シーラカンス幸福論

うみうし(潮見湊)

第1話

シーラカンス幸福論


うみうし   



太古の昔における世界とはひとえに海であった。

「地球は青かった」とガガーリンに言わしめたそれは、生命の生まれるはるか昔、熱くたぎる赤色をしていたと、地球の血潮のように煮えていたと、そう言われている。生き物はまさに地球の胎から生まれたのだ。細やかなバクテリアから、やがて丈夫な骨を。そして鱗を、柔らかい皮膚を、あたたかな羽毛を、と各々に手に入れて、海から陸へと旅立っていった。次の世界へ、誰もいない所へと。


2×××年。

きっかけは些細なことだった。A国が人工衛星を打ち上げたのだ。しかしそれが隣B国のミサイルレーダーに誤反応を示した。B国は人工衛星を長距離弾道ミサイルと認識し、迎撃。激怒したA国は核爆弾を投下。B国は壊滅。さらにB国の所有していた核爆弾を誘爆してしまい、世界のほとんどが放射能の影響を受けることとなった。後にこれは「第三次世界大戦」またの名を、「最も短い戦争」と呼ばれる。


結果は。人口の激減、海面上昇、陸面積の減少、大気汚染もろもろ。

果てに生み出された解決方法は、魚類の遺伝子を組み込み、子孫の遺伝子をより強固なものとするという考えだった。賛否両論ではあったが、世界会議では僅差で可決、そして以降生まれた子供の一部に試験的に実験が開始されたのだった。









 春先だったから海はきれいだった。

次は○○~、○○、お降りの方は~、という、車掌の緩いアナウンスを何度も聞きながら、目当ての場所の名前に変わるのを待つ。

タロが中学を卒業してすぐのある日のことだった。十ばかりも年の違う姉から、「研究で賞を取った。祝いにうちに来い」と、突然かつ強引な連絡が入った。大学に進学してから家に寄り付かなくなった姉は今、海洋系の大学に研究者として在籍しているらしい。甲子園に向けて部活漬けの太郎とは普段はそう会うこともない。いい機会だから姉弟の久々の再会を果たそうということらしい。

早朝の住み慣れた町からタクシーに乗り、列車に乗り、バスに乗り、かれこれ十時間近く。気が付けば白い壁の住宅街もビル群もいつの間にか無くなって、木々のトンネルの向こう側には春の訪れを待つ田畑が広がっていた。

目的地の名前がアナウンスに乗って流れてくる。紫の降りますボタンを押して、軽くバスの運転手に頭を下げて、ようやっと揺れない地面に立てた。

「たろ、よく来たな」

顔をあげれば、家を出た時とあまり変わらないなじみの姉の姿がそこにあった。



「姉ちゃん、荷物ここでいいの」

いーよ、適当で、と適当に返事を返すと、姉はそのままキッチンに向かう。

姉の家は思っていたよりずいぶん海の傍だった。崖の傍に立つここは、坂を下りればすぐに砂浜がある。安普請でいわくつきだからさ、安く借りられてね。景色もいいし気に入ってんの、と、台所のカウンターの向こう側で姉は笑った。

「ほら、お茶ぐらい淹れたげたから感謝しなさい」

手渡された紅茶はハーブティーらしい、すっきりしたミントみたいな匂いがした。あたたかい湯気の向こうには行儀悪くも歩き飲みする姉の姿がある。

天気は快晴で、海特有の強い潮風が漂っている。ぼんやり耳を澄ますと海鳴りが聞こえた。

「でさぁ、結局、姉ちゃんはなんでおれを呼んだの」

「おねしょおばけが出るから」

「うそこけ」

確かに真夜中にトイレまでついてきてもらったとはいえ十年も前の話をまだ持ち出すかこの姉は。姉が腹を抱えて笑っているのを冷たい目で見たが、こたえている様子はなかった。笑い疲れた姉は深く息を吐くと、カップを置いて大きく伸びをする。

「うそうそ。まあね、呼んだからには教えないとな―――」

姉はそう言って外を見やる。ぼくもつられて顔を上げる。大きく開いた窓から入る日差しは眩しかった。いいかたろ、そう言って、姉は一度言葉を切る。日差しが強くなる。黒い影が顔を覆い隠す。

「姉ちゃん、魚になるんだ」

は?と聞こうとした瞬間、細く白い姉の身体が階段を転がり落ちて行った。


               ☆


「―――姉ちゃん」

聞き慣れた声に目を覚ますと、タロが心配げな顔で覗き込んでいるのがわかった。

おお親愛なる弟よ、よくぞ大きくなった、と、サヤコは思う。お前、もうあたしを運べるのか。こないだまでおむつ替えてやっていた気がするんだが。そう告げればそれどころじゃないだろ、何ばかなこと言ってんだよ、と軽くあしらえるようにもなったのは姉としてはどうかと思う。独りで大きくなったような顔をしおってさびしい奴め。

「ちよっと、大丈夫?」

しみじみして返事をしなかったのを体調が悪いからと捉えたのか、あくまでタロの声は心配げだった。大丈夫よぉ、とつぶやいたら、思ったり掠れた声しか出なかったものだから、サヤコは笑うしかない。

「風邪?熱中症?」

不安げに、でも親族特有のあの雑な優しさでもってタロは姉を起こす。それからペットボトルのお茶を渡すと、熱中症には何パーセントの食塩水がどうたら、と講釈を始める。しかしこれが熱中症でないことは姉自身がよく知っている。

「もういい、わかってるわかってる、わたしだって学者の端くれだ、それぐらいのことはわかる」

お互いに話し出すと簡単には止まらない性格も知っているので、とりあえず話を遮る。いいんならいいけどさぁ、としぶしぶやめる弟を見ていると、つくづく大きくなったものだと姉は思った。

「でさあ、姉ちゃん、さっきの冗談なんだったの。」

 タロはのんきな顔で姉を見上げる。その眼はこの世の中にはなにも心配事などないという風にも見てとれた。姉は少し目を細める。その眼は決して笑ってはいなかったが。

「今見せてやる」

はぁ?とまた声を挙げるのを無視して、姉は背中を向ける。

「たろ、チャック、下してくれ」



                      ☆




姉ちゃん、とつぶやいたきり、タロは何も言えなくなった。姉の背に広がるそれを、なんと呼べばいいのかわからなかった。

 「きれいな鱗だろう。中学生ぐらいのころ、生えてきたんだ。できたりはがれたりを繰り返していたんだけれど―――このたびついに定着したのか、もうこんなに広がっている」

背中のチャックを上げながら、姉は何事もないかのようにそういった。まぶたに焼き付く、青い、銀色がかった鱗が姉の細い肩甲骨を覆っていた。

「なんで、姉ちゃん、こんなん」

「多分隔世遺伝だろう。うちのご先祖に魚類の手術を受けた人、がいたんだろうな。おかげで背中の出るものなんか絶対着れなくなった」

こともなげに、まるで近所のスーパーがつぶれたみたいな、そんなささやかな不満のように、姉が言ってのけるので、タロにはどうしたものだかさっぱりわからない。だが姉はつも間違えることはなかった。失敗することもなかった。だからなんだか大丈夫なような気がしてしまって、とりあえず「そっか」と言った。姉は少し笑っていた。




翌朝、朝食を食べると姉が言った。

「どこかいこう、せっかく、お前も呼びつけてきたんだ。ここにいる間に、出かけよう。どこ行こうか」

どこでもいいじゃん、とタロは言う。外は確かに快晴だったから、少し暑いぐらいだった。

「水族館とかはどうだ、あまりもう行かないだろうから、かえって楽しいかも」

「姉ちゃんが興味あるだけじゃないの」

「一流ガイド付だ、ちょうどいいぞ」

嬉しそうに決まりだと笑う姉を見ているともう、なんでもいいかという気がして、いそいそと片付けるのを手伝った。それはそれで、きっと楽しくなるだろう。



家をでて、バスに乗って、列車に乗って、数時間。

姉ちゃん、遅いよ、と、言いたくなるぐらいには姉はゆっくり歩いていた。ゆっくりというよりは、とろとろと、だろうか。いつまでたっても目的地に着かないだろう、と言うが、姉には限界らしい。

「ねえちゃん、年取ってバテた?」

「何を言う、まだまだぴちぴちだ」

「うそつけ、足よろよろしてるよ」

おまえはずるい、と、顔をゆがめつぶやいた姉の顔はいつになく悔しそうだった。


来るまではずいぶんと手間がかかったけれど、水族館はおおむね楽しかった。一流ガイド、と自分で言っただけあって、タロが少しでもこれは何?と聞くと姉はご丁寧に解説を山のようにつけてくれる。面白かった。

そんないくつもの展示の中に、ひときわ暗い場所があった。

「あれは?」

「深海コーナーだな。これはシーラカンス―――学名はラティメリア・カルムナエ。太古からほとんど進化しなかったと言われている。古生代デボン紀に出現したが、約6500万年前を境にほとんど全ての種が絶滅した、と、思われていた。だが、南アフリカで現生種の存在が確認されて「生きた化石」と呼ばれるようになった。」

姉の解説を聞きながらタロはその水槽に目を凝らす。黒っぽい魚がいくらかきゅうくつそうに泳いでいるのがわかった。

「こいつらは、ずっと深海にいたんだ。変わらなくってよかったらしい。深海は環境が安定しているから、進化する必要がほとんどなかった。」

そういった姉の横顔は、少しばかりさびしげにも見えたのだった。


シーラカンスの前を後にしようとしたとき、何かが光った。

そう思った一瞬、原因はすぐにわかった。姉だった。姉のうなじ、うす青い鱗だった。手を伸ばす。指先が触れる前に姉は振り向いて、少しばつが悪そうに笑った。

「―――こういうものなんだ、気にするな」

だけど、と、言葉を返す前に姉は先へと進んでいく。横顔はあくまで楽しそうで、タロはそれ以上何も言えず、ただ姉の背中を追った。

水族館を出たのは夕方で、家にたどり着いたころにはもう星が出ていた。



夕食の後片付けをしている時だった。

テレビのくだらないギャグを見て、大笑いして姉を呼ぼうと、そう思ったとき。

がちゃん、と音がした。

「姉ちゃん!」

「や、大丈夫」

あわてて台所に向かえば、姉は床にひっくり返ったまま、壊れた皿の破片にまみれていた。大丈夫大丈夫、へいきだと、そう何度も繰り返す。

大丈夫、じゃないだろ。そうつぶやいてケータイを出す。119まで押したところで、姉の手がそれを奪う。

「だめ」

そう言ってニヤッと笑う。

「だって――――」

「だってじゃない。姉ちゃんを信じてないのか?」

姉は笑っている。心配ないと何度も繰り返しながら、笑っている。しかし呼吸が浅いのも、姉のうなじの鱗が、頬のあたりまで出てこようとしているのも、もうはっきり見て取れた。

姉はまだ笑っている。タロは笑えない。

「なぁ、―――姉ちゃん、やっぱ病院行こうよ」

姉は急に押し黙る。タロはなんといえばいいのかわからなくなって、同じように黙った。気まずい沈黙ののちに、先に言葉を見つけたのは姉だった。

「……何故?」

「何故って―――――だって、息苦しそうだし、もう顔は無事だからなんて隠し通せるものでもなし。鱗が生えるなんて普通じゃないよ。何かある前に――」

「何か?もう起きてる!」

「姉ちゃ―――」

「お前は――――お前には、こんなものついてない癖に!」

かしゃん。ややあってその音が自分の眼鏡の落ちた音だと、タロは気づく。続いてそれが、姉の平手打ちの手がかすったから、というのにも気が付いた。

「こんな―――こんな姿、で、」

ひゅうひゅうと息をする音がした。姉の顔はゆがんでいる。

「足が動かなくなった。息もできなくなってきている。頭だって不鮮明だ。このまま―――このまま、何もできなくなるぐらいなら、ここから消えてしまう方が、ずっと、ましだ!わたしは、お前みたいじゃあない!」

姉は目を剥いて吐き捨てるように言う。こんなみっともない、劣っている、と、繰り返した。タロはそれがなんだか無性に癪に触って、顔を険しくする。

「だから隠し通すって?――――できるはずないじゃないか、もうそんなにふらふらなんだろ」

姉は大きく首を振る。うずくまって、こうべを垂れた。

「―――お前には、わからないくせに」

「わからないね、ちっとも」

だからなんだ?わからなきゃいけないのか?タロは息せき切って話し出す。ほとんど叫ぶみたいにして、タロはしゃべった。

「そうだよ俺はなんにもついてないよ、水かきも鱗もないし、今の姉ちゃんから見ればうらやましいだけなんだろうな。だからってなんだよ、被害者面か?」

運動ができたのは?ピアノがうまかったのは?成績は?両親に愛されていたのは?数えるまでもなかった。全部、全部姉だ。何もかも奪っておいて、と、タロは叫ぶ。顔をあげれば姉は固くこわばった表情で黙っていた。その顔がいかにも傷ついているようだったから、タロは一層声高に叫ぶ。海の音は聞こえない。

「いつだって特別なのは姉ちゃんだ!」

叫び声と同時に、かちゃん、と、流しから滑り落ちた皿がもう一枚割れた。




雨が窓をたたいていた。うるさいなと思う。真夜中だというのにタロはどうしても眠れなかった。先ほどの喧嘩がまだ頭の中をちらついていた。ベッドの中でも、姉の言葉と自分の言葉が何度も何度も繰り返しリフレインしては消えていく。海の波のように。

姉は怒ったろうか。傷ついたろうか。多分、どちらの言い分も事実なのだろう。

しかし激情に駆られて叫んだ言葉のどれも姉は知らなかったろうなと、知っていても考えたことなどなかったろうと、そんな確信だけはあった。

ざまあみろ、と思った。知らなかったろ。どうしても気持ちは晴れなかったが、そう思うことにした。まぶたを下す。明日の朝食はきっと気まずいだろうと、そう思いながら、タロは目を閉じた。



翌朝、いつまでたっても姉は起きてこなかった。

「どうしたんだろ、寝坊かな」

いぶかしく思っていて、ふと、テーブルに目をやる。紙切れが一枚。「さよなら」と、一言。

「―――――――姉ちゃん?」

ざわざわと胸が騒ぐ。血の気が引くおとが聞こえた気がした。

そのまま家を飛び出す。姉ちゃん、姉ちゃん、と何度か叫んで、崖の方に向かう。ふと下を見下ろす。白い塊。目を凝らして、何度か瞬きをして、それから凍り付いた。

「姉ちゃん!!!!」

大声を上げて駆け下りる。助け起こした姉は予想以上にぐったりしていて、タロはひるんだ。姉ちゃん。姉は死ぬのだろうか、そんなことが頭の裏側をかけていく。何度も呼びかけた。

「姉ちゃん、姉ちゃん、何考えてんだバカッ、ちょっとおい、しっかりしてくれ!姉ちゃん!」

そんな大声ださないでも、きこえる、と、抱き起した塊から返事が返ってきて、とりあえずタロは一人ほっと息を吐く。

しんぱいはない、と、がさがさした声がささやいて、けだるげに髪を撫でた。

「たろ、連れて行って、くれないか」

姉の鱗はもう、足全体に広がっていた。頬にもそれは這い上がってきていて、とてもじゃないが歩き回れるとは思えない。

「どこへ?」

「海、に」

おねがいだ、と、苦しげにそういわれ、タロは結局断ることができなかった。



話すのもおっくうそうな姉を抱え、タロは坂の下へと降りる。

姉が苦しげにもたれかかってくるので、歩きにくかった。

「お前、いつの間に」

「大きくなって、だろ、姉ちゃんの知らない間にね」

どうやらそうらしいな、と姉は笑う。笑って、少し咳き込んだ。姉の体はもうほとんど肺呼吸を必要としなくなっていて、乾いた陸の風はただただ姉には毒なのだ。

もういい、ここらで、と姉が言う。タロは素直にそれに従った。

海水に浸れるように肩を支えてやれば、足回りの鱗に生気が宿ったのが傍目で見ていても良く分かった。

昔よりずっと小さく感じる姉の背を支えて、波打ち際まで近づく。昨日の清掃活動で、ごみ一つないきれいなものだった。

「姉ちゃん」

「うん」

「海だよ」

「ああ」

うみだな、と、呟く姉の顔はいつもの通りだったけれど、ただ体中が鱗で覆われていて、それだから余計に姉以外の誰にも見えないと思った。姉は姉だった。

「姉ちゃん、お願いだ。――――やっぱり、病院行こう、そんで、帰ろう、一緒に」

姉は何も言わない。続く言葉を待つようにこちらを見つめていた。

「変わるの――――魚になるの、嫌かもしんないけどさ、でも、変わらないものも、あるから。――――俺にとってはねえちゃんは、いつまでもおれのねえちゃんだから」

うまく伝えられたか自信はなかった。でも、姉を支えながら歩いて、それで見つけた、精一杯の真実だった。

姉は少し笑った。それから、なんでお前ってやつはそうお人よしなんだろうな、とささやいた。

「―――明日、病院というか、うちの大学に、連れてってくれるか。うまくすれば多分、こういうのに対処してくれる人がいるかもしれない。ちょうど教授の知り合いに、そういう人がいたはずだから」

つかまったりしないかな、研究材料にさ、と、そう言ったら、姉はばかだなあ、と、そう言って、笑ってくれた。いつもみたいに。今度こそ本当に、笑っていた。

真夜中のあの雨雲はもう遠く去っていて、さわやかな湿り気だけがあたりをひたしていた。日差しはあたたかく、潮風は雲をさらい押し流すように強く強く吹いている。

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シーラカンス幸福論 うみうし(潮見湊) @umiushi_mare

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