 カイは納得していない顔でこちらを見ているが、優しく微笑んでやると不満そうな顔をしながらもマキナの膝で目を閉じた。


 それからは静寂が続いた。風の音も野獣の唸り声も。聞こえてくるのはマキナとカイ、ただ二人だけの吐息の音だけ。マキナはゆっくりとカイの頬に手を当てた。とても冷たく冷え切っており、そのことが今の過酷な状況を改めて強調しているように思えた。


 おそらく明日には研究所に到着できるだろう。そこに何かしらの希望がある、そう信じている。キリエがマキナ達のために最後にもたらしてくれた情報だ。


 ただ不安がないわけではない。もうマキナもカイも限界が近かった。今日だってロクに食事も出来ていない。そんな状況でいつまでも旅を続けられるわけがない。冷静に考えれば、これ以上の旅は無理だ。


 だからもし、明日研究所にたどり着き、何も得られなかった場合……。


 それを考えるとマキナは怖くて怖くて仕方なかった。一縷の望みを掛ける、とはまさにこのことなのだろうな、とマキナは思う。


 ゆっくりと自分の手に目をやると、小刻みに震えていた。それがこの寒さのせいなのか、それとも恐怖による震えなのか、答えは考えるまでもなかった。だからマキナはそこで思考を断ち切る。このまま考え続ければ自分の中にある弱い部分が表に出て来てしまう、そんな気がしたからだ。


 父と母を失い、キリエを失った。大切な人たちを失った。だから、どんなことがあってもカイだけは、カイだけは絶対に守ろうと強く思う。だから、恐怖なんて押し殺してやる。どんなときだってカイを安心させてやれるように常に笑ってなきゃいけない。


 『がんばれ』って、キリエの声が聞こえた気がした。大丈夫、キリエに勇気をもらったから。マキナはゆっくりと自分の唇に手を当てた、気のせいかもしれないがまだほんの少し、キリエの温もりが残っているような気がした。


 マキナは大きく息を吐き、拳を握る。こんなところでくよくよしてなんていられない。今一番つらいのはカイだ。奇病に侵され、苦しんでいる。だから絶対に守って見せる。


 マキナがじっとカイの寝顔をじっと見つめる。すると、


「うぅん……。どうしたのお兄ちゃん? そんなに見られたら恥ずかしいよ……」


 照れくさそうに首をひねり、マキナの膝に深く顔をうずめるカイ。


「悪い、起こしたか?」

「ううん、大丈夫」


 にっこりと笑いながらカイが首を振る。


「ねぇ、お兄ちゃん、」


 するとカイが急に真剣な表情で声を掛けて来た。その声色は今までの眠気の混じったものではなく、マキナが心配になるほどのものだった。マキナが何かあったのかと思い、慌てて声を掛ける、どうした? と。


「あのね、お兄ちゃんにお願いがあるの……」


 カイがお願いなんてかなり珍しい。普段カイは我儘を絶対に言わない。極力マキナに負担を掛けないようにしている節がある。それゆえマキナとしては、もう少し甘えて、我儘を言ってくれた方が嬉しかったりするのだが。そんなカイが、こんな真剣な面持ちで言う『お願い』とはなんだろうか。


 マキナは笑顔でカイに続きを促した。


「……お兄ちゃんはね、絶対にあたしを守ってくれると思う。どんな事があっても、何が相手でも。でもね、でも、この先何があるかわからない。今日みたいなことだってあるかもしれない……」


 おそらくカイの中にも言い知れぬ恐怖が眠っていたのだろう。それが今日お互いに一人ぼっちになったことで溢れ出たのかもしれない。


「だから、お願い。たった一つだけ、これだけでいいから絶対に守って――」



「――死ぬときは、お兄ちゃんと一緒に死なせて」



 マキナは、これ以上旅を続けるのは難しいかもしれない、そう感じた。おそらくそれはカイも同じだったのだ。だから、最悪の場合も想定しなければならない。死ねない身体を持つカイ。そのたった一つの願いがこれか。


『死ぬときは、お兄ちゃんと一緒に死なせて』


 この言葉がマキナの胸に深く深く突き刺さる。

 

 マキナは何も言葉を返すことが出来す、ただ一度だけ大きく頷いた。そして膝で寝ころんでいたカイを抱き寄せ、強く強く抱き寄せた。


 思い切り、カイが痛がるほどに。


 大丈夫だからって、どんな時も守って見せるからって……。そう伝えるためにただひたすらに強く強く、抱きしめた。


 カイもマキナの背中に手を回す、カイは何も言わなかった。でも、それでもお互いの気持ちは同じだと、一つだと、そう感じること出来た。


 この時二人は、旅の終わりが近いことを感じていた。だからせめて今夜だけは、二人寄り添い合っていたかった。


 その後も二人はしばらくの間、お互いを強く抱きしめていた。




     †     †




 次の日、半日近く歩くと目的地に到着した。おそらくは巨大な街であっただろうその場所には今まで見て来た街よりも数多くの残骸が散乱しており、そのことがこの街がいかに繁栄していたかを如実に物語っていた。


 そんな中でただ一つだけ、まるで世界と切り離されたかのように、佇む建物があった。


 楕円形のドームのような形、銀色に光るそれは、傷一つ付いておらずそこだけ世界から切り離され夢を見ているかのような、現実に夢が侵食してきたのではないかと、そう思わせるほど異様な雰囲気を醸し出している。

 

 その存在感は圧倒的で、まるで世界こそが異様でこの建物こそが正常なのだとそう言われているようにも感じられた。


「……ここだよね?」


 マキナの隣にいるカイが驚きに耐えきれずに声を上げた。


 そう、こここそがマキナとカイの目的地。キリエが二人のために残してくれた最後の希望。人食病患者の権威である帝教授の研究所。


 マキナはキリエに渡された地図を取り出し、もう一度しっかりと確認する。


「ああ、ここだ。間違いない」


 二人は今までこの世界で、しっかりと建っている建物を見たことがなかった。ビルにしても家屋にしても、倒れ傾き、もはやその存在としての意味をなさないものばかりだった。それゆえに、目の前にある建物には余計に驚愕を禁じざるを得なかった。


 とはいえ、ここが旅の目的地。驚き以上に、ここで見つかるのが希望なのか、絶望なのか。はたまた何もないのか、結末を迎えることへの恐怖がマキナとカイ、二人の中に渦巻いていた。


 二人の間に見えないプレッシャーが重くのしかかる。ここにあるものが二人のすべてを決めると、そう言っても過言ではない。希望を願う心の強さゆえに、それと同時に絶望への恐怖もより強いものとなっていた。


「行こう、カイ」


 マキナは淡々と言った。


 自分の中にある恐怖を悟られないためだ。カイを守るなら、まず自分がしっかりしなくてはいけない。とはいえ、自分の腕が震えていることをマキナは知っていた。思い切り力を込め、震えを抑えようとする。だが止まらない。自分の心はここまで弱かったのかと、あまりの情けなさに自分を引っ叩きたくなる。


 マキナは自分への嫌悪を飲み込み、その足を進める。すると隣のマキナが、ゆっくりと寄り添い手を絡ませてきた。


「カイ……?」


 その手は、震えていた。


 カイも怖かったのだ。目の前にある真実を目にすることが。


 ただ何も言わずに隣に寄り添うカイ。そんなカイを見ると自然とマキナの震えは収まっていった。


 大切な妹を守ろう。


 この小さな女の子を守ろう。


 自分の大切な人を守ろう。


 自分の中にあった気持ちがもう一度、強く強く湧き上がるのを感じた。


 恐怖なんて馬鹿らしくなるくらいに。


「カイ、大丈夫だ。俺がついてる。さ、行こう」

「……うん。あたしも付いてるよ、お兄ちゃん」


 二人はお互いの手を強く握り、前へと歩き出す。


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