第四章『邂逅』

 病院の研究室にはマキナとカイにあてた一通の手紙が残されていた。



『マキナ、カイ、嫌な役回りをさせてしまって本当にごめんなさい。でも本当に感謝してるわ。あなたたちのおかげで私はレンと共に天国に行ける。本当にありがとう。あなたたちは生きて幸せになって、私はちゃんと見守っているから。


 あなたたちに一つ道しるべをあげる。死のうとしていた私には役に立たない情報だったけど、ここから東にある大きな街、そこに人食病研究の権威である帝教授が使っていたという研究所があるらしいの。彼は私が人食病患者を殺すための研究をしていたのとは逆に人食病患者を治癒する研究をしているわ。もしかするとそこにカイちゃんの身体を治す手掛かりがあるかもしれない。

 

 断定は出来ないけど、闇雲に探し回るよりはいいはず。地図を残しておくわ。もし、信じてくれるなら行ってみる価値はあるかもしれない。

 

 最後にもう一度、二人とも本当にありがとう。二人に出会えてよかった。


 マキナ、今度会った時はあの約束、忘れないでね?

 

 カイ、大好きなお兄ちゃんから目を離しちゃダメだよ? 


                             響キリエ   』



 人食病研究の権威である人物が残した研究所、そこでなら何か手掛かりが見つかるかもしれない。手紙には『信じてくれるなら』と書いてあったが、今更キリエを信じない理由がマキナとカイにはなかった。それに、たいした手掛かりもないのだ。ならば手紙にも書いてあった通り、闇雲に探すよりずっといい。


 マキナとカイはお互いを見つめ合った後、頷く。


 そして、マキナが手に持っていた手紙をしまおうと、手紙が入っていた封筒を手に取ると、他にもまだ何か入っていることに気付いた。一枚の紙と錠剤が一つ。

 

 マキナとカイは、もう一枚の手紙を開く。


『二人に伝えておきたいことがある。もちろん今の二人には必要ない情報かもしれない。でも、世界はそんなに甘くないかもしれない。だから念のため伝えておきます。


 人食病患者を殺すための方法を』


 マキナとカイは背筋が凍るような思いだった。そんなことにはならない、そう思いながらもキリエが最後の手段を残してくれたことに安堵に近い感情を覚えてしまっていたからだ。そんな感情を覚えた自分たちが怖かった。


『一つ目は私がとったのと同じ方法、人食病患者を人食病患者に食べさせること。もう一つはこの封筒に入れた錠剤を使う方法。その方法は―――』





     †     †




 マキナとカイの二人は、キリエが残してくれた地図を頼りに、東にあるという研究所を目指していた。


 二人が歩く場所に『道』と呼べるものはなく、かつては綺麗に舗装されていたであるコンクリートの残骸や朽ち果てた信号機などが落ちているだけ。そのあちこちに赤い染みのようなものがあり、幾度となく人がここで死んでいった事が窺える。


 マキナが前を歩き、後ろにカイが続く。


 マキナは後ろにカイがしっかりと付いてきているのを確認しつつ、その右手は腰にはめたホルスターから離さない。こんな世の中において、敵は同じ人間だけだとは限らない。多くの人間が住んでいた街が崩壊したため、そこには多くの血に飢えた動物たちが入り込み、虎視眈々と獲物を狙っているのだ。幸い、この近辺は見渡しがよく、どこを見ても凶暴な動物はいなかった。

 

 マキナは、周囲の警戒を続けるが、見渡しが良いこともあり少し安堵し息を吐いた。


「ねぇ、お兄ちゃん」


 マキナが安心したことを見計らったかのように、カイが話しかけてくる。キリエの死から約二週間が経つが、カイはあまり元気がなかった。マキナ自身もキリエの死に少なくないショックを受けていたが、それ以上に二人に衝撃を与えたのは、キリエが残した手紙『人食病患者を殺す方法』だった。


 マキナは、カイが言いたいことを察する。


「大丈夫、あんな方法使わない。俺が使わせない。言ったろ? 絶対に守ってやるって」


 マキナが微笑みながら、わざと軽い口調で言ったが、カイの表情は晴れない。


「……うん。そうなんだ。そうなんだよ……。お兄ちゃんを信じてないとかそういうのじゃないの。でも、でもね……」

「でも、じゃないよ! カイ。お前と一緒に幸せになるって、俺はそう決めたんだよ」

「お兄ちゃん……」

「だから何が何でも幸せになってやるさ。それにはお前が必要なんだ」


 マキナは、カイの頭を優しく撫でながら言った。カイの表情は完全に晴れたと言うわけではないが、幾分ましになったように見える。もう少し何とかしてやりたいところだが、現状どうすることも出来ない。


 そろそろ時刻も遅い、今夜の寝床を確保しなければならない。太陽がほぼ顔を出さないこの世界では昼も夜もさして変わらないが、それでも夜は動かないほうがいい。夜のみ行動する凶暴な獣も存在するからだ。

 

 マキナは再び辺りを見渡すが、寝床にちょうどよさそうな場所はない。もし寝床が見つからない場合、最悪の場合は野宿だ。カイのためにもそれだけはなんとかして避けたい。

 

 仕方なく、マキナはカイを促してもう少し歩くことにした。地図を確認すると、幸いなことに小さな街跡があるようだった。歩いて二時間、といったところだろうか。


「なあ、カイ。まだ歩けるか?」

「うん、大丈夫だよ。あたしのことは心配しないで。まだまだ頑張れるよ? こう見えて結構体力あるんだから」


 にっこりとほほ笑んでみせるカイ。マキナは微笑みを返しながら、意地悪な口調で言う。


「だといいんだけどな」

「む、お兄ちゃん。それは聞き捨てならないよ。あたしだってこう見えて成長してるんだよ。身長だって伸びてるし、体力だって――」

「――はいはい、そうだな」


 再びマキナはカイの頭に手を置いて言った。頬を膨らませているカイをなだめながら、思わず笑みが零れてしまう。こんな些細な会話をしていると、マキナ自身生きているのだと実感できた。こんな荒んだ世界でもカイがいれば生きていけると、そう思うことが出来た。


「……お兄ちゃん? どうかした?」

「別に。ほら、とっとと行くよ」 


 二人はしっかりと手を握り合って、歩き出した。




     †     †




 しばらく歩き、あと一時間もあれば集落跡に到着する場所まで来た。

「カイ、大丈夫か? 足痛くないか?」

「うん、大丈夫。ただでさえお兄ちゃんに荷物たくさん持ってもらってるんだもん。これくらい頑張らなくちゃ罰が当たるよ」

「偉いな、じゃああともう少し――」


 言いかけて、マキナは周囲に異変を感じた。


「……お兄ちゃん?」

「しっ、静かに」


 そう言ってマキナはカイと共に近くの物陰に身を潜める。


 マキナは耳を澄まし、辺りを警戒する。人間であれば人間の気配があり、動物であれば肉食、草食それぞれに独自の気配がある。そのため、ある程度まで近づけば、何が近づいているのかはわかるはずなのだ。


(……なんだ? この気配は?)


 だが、今回は近づいているもの気配がまったく分からなかった。人間でも動物でもない何か。得体の知れない気配にマキナとカイの二人はその身を強張らせる。


 気配は猛スピードで接近しており、マキナがその手に銃を構え、視線を気配の方へ眼蹴ると徐々にその姿が露わになった。


(獣……?)


 近づいてくる気配の姿は一見すると獣のようだった。ライオンや豹といった四本の足で躍動する、肉食獣に見えた。しかし、マキナはすぐにそうではないことに気が付いた。その姿は四本足ではなく、六本の足があったからだ。身体全体に、まるで血で染め上げたかのような朱を纏い、こちらへと接近してくるではないか。


「あんなの、見たことない……」


 マキナの隣でカイが呟く。マキナもそれに頷く。あんな色をした生き物見たことがなかった。


 だが、二人に与えられる衝撃はそれだけではなかった。足が六本あり、全身が朱い、ただそれだけなら存在し得ない話ではないだろう。地球上の生物には足が六本存在するものも、存在するからだ。


だが、


「……ッ! なんなんだ、あれは」

「……怖い、怖いよ」


 その姿は化け物だった。


 本来獣であれば顔が来る部分、そこに『人間の顔』が張り付いていたのだ。さらに言えば、付いている足、それはまるで人間の足だった。


 マキナの隣でカイが身体を震わせている。マキナ自身も恐怖を感じたが、心の奥底に閉じ込め、マキナを強く抱きしめ落ち着かせてやる。


(くそっ、まずいな……)


 マキナとカイが目指している場所は、化け物がいる場所を通り抜けなければならなかった。しかし、化け物はその場にとどまり辺りを見渡すだけで、一切動く気配はない。ここを通らずに目的地である研究所に行く方法はあるが、それでは寝床はなく、危険な魔物に襲われる可能性が非常に高くなる。


 しかしその一方で目の前の化け物さえ何とか出来れば、最短、そして最も安全な形で研究所まで辿り着けるはずだ。

 

 息を潜め、化け物の様子を窺うマキナだが、次の瞬間、耳を疑った。


「ドコダ……カイハ、…コニイル」


(なん、だって……っ?)


 化け物が言ったのだ。『カイはどこにいる』と。


 何故化け物が言葉を話すことが出来るのか、はたまた何故カイの事を知っているのか。様々な疑問が頭の中で浮かんでは消えていく。


 腕の中のカイが怯えるように、マキナの背中に回した手に力を込める。


「カ、イ……。カ、イ」


 そう言って化け物は真っ直ぐにこちらに近づいてきた。その歩みがぶれることはない。完全に居場所が知られていた。このままでは確実に化け物の餌食になってしまう。


 マキナは悩んだ末、一つの結論を下す。


 予備の拳銃を鞄から取り出し、カイに渡す。


「え、お兄ちゃん……?」

「大丈夫だ。すぐに追いつく。俺が合図したら走れ。地図を渡しておく、印を付けた場所で合流だ」


 合流場所は今夜の寝床にする予定だった場所だ。以前はシェルターとして機能していた場所らしく、そこならおそらくは安全なはずだ。


「……嫌だよ。嫌だ、お兄ちゃん。約束したよ、ずっと一緒だって。約束守ってよ……」


 カイが痛いくらいに抱きついてくる。カイ自身もわかっているのだろう。このままでは危ないということを。だからこそ、嫌なのだ。それはマキナも同じ。だが、それ以外に思いつく方法はない。


「……大丈夫だよ、カイ。必ず行く。待っててくれ」


 二人は思い切り強く抱きしめ合う。


 身体を離し、マキナはふぅ、と大きく息を吐いた。そして次の瞬間、一気に物陰から飛び出し、その手に持つ拳銃の引き金を引いた。しかしその弾丸を化け物はいとも簡単にかわして見せる。


「いけっ! カイ! 今だ!」


 カイ、という言葉を聞いた化け物が反応し、カイが走り出した方へと走り出そうとする。しかし、マキナはそれを許さない。遠くからでは当たらないと察したマキナは化け物へと一気に近づき、化け物の額――人間の顔――へと銃弾を叩き込んだ。


「行かせないぜ、化け物。カイは俺が守るって決めたんだ」


 こんな世の中になって、初めての一人ぼっち。


 マキナとカイ、二人にとって試練の夜が始まった。




     †     †




 カイは怯えながら左右の足を交互に前へと進める。恐怖のあまり足が震え、何度転びそうになったかわからない。周りから風の音が聞こえるだけで恐怖に心を侵されてしまいそうになる。改めてカイは実感した。自分にとってマキナがどれほどに大切で、普段どれだけ彼に助けられているかを。


「お兄ちゃん……」


 そんなことを考えていると不意に、口から言葉がこぼれ落ちた。ついさっき離れたばかりだと言うのに、もう何年も何十年も離れているようなそんな感覚に陥る。


 会いたかった。今すぐ会って抱きしめてほしかった。

 

 気付くとカイの目からは涙が溢れていた。


 あふれ出た涙を手でぬぐい去り、拳を握る。すごくすごく心細かった。


 でも、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。自分を助けるためにその身を危険にさらしたマキナのためにも、自分は出来ることを精一杯やらなくてはならない。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん……。あたし、がんばるよ」


 マキナは言った。必ず行くから待っててくれ、と。だからカイはマキナを待たなくちゃいけない。マキナの無事を信じて。帰ってきたら、ちゃんと「おかえり」って言ってあげなくちゃいけない。

 

 手に持っていたライトを照らし、マキナは地図と現在地を照らし合わせる。地図とは言っても、地形は変わり建物もぐちゃぐちゃだ。それゆえ、あくまでだいたいの居場所を把握出来る程度だ。その先は、方向感覚や勘が物を言う。

 

 どうやら先程懸命に歩いたおかげで、かなりの距離を進めていたようだ。目的の街までカイの見方が間違っていなければあと少しの所まで来ていた。ほんの少し、マキナの胸に安堵が広がる。マキナとの待ち合わせ場所に着くことが出来れば、獣や化け物に襲われる可能性は少なからず減少する。あとはマキナを待つだけだ。

 

 いくぶん震えが取れた足をゆっくりと進め、街の入り口までやって来た。街とは言っても、あくまで残骸だ。ビルは倒れ、電灯や信号機はもはや原形を留めてはいない。マキナと決めた待ち合わせ場所は一番大きなビルの一階だった。およそ二十階建てと思われるそのビルは丁度半分くらいのところで折れており、ビルの半分が隣に横たわっている。そんなボロボロのビルだが、一階ならば雨風を凌ぐ事も可能だ。


 ビルの前まで来ると、本格的に安心してしまった。これであとはマキナさえ無事でいてくれればすべてが解決だ。思わずその場に座り込みそうになるカイ。


 しかし、世界はそんなに甘くはなかった。




「……カ、イ……ミツ、ケ、タ」




 先程聞いた化け物の声が、カイのすぐ後ろから聞こえた。振り向けばすぐそこに、全身に朱を纏った六本足の化け物がいた。それと同時、カイの心を焦りと絶望、さらには恐怖が支配していく。


「……や、だ。こないで……」


 ゆっくりと近づいてくる化け物に対し、カイは後づさる。しかしその足はガクガクと震え、ほとんど動いていないに等しかった。


「ミツケ、タ……カイ……」


 化け物がカイの名を呼ぶ。怖かった。とても怖かった。


「カ、イ……」


 化け物の言葉がカイの心を犯し、恐怖を増大させる。


 カイに忍び寄る絶望。


 確かにカイは死ぬことはない。でもそれは死なないと言うだけのこと。目玉を抉られれば痛むし、腕を切られれば血が噴き出す。だがそれでも死なない。それはすなわち、目を抉られ、腕を切られようとも、どんな醜い姿になろうとも生きていかなくてはいけないということ。


 そんな醜い姿をマキナにだけは見せたくなかった。




 お兄ちゃんの前ではずっと、ずっとずっとずっと、綺麗で可愛い人間の自分でいたかった。




 そんな思いが恐怖に囚われたカイを突き動かす。

 

 カイは咄嗟にマキナから渡された拳銃をその手に取った。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ

 

 ただひたすらに化け物に向けて引き金を引く、カイが出来る最初で最後の抵抗。


 しかしガクガクと震えたカイの手は、化け物に正確に照準を合わせることは叶わなかった。音だけが響き、拳銃から放たれた弾丸は空しく空を切る。そして、弾薬が切れた。


 化け物がカイの目の前に立つ。


「カイ、見つけた……。カイ」

 

 化け物の声はもはやカイの耳に届いていなかった。

 

 ただ、悔しかった。本当に悔しかった。

 

 ごめんね、お兄ちゃん。

 

 カイが目を瞑り、覚悟したその時だった。


「……なにをやっているのかな? 化け物」


 声がした。カイが顔を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。


 その顔には包帯を巻いており、表情をうかがい知ることは出来ない。だが、その男の存在感は圧倒的だった。どこから現れたのか、なぜこんなところにいるのか。そんな些細な疑問を吹き飛ばしてしまうほどに圧倒的な存在感を持っていた。


「グ、語義げ疑義こくんじゃぅsbぅアvsぅhbkm」


 男が手をゆっくりと上げると、突然化け物が苦しみ出した。


「君は何をしたのかわかっているのか? 誰がカイに手を出していいと言った? ん? 生きたいんだろう? ならこんなことしちゃダメだ。わかるね? 次はないよ?」


 まるで子供に言い聞かせるように、男は化け物に対してゆっくりと言った。そして言い終えると、今度はカイの方へと近づいてくる。


「大丈夫だったかな、カイ?」

「……は、はい」


 何故この男は自分の名前を知っているのだろうか? そしてこの男は何故、化け物に対して平然と言葉を掛けることが出来たのか? 化け物の存在を知っているのか? 考え出せばきりがないほどの疑問がカイの頭を駆け巡る。


「あ、あれを知っているんですか……?」


 カイが咄嗟に聞いた。


「ああ、あの化け物の事かい? ふふっ、まぁ知っていると言えば知っているね。でも君は知らなくていいことだよ、カイ」


 そんなことより、と男が続ける。


「せっかくこうして会えたんだ、カイ。君に一つ大切な質問をしておこうかな?」


 怪訝な表情でカイは男を見る。男は嫌に馴れ馴れしかった。まるでずっと昔からカイのことを知っているかのような、そんな雰囲気だった。


「カイ、君はお兄さんを、マキナを大切に思っているかい?」


 唐突な質問だった。質問の内容ももちろんだが、男の口からマキナの名が出て来たことに驚きを隠せなかった。


「……なんでそんな質問……。それにあなたは一体……」


 カイが聞き返す。見ず知らずの人間に突然自分や兄の事を聞かれれば誰だってそうする。当然の反応だ。しかし、



「答えろ」



 男は有無を言わせぬ圧倒的な視線で、カイを射抜く。背筋が凍りつくかのような視線に、カイは怯えたような口調で言った。


「……た、大切に思って、います……」

「誰よりも?」


 カイはゆっくりと頷く。すると男の雰囲気が、和やかでゆったりした物へと変化する。先程視線を発した時とはまるで正反対と言っていいほどに。


「そうかそうか、それなら良かった。今更聞く必要もなかったのだけれどね、意地悪をしてごめんよ、カイ」


 男が座り込んでいるカイの頭に手を置き、優しく撫でる。


「あなたは、一体……?」

「今は知らなくていいよ。いずれ知ることになるからね。また会える日を楽しみにしているよ、カイ」


 男はそう言うと、カイに背を向けて歩き出す。咄嗟に追いかけようとしたカイだが、足が恐怖と疲れのせいかうまく動かなかった。


 男が誰なのか、とか。化け物は何者なのか、とか。気になることはたくさんあった。それこそ数えきれないほどに。でも今はただ、生きていられることを喜びたかった。生きてもう一度マキナに会えることが嬉しかった。


「お兄ちゃん……大丈夫だよね?」


 カイが心配そうな表情を浮かべ呟く、すると、


「誰が大丈夫だって?」


 大好きな大好きな兄が、マキナがいた。


「お兄ちゃんっ! 大丈夫怪我とかしてない? 大丈夫っ?」

「ははっ、大丈夫だよ、カイ。俺は大丈夫だ」


 マキナはそう言うと、カイをゆっくりと抱き上げた。お姫様だっこのような形になるカイ。


「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!」

「足、がたがたで立てないんだろ? 遠慮するなって」

「も、もぅ」


 カイは恥ずかしがりながらも嬉しかった。こうしてまた、マキナの体温を全身で感じられたことが嬉しかった。カイはマキナへと自ら身を寄せる。本当に本当に嬉しかった。この世界で、誰かの温もりに触れられることがどれほどに大切で幸せなことか、カイは改めて実感する。


 そこでふとカイは自身の頭に手をやった。先程男に撫でられた感触がまだ仄かに残っているような、そんな気がしたのだ。


「どうかしたか、カイ?」

「え、ううん。なんでもないよ、えへへっ」


 カイは手をマキナの背に回し、ぎゅっとマキナへと抱きついた。大好きな人のそばにいられることが、本当に、本当に嬉しかった。



 嬉しさのあまりカイは失念していたが、頭に残った仄かな温もり、それはカイが今までに感じたことのあるものだった。

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