われ、黎明の頃より汝らとともにあり
肉球工房(=`ω´=)
1
週末の午前二時二十分、執筆の区切りがついたので安物のコーヒー豆をドリップしている最中に電話がなった。
「はい」
夜中ということもあり、ワンコールで、ほぼ反射的に上着のポケットに手を突っ込んで素早く電話を取る。
──あ。アイさんか?
どこか聞きおぼえがあるような声ではあったが、誰の声だったのかはとっさに思い出せなかった。
「……どちらさんで?」
不審に思う気持ちが声色に滲んでいたのは仕方がないことだろう。
おれの携帯の番号を知っている人間はごくわずかであり、しかもよほど緊急のことがなければこんな時間にかかって来ることはない。
──わからないのか? 無理もないな。もう十年以上も会っていないしな。
おれ、美作だよ。
そんなわけで、渡米してなんだか難しい研究をしているとかいう大昔の知り合いが日本に帰ってきたので、昔なじみの店で顔を合わせることになった。十年以上前に趣味のサークルで出会った男なのだが、おれのなにが気に入ったのか、当時からなにくれとはなしかけてくる人だった。
係累はすべて物故して親族は日本に残っていないというはなしだったから、こちらに帰ってきても話しをする相手に困っていたのかも知れない。
真夜中にかかってきた電話で奢りだという言質を取ったので、タダ酒が好きなおれは一にも二にもなくそのはなしに飛びついて、渋谷の雑居ビルにある狭い店に飛び込んだ。
「あ、おひさ」
「どうも、ご無沙汰しています」
店のあるじ、青子さんに深々と頭を下げる。
この人には、顔を合わせるたびになにくれと世話になっている気がする。そのおかげでますますこの店から足が遠ざかるという悪循環。
前にこの店に足を踏み入れたのも、もう何年も前のことだ。あのときも確か、おれが筆舌に尽くしがたい面倒に巻き込まれた余波で、こちらにもかなりの迷惑をかけてしまったものだが……。
飲食店にとっては激戦区であるこの場所で何年も店を構えているのだから、この小さな店も見かけよりは、客の入りがいいのだろう。
「今なにか、失礼なことを考えていなかった?」
「いえ、別に。
とりあえず、生ね」
「はい、突き出し」
青子さんはおれをカウンター席にうながし、小鉢とおしぼりを卓上に置く。
「今夜は、美作さん?」
「そう、美作さん。
十年以上顔を合わせていないのに、いきなり夜中に電話を貰って驚いた」
「番号教えたの、わたし」
「でしょうねえ。
他に、心当たりないし」
極めて非社交的な性格をしているおれの携帯の番号を知っている者は、数えるほどしかいない。
「だって、メアド教えてくれないし」
「教えてもいいけど、おれ、メール、一週間か十日にいっぺんしかチェックしないよ」
「電話の方がはやいのか」
「仕事関係しか連絡こないし、手が空いていれば必ず出るからな」
「いい年して、相変わらず、仕事か書いているかの地味な暮らしをしているの?」
「金銭的にも時間的にも、余裕がないしね。不調法で、他の楽しみもよー知らんし……」
「書き続けているだけマシよう。
わたしなんて店と旦那の世話で、すっかりそっちからは遠ざかっちゃって」
「それも人生ってもんでしょう。
リア充でいいじゃないっすか」
などという無駄話をしているうちにおれを呼び出した当人である美作さんが店の中に入ってきた。
美作さんは、みおぼえのある猫背でざっと店内を見回し、すぐにカウンターに腰掛けていたおれと目があう。
「お、どうも」
「どーも」
「ずいぶん間があいちゃいましたねー」
「アメリカ在住ならしかたがないよ」
「しかし……はやいものだなあ。
もう十年以上になるのか……」
「過ぎてしまえば、あっという間だよなあ」
「美作さん、ご注文の方は?」
「とりあえず、生で」
「はい、中生ねー」
「アイさん、あんまり変わってないなあ」
「充分年を取りましたよ、これでも。
白髪もずいぶん増えたし。
そっちはどうですが? 数学業界の景気の方は?」
「数学業界、って……確かに、理論畑の人間だけどさぁ。
別に学会に残っているわけでもないし、一口に数学といっても色々と種類があってだね……。
まあ、この不景気な時代に専門外とはいえ、食いっぱぐれのない仕事が見つかったのは運が良かったと思っているけど……」
青子さんが新たに注いできた中生を手にして、とりあえず久々の再会を祝して乾杯。
そうこうしているうちに新しい客が入ってきて、青子さんはそっちの注文を取りに行った。
「それで、美作さん。
おれみたいなのをわざわざ呼び出したことは、なんか用事でもあったの?」
呼び出されればこうして会いに来るわけだから、美馬氏とは仲が悪いわけではない。
十年以上まったく交渉がなかった相手を仲が良いといいきってしまうものなんだが、少なくとも奢り酒のためなら少々愛想が良くなる程度の仲ではある。
「用事というか、少し、アイさんの意見を聞きたくてね」
「おれなんかの意見を?
美作さんが?」
おれは、露骨に顔をしかめた。
何本もペーパーを専門誌に掲載している研究者様が、おれみたいなブルーカラーに意見を求めることの無理筋さ。
「参考意見というか、さ。
専門家なた一笑に付するようなことを思いついちゃったもんで、酒のあてに聞いてみてよ」
「聞くだけなら、いいけど……美作さん。
今、なんの研究をやっているんでしたっけ?」
「最終的には、脳と言語の相互作用について……というところにゆきついてしまったな。どうした加減か。
言語の存在が脳の発達をどれだけ促してきたのかっていうのをモデル化して、シミュレートして……という研究の補助として、シミュレーション用のプログラムを書き起こしている。
そもそものきっかけは、複数のミッシングリンクがいた可能性を探ることを目的とした大規模なシュミレーションを走らせていていたことから発生したミッションなんだけど、そっちの方でちょっとした躓きがあってね。
簡単にいうと気候とか植生とかをたどってホドミニが繁殖できそうな条件の地域や時代を限定して、ホモサピエンス以外の霊長類が生存出来た可能性を探るという……」
「なるほど。
さっぱり、わからん」
「現世人類以外にも、前後していい線までいった霊長類が発生いたことは知っているよね?」
「ネアンデルタールとかアウトラルピテクスとか?」
「アウトラル、ではなく、アウストラルピテクス、な。
そのアウストラルピテクスの方のヒト族の祖先……に、あたるのかも知れないけど……そこらへんは証拠不十分な上に諸説あるんで今の時点ではどうにも断言が出来ない。人類が人類になった時期の樹系図は欠落が多すぎて、基本的なデータが絶対的に不足しているんだ」
「それで、シミュレーションですか?」
「そ。
計算機の性能がかなり向上してきたので、過去の地球の環境を丸ごとシミュレートしようって学際的な計画があってね。そいつに便乗する形で。
で、そんなわけで、化石こそ発見されてはいないものの、ホモサピエンス以外の霊長類がいた可能性を往事の気候条件や動植物相をシミュレーションして探っていたわけだ。
どうしたわけか、今現在、この地上にまともな霊長類はわれわれホモサピエンスしかいないからね。
その他のライバルたちは、いったいいつどういう原因で退場したのかというのを探るためのプロジェクトで……」
「ネアンデルタールだったっけ?
一万年くらいおれたち人類と共存していたかも知れない、別種の人類もいたんだろ?」
「ネアンデルタール以外にも、フロレシエンシスとかもかなりヒトに近い種だったという説もある。
その他にも、化石として残っているものの何十倍もの近縁種がいたという説もあるんだけど……今は、おれたち一種だけが生き残っているわけだな。
彼らは、なぜ消えたのか?
われわれと彼らとの違いは、いったい何なのか……大ざっぱにいうと、そういうことを探るためのプロジェクトなんだ……」
「美作さん。
数学屋のあんたが、なんだってそんなプロジェクトに?」
「それだけ複雑なシミュレーションを行うためには、場合によりハードの性能をとことん引き出すために専用にチューニングしなけりゃならないわけで、そっちの関係で数学屋の知識や勘も必要になるのだよ。
本物のロジックを持たないただのコーダーでは、最新の量子コンピューターのスペックをとことん引き出せないわけで。
その仕事上のつきあいで色々と、専門外の知識もいつの間にやらおぼえてしまったけど……」
「それで、なんで他の霊長類が滅んだのか、そのシミュレーションでわかったの?」
「わかったというか、かえってますますわからなくなったというべきか……。
何度やり直しても……ある条件を外挿すると、あっという間に滅亡しちゃうんだよな。
ホモサピエンスを除いた種族は」
「……なんじゃ、そりゃ……」
「だから、ね。
直立して、道具や火を使いはじめるところまでは、いいんだ。
その後……言語、それもある程度抽象的な概念を含む高度な言語活動を習得しはじめると、すぐに内乱が起こって盛大な殺しあいがはじまる。
それが、種族絶滅まで続く」
「……群れの内部での鏖殺は、珍しいことではないだろう。
ある種の猿は、ボス猿が代替わりしたときに前のボス猿の子孫をかなり殺すそうだし……」
「そうした例もあることにはあるが、それだって全滅になるほどにやりすぎることはない。
それよりももっと規模が大きくて……最後の一匹が死に絶えるまでずっと、殺し合うようになるんだ。
周辺の状況を変えて何度か繰り返して、同じ結果になる。
シミュレーションを走らせたやつらが完全に凹んじゃってねえ。
言語って……実は、知的生命体にとっては毒か呪いなんじゃないかって、チーム内でいわれはじめている」
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