ワンダーランドNTR!

日炭ぽこ

第1話 ゆめ

 ――走りまわって、逃げ回って。


 運動不足の脚が悲鳴をあげて引き攣れそうになる。酷使し過ぎた喉と肺が呼吸する度にひりついて、空気が粘膜に滲みた。

 数年前に経験した最後の全力疾走と比べて明らかに持久力が落ちている。20代というのはお肌の曲がり角だけでなく体力の曲がり角も含んでいるに違いない。


 思わず立ち止まった背後で、ずるずると何かを引きずるような嫌な音がした。例えるなら、靴底のゴムが削れるのを無視して足を引きずるような。


 真っ暗で星も見えない空を仰ぐ。

 ああ、ほんとうに嫌だ。なんでこんな目に。


「ウ……あ……アァ゛ッ」


 声帯を無理に使うとこうなるのか、と思わせるような奇妙に震える不気味な声。

 いつもは楽しさを誘うはずの妙なリアル感が、このときだけは憎い。ちらっと後ろを見て、先ほどの妙なうめき声を上げたブツを確認する。


 血塗れたYシャツに、

 薄汚れたスーツを着た、

 おそらくサラリーマンだったモノが、おかしな方向に折れ曲がった足を気にすることもなく引きずりながら近づいてくる。顔色はどす黒く、眼球は誰にえぐられたのかぐちゃぐちゃになって今にも眼窩からこぼれ落ちそうだ。


 いわゆる、ゾンビってやつだ。うん。

 ……ついでに言うと、機関銃ひっさげてるゾンビ。


 今のこの状況に頭が混乱する。

 おかしい。おかしい。こんなはずじゃない!


 っていうか、思考力皆無のしかもサラリーマンだったゾンビがなんで機関銃持ってんだよ!と声を大にして叫びたい。現代日本でサラリーマンが機関銃なんぞ持っていたら速お巡りさんに捕まるんだぞ!

 非現実的過ぎて涙が出る。そうか、この世界がだからか。


「うぅっ……くそう」


 喉の奥で呻いて、もつれる足を叱咤してまた走り出す。追いつかれて噛まれるのはごめんだ。もちろん、銃弾にハチノスにされるのはもっとごめんだ。ゾンビが銃を使えるのかは知らないけど。


 ああ、イライラする。ここは楽しい世界のはずだ。私だけの世界。

 妄想を実現する、『夢の世界』。


 息が切れるのも構わず、叫んだ。


「ここは、私の、自由の、『夢の、世界』、なのに、なんで、こんな、ことに、なってんだ―――――!!!」


 ……ところどころ切れるのは逃走中ってことで許してください。



* * * *



 私の趣味は、明晰夢めいせきむで遊ぶこと。


「……あんた、なんか新興宗教にでもはまった?」


 堂々と胸をはって答えたら、同窓会で久々にあった友達に心配された。失礼な。


 明晰夢?と思った人に教えよう。

 それは、睡眠中に見る夢のうち、自分が『夢であると自覚』しながら見ている夢のことである。


 これには他の夢にはない『利点』がある。

 それは、夢の状況をに変化させられるということ。


 まぁ、本当に思い通りに夢を動かすには訓練が必要だけれど、真っ青な空を脳内麻薬が分泌されるほどびゅんびゅん風切って飛んだり、現実には存在しない魔法をぶっ放して嫌いな上司を吹っ飛ばしたり、はたまた高校生のときにちょっと憧れた同級生とイチャコラできると思えば面倒な手順も耐えられた。


 その結果、一週間に1日しか与えられない貴重な休日を、布団の中で微睡みと覚醒を繰り返しながら一日中過ごす干物女に成り下がろうと、極めてお手軽に好きなことを実現できるこの楽しみには変えられない。


 ……そこ、大丈夫かなこの人、とか言わない。


 詰まるところ、私は明晰夢を一種のエンターテイメントとして満喫しているのだ。

 寝ているだけといっても、明晰夢を見た後は結構疲れる(体は寝ていても脳が起きている状態らしいのでその所為かもしれない)ので夜もちゃんと寝られるし、体内時計が狂ったこともない。


 だから、普通の人がゲームを楽しんだり、映画を見たりするのに似ていると思っている。ちなみにプライスレス。素敵!



 ――そんな私が、なぜ機関銃を持ったゾンビに追っかけられているのか。

 この状況を楽しいと思える変態へんたいでは断じて無い。無いったらない。


 ……無かった、はず。

 哀しいかな、夢というのは深層心理の表れらしいので違うと言い切れないのがつらい。


「はあっ……はあっ……」


 一度立ち止まったときに吹き出した汗の所為で、肩の下まである髪が首筋に張り付いて気持ち悪い。週末に美容院行けばよかった。


 そう思った瞬間、しゅるっと音がして肌に感じていた違和感が一瞬で消えた。

思わず頭に手をやって、ああ、と納得する。伸ばしっぱなしになっていたはずの髪が顎下あたりまで短くなっていた。いわゆる、ボブカットってやつだ。


「やっぱり、夢の中ってことで良いんだよね……」


 いつもと変わらない、思ったことが実現する様に妙に安心する。それと同時に、何度願っても変わらないこの状況に泣きそうになった。


 もう何時間も前から走っている気がするこの道は、ひたすら真っ直ぐで枝道は一本も無い。


 最初は、ちょっとしたスリルを味わいたい気分だったのかも、と思っていた程度で済んでいたが、足がつって無様に転んで、「もういい!やめよう!」と必死で叫んでもゾンビが変わらず追っかけてきたあたりで、あれ、なんかいつもと違う、と気づいた。


 基本楽しいと感じることしか反映されなかった今までの夢と、何かが違う。


「足、いたい、息、くるしいっ」


 ヤケになって叫んだら、余計に苦しくなった。


 ――タラララララっ


 私とゾンビだけだった空間に、今までに無かった軽快な音が響いた。え、と思って振り向く。


 ――タ、タラララララララっ


 ゾンビの指が、「ちょっと振り回したら引っかかっちゃいましたー☆」的な軽いノリで機関銃の引き金を引いている。

 ちなみに、銃身を構えるとかそういうことを考える脳みそは腐っている模様で、肩から下げたベルトでかろうじて持ち歩かれていたソレは銃口を天に向けてペカペカ鉛玉を吐き出しながらまたたいていた。


「……う、うそでしょー?!!」


 サッと血の気が引いた。撃った反動でがくがく火線がぶれているのがまた怖い。いつ銃口がこちらに向いてもおかしくない。今までは捕まらないように距離をとって逃げ回るだけでよかったのに。半泣きになりながらへたりこんだ。心が折れた。

 だってもう限界だったのだ。足の筋肉は余すところなくぴくぴく痙攣しているし、肺は焼けるように痛い。


 逃げ道も、隠れる物陰すらない。

 ゾンビが一歩前に進む。不安定な歩みの衝撃で銃口がガクンと正面を向いた。


 ――ああ、詰んだ。

 銃弾が自分を貫くさまを想像して、固く、目を閉じた。



「へえ、もう終わり?」



 唐突に、声が聴こえた。


 電子音のような。そう、誘拐犯が電話を掛けるときに使う変声器を通したような、声。人間味を排した二重にも三重にも聞こえるその声は、それでも嘲笑を含んでいるのが十二分に分かる声音こわね


「……へ?」


 思わずぐるりと周囲を見渡す。


 この夢を見始めてから、自分とゾンビ以外に音を発するモノはいなかったはずだ。助けを請うても、警察官も自衛隊もスーパーマンだって表れてくれなかったし。

 こちとら、助けてくれるなら犬でも猿でもキジでもよかったのに。まさか、ゾンビが喋ったのか?


 そういえば、機関銃の音がしない。恐る恐るゾンビを見やれば、時が止まったかのようにそいつは動きを止めていた。

 その後ろから、黒いもやのようなものがふよふよ出てくる。


「意外と意思が弱いんだね。もうちょっとねばってくれるかと思ったのに」


 呆れたような声音を電子音が器用に表現している。

 まさかとは思うが、あの靄がしゃべっているのか?先ほどからゾンビは固まったままで、口元は一切動いていない。ということは、やっぱりあの靄が?

 混乱する思考に、視線はうろうろとゾンビと靄を行ったり来たりして。


「何、もしかして動揺してる?」


 ため息をつくように問いかけながら、靄が眼前まで移動してくる。


 もしかしなくとも、絶賛動揺中だよ、このやろう。そう言ってやりたい。

 望んだ助けは出てこないし、明晰夢って極めすぎると現実との境界がわからなくなって狂っちゃう人もいるって聞いたことあるし、あれ、私ってば夢にとらわれちゃったのかもー、なんてふぁんしーな諦めを覚悟したとたん、現れた『何か』。


 ……なんだろう、夢を喰らうバクとかかな。

 最近のフィクションでよく見る妖怪。悪夢を見せるって言うし。ゾンビは(誓って言うが)私の趣味じゃない。


 そう考えた瞬間、黒い靄がうっすらと晴れだして、小さな獣が姿を現す。

 蹄のついた四足、つぶらな瞳、伸びたゾウのような鼻先に、白黒の毛皮。一度テレビで見たことのある、マレーバクにそっくりだ。ちょっとぬいぐるみみたいにデフォルメされている気もする。


「……やっぱり、獏?」


 つぶやいた私の言葉に、獏が首をかしげる。


「ふうん。そう思うんだ。……まあ、いいけど」


 素っ気なく答える電子音。

 イレギュラーな夢に現れた、イレギュラーな存在。この二つを結びつけないほうが不思議というわけで。自然と声がとがる。


「ねえ、この悪夢ってあんたの所為せいなの」


「……は? まさか、獏だから君に悪夢を見せてるとか言わないよね?」


「違うの?」


 獏といえば、良いイメージのなかった私は目を瞬かせる。それを聞いた獏は不機嫌そうにふん、と鼻を鳴らした。


「言っとくけど、古来から日本で言われてる妖怪の『獏』って、少なくとも悪夢を食べてくれる妖怪のことだからね」


 最近間違って使われることが多いんだよね、と不服そうに前足を組む。


 ……やけに人間くさいな。まあ、しゃべってる時点で不思議生物だけど。ってか、私の知らない知識を持ってるあたり、やっぱりこれは妄想じゃない、のか?こいつは私の脳内で出来たものじゃなく、外から入ってきたなのだろうか。


 それより、とこちらを見やった獏が口を開く。


「君、この夢から出るつもりあるの?ないの?」


 その偉そうな物言いに言いたいことは色々あったけれど。


「もちろん、ありますとも」


 まずは正直に肯定しておいた。だって苦しいのはもうごめんだ。

 ここは楽しい趣味の世界なのだから。



* * * *



 獏は言った。

 実験に付き合ってくれたら、この世界から出してやると。


「っていうか、悪夢はやっぱりあんたのせいなんじゃんかー!!!!」


 悲鳴と一緒に叫んだ。もう心の限りに叫んだ。


「はいはい、文句言ってるヒマがあるなら目の前のノルマこなしてねー」


 どこから取り出したのか宙に浮いたパソコンに眼鏡という出で立ちで、獏はデータを打ち込んでいる。ひづめでブラインドタッチとは、なんて器用なやつなんだ。


 今現在、私は海にいる。

 周りに陸も船もなく、身一つで放り出されている。ひどい。


 クロールですでに十五分は泳ぎっぱなしなので、型はぼろぼろに崩れて今にも沈みそうだ。こちとら万年運動不足のうら若き乙女なんだぞ。手加減してくれ。


「ああ~……死ぬ……がぼっ……もう泳げない~……」


 本当は仰向けに力を抜いて浮かんでいたいけれど、獏は泳いでいるところをご所望らしい。意味がわからん。

 ああ、もう見た目気にしないで犬かきにしようかな。犬かきもひとつの泳法だし、いいよね別に。


「……他の泳ぎ方、知らないの」


 さかさかと手足を動かしていると、獏がかわいそうな子を見るような目で見ていた。


 口に海水が入って塩っぱい。やけにリアルで困る。あれ、もしかしてこれって涙かな。残念ながら背泳ぎも平泳ぎもできません。どっちもいくら水を掻いても頭が水面に出ない残念っぷりで習得を諦めたので。



 あれから、私は『私の夢』をいいように操作されて獏に連れ回されていた。


 あるときは、蒸し暑く、気味の悪い虫のうようよいる熱帯雨林。

 (すぐに長袖で通気性の良い服と、殺虫剤を創造して装備した)


 あるときは、刺すような太陽光で干からびそうな砂漠。

 (スニーカーにして侵入する砂に四苦八苦して、ブーツにして蒸れて、最後は草履になった。あとから可愛いビーチサンダルにすれば良かったと後悔した)


 あるときは吹雪で前も見えないような雪上。

 (もう、分厚いコートをひっかぶってうずくまるしかなかった)


 もう一度言う、なんの意味があるんだコレ。苦行でしかない。嫌がらせの練習か。それとも食べ歩いた悪夢を私で試しているのか。


 どの場所でも追加の服や物は創造できるのに、与えられた環境だけは思いどおりにならなかった。それに、一度も目が覚めない。いつもなら半分目が覚めて、微睡(まどろ)んでを繰り返すのに。


 ここは、本当に私の夢の世界?

 漠、あいつは本当に妖怪で、夢で遊ぶ身の程知らずの人間をからかっているのか。それともやっぱり、私は明晰夢めいせきむの見過ぎで精神がおかしくなってしまったのだろうか。



「ごぼ……」


 そんなことを取り留めもなく考えながら、生温い海水の中で無様な犬かきを続ける。

 さらに5分程たっただろうか。パチパチと軽快にキーボードを叩いていた音がふと止んだ。


「……よしっと」


 そうつぶやいた獏が顔をあげると、私の服のえりを掴んでざばっと勢いよく海から引っこ抜いた。……ええ、着衣水泳でしたけど、何か?


 あーあ。どうせならこの妖怪がイケメンだったら良かったのに。それならこの仕打ちにも少しは耐えられる。

 っていうか、よく持ち上げられるな。見た目ちっこい癖に。ずぶ濡れの女の首根っこを掴んだ、空を飛ぶ白黒のぬいぐるみ。ぜんぜん可愛くない。


「なに?」


 ジト目でおのれを見上げる視線に気づいたのか、つぶらな瞳がこちらを見る。


「……いーえ?どうせなら、格好良い男のヒトに助けてもらいたかったなー。ぬいぐるみではなく」


 口を尖らせて不満を述べさせていただく。


「……ぬいぐるみ、ねえ」


 獏は少し目を見張ると、面白そうに笑って。ことばを続けた。


「僕は望んでになっているわけじゃない。……というより、君が望む姿になることができるよ。ここは君の世界なんだから」


 ぽかん、と口をあける。

 君の、世界? 夢ってこと?やっぱりここはいつもの夢で間違いない?


「芸能人でも、好きな相手でも、何でも思い浮かべればいい。それが反映されるのが、君の世界なんでしょう?」


 追い打ちをかけるような獏の言葉に、ふといつもイチャコラのお相手としてご登場いただいていた例の憧れの人を思い浮かべてしまった。


 少し色素の薄いくせ毛に、卵型の顔。涼しげな目元は、私が知っている高校生のころよりも大人びているところをいつも想像していて。

 ほどよく引き締まった体躯にスーツをまとって会社勤めをしているんだろうなあ、なんて。


 そこまで妄想してからはっと意識を戻すと、獏にひっぱられていた首周りの窮屈さがなくなっていることに気づく。


 え?あいつ私を落とした?!なんてあわてて辺りを見渡せば。

 すぐそばに白いシャツが目に入った。一瞬例のゾンビを思い浮かべて戦慄し、まてまて血糊がついていないぞと自分を落ち着かせる。



 ――というか、誰かに抱きかかえられている。



 恐る恐る見上げてみれば。


「どう?君の気に入る姿に変わった?」


 薄い唇をにんまり歪めて、想像したスーツ姿もそのままに。

 私のアコガレの人がそこにいた。


 ……声は電子音のままだったけど。



* * * *



「こんなの、ぜんぜん、まーったく、嬉しくないっ」


 声に滲む不機嫌さを隠すつもりはない。


 バク(姿は変わったがややこしいのでこのまま獏と呼ばせてもらう)は蹄をすらっとした長い指に変えはしたものの、相変わらずキーボードを叩いている。


「まだ文句あるの?君好みのイケメンになったんでしょ」


 面倒くさいなあ、とでも言いたげに電子音が答えるが、魅力的な光を宿す目は手元のノートパソコンから離れることはない。その横顔は悔しいほど整っていて。


 というか、好みの美形が目の前にいるのに、声が怪しげな電子音とはこれいかに。違和感とともに、もの悲しさが現在進行形で上昇していく。

 これならぬいぐるみのままでいてくれた方が心に優しかった気がする。声を聞く度に中身は非道なバクだと確認させられて、全くもって悲しいほどにときめくことができない。

 変化へんげできるのなら、声も変えてくれたっていいのに。このイメージが根付いて、今後の夢の中で『イケメンは電子声』が固定化されたらどうしてくれるのだ。


 ふてくされて、あぐらをかいて座りこむ。疲れから膝に片肘をつくとため息が漏れた。すでに何時間も連れまわされている気がするが、現実の時間はどれほど過ぎているのか。


「……ねえ。いつになったら解放してくれるの」


 こうも苦痛な経験ばかりでは精神的負担が大きすぎる。


「うん?君は夢の中が好きなんじゃないの?」


 にやりと笑って、獏がこちらを見る。分かっている癖に、と思ってむっとした。


「私が好きなのは、したいことができる夢。今みたいに、誰かに指示されるなんてまっぴらごめん」


「まあね。気持ちは分かる」


 そのために、明晰夢めいせきむを極めたんだろうし、と獏は頷いて。


「君の不思議の国ワンダーランドにお邪魔しているのは僕のほうだって、きちんと理解してるよ 『アリス』 」


「……どういう意味」


 思わず眉間に皺がよる。こいつ、どういう意図でそのを使ったんだろう。


「そのままの意味だよ。『不思議の国のアリス』、知らないの?有名な童話でしょ」


「それぐらい知ってる」


 また小馬鹿にされた気がして即答した。

 そして、同時に安心もする。漠がその話題を選んだことが偶然であることを知って。


「少女アリスが、ウサギを追いかけるところから始まる冒険だけど……最後は姉の膝の上で目覚めて、すべては『夢』だったって分かる」


 とつとつと獏は語って、じっとこちらを見つめてくる。少し細められた目元から発せられる、こちらを見透かすような視線に、中身は獏だと分かっていても胸がざわつく。


「彼女は物語の住人だけれど、夢見がちなところが君にそっくりだ、アリス」


 また、呼ばれた。さらに胸の音がうるさくなる。


「今の君みたいに童話の彼女アリスも明晰夢を見ていたのかもしれないね」


 からかうような笑いを含んだ漠の言葉が耳をくすぐった。



* * * *



 ――有栖アリス


 それは、私の名前だ。



 名は体を表すというけれど、外見はともかく(金髪でも青い瞳でもないし)『夢見がち』が度を越して夢で遊ぶようになるとは名付けた両親も思わなかっただろう。


「アリス、君はもう少し現実の世界で過ごす時間を増やすべきだ」


 ふと、それまでふざけたような態度だった漠が真面目な顔になった。そして、つ、と手を伸ばすと私の指に触れ、手首、肘、二の腕を確かめるようにたどる。


「なっ……」


 漠の唐突な行動に驚いたのもつかの間、頬に朱がのぼるのが嫌でも分かった。乙女の肌に勝手に触れるなと文句を言いたいのに、鳶色とびいろの瞳と目があった途端何も言えなくなって、口はぱくぱくと開閉を繰り返すありさま。


 だって、声は電子音でも見た目は憧れのあの人なのだ。


「……細すぎる。まともに食事とってないでしょ」


 ぎくり、としてうろうろ視線をさまよわせる。そんな私を見てしかめた顔さえも格好がよくて始末に負えない。


「……っ、これは、夢の中だから、細めにしてあるだけだし……」


 モデル並みに細いのが憧れなんだ、ともごもご言ってみる。


「その言い訳、僕に通用すると思ってる?」


 呆れたように返されて、項垂うなだれた。

 漠にはなんでもお見通しなのか。夢を操る妖怪だから嘘か本当か分かってしまうのか。そうなのか。


「あのさ、夢で遊ぶのが悪いとは言わないけど。身体に影響がでるほど放置するのは見過ごせない」


 説教するように言われて、思わず、はい、と小さく答える。



 気づいていた。

 友人にも「あんた、ちょっと痩せすぎなんじゃないの」と叱られたし。


 大学を卒業して就職したのは、不況の煽りを受け社員数をしぼりにしぼった中小企業。ひとりひとりに掛かる業務の負荷は想像以上に重くて。新入社員だからといって特別扱いはされない。


 連日深夜に及ぶ残業。愚痴のひとつも言いたくなるあり様だったけれど、同じように遅くまで仕事をしていたはずなのに自分より早く出勤している先輩を見れば文句なんて言えるわけがない。

 月に5日しかない休日は疲れきって泥のように眠る。動くのも億劫で、学生時代の友人ともどんどん疎遠になった。



 そんな中、ネットで見つけたひとつの記事。

 明晰夢めいせきむ。自分の思い通りになる夢。


 睡眠がとれて、遊んで息抜きもできるなんて最高じゃん!と飛びついた。もともと『夢と自覚して見る夢』はたまに見ていたから、習得も早かった。


 それからは。

 休日、いつも通り出勤時間に目覚める自分に悲しくなりながら、そのまま布団にくるまり直す。ぬるくてふわふわした気分のまま夢の中で遊んで、ふと目覚めてしまったらまた続きを見るために瞼を閉じる。

 きちんと覚醒する頃には大体夜になっていて。あんまり体動かしてないからお腹空かないな、なんて思いながらホットミルクを飲んで、今度は夢を見た疲れを取るために横になる。


 仕事のストレスで普段から食欲がなかったこともあって、みるみる体重は落ちていった。

 ……不健康、ですよね。うん。本当は分かってました。


 うつむく私の頭をさわさわと漠が撫でる。


「反省してるの?なんで怒ってるか、わかってる?」


 こちらを心配しているような漠の態度に、不覚にもときめいてしまう自分が憎い。


「……私が、弱ってる自分の体を見ないふりして夢で遊んでたから、怒ってるんでしょ」


 妖怪のくせに、なんてお節介なんだろう。そもそも悪い夢を食べる良い妖怪だから、人間に優しいのかな。

 ふっと、漠が笑う気配がして顔をあげる。


「分かっているなら、いいよ。もうちょっと気を使って。大事な身体なんだから」


 ……ずるい。ずるい。ずるい。


 そんな柔らかい表情で笑わないでほしい。殺伐とした生活のせいで優しい言葉に飢えている私には、甘い毒でしかないのに。久々に人の気遣いに触れて、目頭が熱くなるのが分かった。

 ああ、悔しい。自分が弱っていることに、嫌でも気づかされてしまった。腹が立つから、こう思って気持ちを封じ込める。


 声が低めの美声だったら完璧なのにね、って。

 電子音じゃ、格好つかないね、って。


 ……苦しまぎれなのは、分かっている。


 すん、と鼻をすすったのを誤魔化すように言葉をひねりだす。


「……ご心配は嬉しいけど、だからって今までの行いが許されるってわけじゃないからね」


 味あわされた数々の苦行を忘れた訳じゃない。睨みつけると、漠は肩をすくめた。


「……まぁ、ほんとはもうちょっと楽しめる条件でもよかったんだけど。今までのはちょっと意地悪してみたんだ。夢に溺れすぎるのもよくないと思って」


 君のため、と言われたようでぐっと口を噤む。

 なんだ、それ。別に明晰夢を見るたびに漠がいて邪魔してくるわけでもあるまいし、私みたいなヤツを助けているならそう暇でもないだろう。


「……そんなの、一回だけなら意味ないじゃん」


 思ったより、不貞腐れたような声が出てしまった。


 なんだろう。私、また漠に会いたいと思ってる?

 優しくされたから?寂しいから?自分がわからない。


 ぐるぐる思い悩む私を他所に、ああそれは大丈夫、と何かを企むように漠は笑った。


「今後、アリスの夢に僕がお邪魔することも増えるしね」



「……え?」



 惚けたような私の肩を漠が抱く。


「さぁ、そろそろ時間だよ。目覚めて、食事を取らないと」


 急に解放する、と言い出した漠に反応が遅れる。


 どういう意味、とか。今度はいつ、とか。

 色々考えているうちに、頭に霞がかかるのが分かった。ああ、これは明晰夢から目覚めるときにいつも感じる感覚だ。何か言いたくて、でもまた会えるなら今じゃなくてもいいか、と弱腰になっているうちに夢の世界は遠のいていく。


 またすぐ会えるよ、と囁く声だけが耳に残った。



* * * *



 ――指先に、さらりとした布の感触があたる。

 少し冷たい、これはシーツだ。



 目、覚めてしまった。


 はぁ、と息をつく。瞼を開けると、青白く細い腕が目に入った。

 ……細い、な。色も悪い。心配されるのもしょうがないか、と苦笑が漏れる。


 あれは、夢の世界の出来事。漠自身も明晰夢だと言っていたから間違いない。

 本当に摩訶不思議な存在が居てちょっかいを出してきたのか、それとも現実を蔑(ないがし)ろにした私の罪悪感から生まれた空想の産物でしかないのか。ほんとうのところは分からないけれど、私の身体が看過できないほど弱っているのは事実だった。


 それに。

 ――また会えるなら会いたい。そう、思ってしまう自分もいる。


「……ごはん、食べなきゃ」


 漠のためじゃないし、次に会ったときに文句言われてもムカつくし、と言い訳のような独り言をこぼしながら身を起こす。


 ……ん?

 ベッドの上に座り込んだまま、目を瞬かせた。


 部屋に、見覚えがない。

 サラサラとしたシーツは自分の部屋のものより糊が効いていて、滑りがいい。ベッド脇にはサイドボードがあり、お洒落なスタンドライトが配置されていた。

 私の部屋のシーツはもっと柔らかい綿素材だし、照明は大きくて丸いシーリングライトだけのはずだ。


 どこだ、ここは。というか、ホテルによくあるツインルームのように見える。

 ホテルで眠った記憶がない、と慌ててベッドから降りようと動くと、くんっと頭が後ろに引っ張られた。


「なに?!」


 驚いて手をやると、何かが髪に貼り付いている。恐る恐るたどると、紐のようなものがテープで頭に固定されているのが分かった。それも、一つじゃなくいくつも。


 一体なにが、とわけも分からないままきょろきょろしていると、向かいの鏡台に映った自分の姿が目に入った。

 夢でボブカットにした髪は、現実ではやっぱり伸ばしっぱなしのままで。その髪から何本もコードが伸びている。


 テレビで見たことがある。

 これはまるで。

 脳波を取られる人のようではないか。


 呆然とする。私に一体なにが起こったのだ。眠る前は何をしていただろうか、と混乱する頭で考える。


 昨日は、昨日は、そう、高校の同窓会があった。久々に楽しい時間を過ごして、ついついお酒を飲み過ぎてしまった。

 弱った体は酒がまわるのも早くて、それで――……



「あ、起きた?」


 いきなり掛けられた、聞き覚えのない低い声にびくりとする。視線を上げると、手にサンドイッチの載った皿を持った青年がいた。いつのまに部屋に入ってきたのだろうか。


 目元に少しかかる黒髪。七部丈のシャツにスラックス。見覚えがない姿に、身を固くする。


「……だれ」


「あー、わからない?」


 青年は面白い、という風に笑ってから、同じベッドに腰掛けてくる。警戒してじり、と距離を取った。

 そんな私の素振りを、彼は気にするでもなく手を伸ばしてくる。


「取り敢えず、食事しづらいだろうし、頭の電極取ろっか」


 なんでもない事のように言って、ひょいひょいと慣れた手つきでコードが外されていく。


 ……でん、きょく。

 言葉をなぞるように呟いて、理解した。これ、やっぱり脳波を取っていたのか。


「こんなこと許した覚え、ないんだけど……っ」


 怒りを覚えて顔をあげる。てきぱき作業していた彼の瞳と至近距離で視線がぶつかった。

 見覚えのある、鳶色の、瞳。これは、何度も夢で見た、彼の。


「まずは食べない?反省、したんでしょ。話は後でもできるから」


 宥めるように、頭を撫でられる。さわさわと柔らかいその触れ方は、覚えている、というより経験したばかりで。


「……ば、く?」


 くちびるから、音がこぼれた。

 それを聞いた彼はむっとしたように形の良い眉をしかめる。


「……この距離で顔見てもわかんないようだから言っとくけど、僕の名前は佐伯さえき ようだからね」


 さえき、よう。佐伯、曜。

 そう言われて思いつくのは、高校の、同級生。いつもイチャコラに使わせていただいていた、憧れの人。


「へっ?!佐伯くん?!」


 思わず赤面して、後ろに飛びすさる。

 高校時代は眺めるだけで満足していたので実際の接点はあまりなかったけれど、夢では(勝手に)アレコレした相手。普通の再会より恥ずかしすぎる!


 うるさい心臓をなだめながらよくよく観察してみると、特徴的だった色素の薄い髪が黒くなっている以外、佐伯くんはあまり変わっていなかった。いや、年齢を重ねた分艶っぽさは増している。


「なんで、髪、黒い……?」


 佐伯くんと分からなかった最大の理由を口にすると、黒髪の方が上司受けが良いんだよ、と何でもないことのように答えが返ってきた。



* * * *



 食べて、と差し出されたサンドイッチを口に押し込みながら、質問する。


「ええっと…ところで、これはどういうことなんでしょうか?」


 ちらり、と脇を見ると、パソコンやら何かを測定する機械やらが置かれている。勝手に脳波を測定される、ということに怒りを覚えていたはずなのに、彼が佐伯くんだと分かった瞬間にそんな感情は吹っ飛んでしまった。


 後ろめたい。非っ常ーに後ろめたい。


 男の人がにした相手を前にした時って、こんな気分なんだろうか。急に下手に出だした私を不思議そうに佐伯くんは見ているが、質問には答えてくれた。


「僕さ、脳科学の研究してるんだよね。特に明晰夢について調べてる」


 いわく。


 脳にある電磁波を加えると高い確立で明晰夢を見ることができる。


 さらに、脳波を測定することで、夢の内容は大体知ることが可能。


 その脳波を解析して分かったパターンを外部からの刺激で脳に再現してやれば、明晰夢という仮想世界で様々な体験ができる。


「まだまだ途上の技術だから、サンプルが必要でさ。明晰夢が見れる人はもともと素養がある分刺激に敏感に反応してくれるから、ちょうどいいやと思って協力してもらったってわけ」


 私が同窓会で明晰夢について友人に話していたのを聞いていたらしい。酔いつぶれた君を送ろうにも家が分からなかったしね、とのたまう佐伯くん。


 熱帯雨林に、砂漠に、雪。海での苦行は、電極からの刺激のせいだったというのか。


「……なら、漠は……?」


 思わず口にする。最初はぬいぐるみで、人に変わったあいつ。あれは。


「ああ、あれは僕だよ」


 さらり、と答えが返ってきた。佐伯くんはポケットから手のひらサイズの機械を取り出すと、口元に添えてカチリとスイッチを入れる。


「ほら、こんな声だったでしょ」


 余計な先入観を持たせると再現性が薄れるんだよね、と聞き慣れた電子音が言葉を続ける。

 無意識にかくり、と顎が落ちた。


「姿まではまだ指定できないから、そこは想像にお任せだったんだけど。どんな感じだった?」


 彼は興味津々といった研究者の目でこちらを捉える。


 そんなの、答えられるわけない。ああもう、何て言ったらいいんだろう。泣きそうだ。泣いていいかな。

 思わず天井を仰ぐ。


 ほら、食べないと、研究にはこれからも協力してもらうから健康には気をつけてね、大丈夫、全部おごりだよ、なんて声が聞こえてくるがお構いなしだ。



 私の癒しである不思議の国ワンダーランドは、憧れの人に乗っ取られるらしい。

 そう、ちょっと違うが『NTR』だ。なんてこった。聞いてない、聞いてないぞ!



有栖アリス、聞いてる?」


 佐伯くん、私の下の名前、知ってたのか。

 夢見がち、と評されたことを思い出して、さらに頭を抱えたくなった。

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