action1-20


 『ごめんね、紡君。愚かな僕を、どうか許してくれ』


 遠ざかった意識の中で、紡は確かにその言葉を聞いた。誰かが泣いているような気がして、必死に触れようと手を伸ばす。だが、手は何かに触れることはなく、するりと通り抜けてしまった。


 (どうして、何も触れられないの)


 疑問に思って目を開けてみると、そこはモノクロの世界だった。いつか見た夢のように色鮮やかで五感が研ぎ澄まされてはなく、今度のは色が失われている。ただ色だけが失われた世界は、リアル感だけは失っておらず、漠然とした不安だけを煽る。何が起こっているのか分からず、目をあちこちに向けていると、大木の前に佇んでいる人を見つけた。


 背格好からして男だろうか。男は大木の前で膝を折っている。体が小刻みに震えているところからすると、泣いているようだ。

 紡はそっと男の背後から忍び寄ると、顔を覗き込んでみた。


 (え……咲夜、さん?)


 大木の前で泣いているのは咲夜だった。紡は驚き、思わず口元に手を当てた。泣いている咲夜には紡のことが見えないらしく、しきりに謝り続けている。


 『ごめんね、紡君、ーー君。許してくれ、こんな愚かな僕を』


 紡には訳が分からなかった。何故咲夜がそこまで自分を追い詰めて、泣き崩れているのか。ゆるゆると視線を下げると、そこで初めて足元に何かが埋まっていることに気付いた。


 何が埋まっているのか、見たくないと思いつつ目を向けたが、そこだけが白く塗り潰されていて何が埋まっているのかまでは分からない。


 仕方なく紡は辺りを観察してみることにした。大木以外には苔の生えた壁が緩やかなカーブを描いており、後は小さな野花が咲いた地面だけしかない。ふと、この光景に見覚えがあるような気がする。


 それがどこだったのか思い出す間もなく、紡の意識は浮上していった。




 「ん……」


 気付けば見慣れた天井が視界に映った。ここは蝶本部の医務室だ。痛む体を無理に起こして、状況把握に努める。自分は路地で暴走者に襲われた。殺されそうになった時、誰かが庇ってくれて意識を失ったんだ。


 (あの後、どうなったの?)


 腕に刺さっている点滴を見る。中に流れているのは、赤い液体。つまり自分は、輸血を受けなければならないほどの怪我を負ったということなのだろう。


 問題は誰がここまで運んでくれたのかということだ。その時、ドアがノックされた。


 「はい」


 一拍の間を置いて、紡は返事をする。中に入ってきたのは咲夜だった。入ってきた咲夜は、紡の意識が戻ったことに歓喜したものの、傷が塞がっていないのにベッド上で起きている姿を見つけて、顔を顰めた。


 「よかった、意識が戻って。でも、まだ傷が塞がってないんだから、起き上がるのはダメだよ」


 咲夜は軽く叱り、ベッド脇にある椅子に腰掛ける。そうして起きている紡の額を指で突いた後、優しく頭を撫でた。


 いつもと同じ仕草であるのに、表情は今にも泣き出そうに見える。紡の中にさっきまで見ていた夢の一部が蘇った。

 大木の前で膝を折り、泣き崩れている咲夜の姿を。


 あの光景を思い出して、胸が痛む。けれど、その痛みを顔に出すことは出来ない。咲夜にいらぬ心配を掛けてしまう。


 無理にでも頭から振り払うと、ずっと気になっていたことを思い出した。


 「あの、咲夜さんが助けて運んでくれたんですか?」

 「いや、助けたのは……」


 言いかけた言葉に間が空いた。紡は不思議そうに首を傾げて、言葉の続きを待つ。


 「咲夜さん?」

 「ああ、ごめんね! うん、そうだよ。駆けつけたら君が倒れてたからね。ここまで運んだんだ」

 「……そうなんですね、ありがとうございます」


 この時、咲夜の表情に苦悩の色が入ったのを紡は見逃さなかった。彼が何を思って、何を考えて苦悩の色を浮かべたのか。


 (何か理由がある? 巧妙に私にだけ、隠されてきた理由が)


 隠された理由が、事件の真相と暴走者から助け出してくれた本当の人物と何か繋がりがあるとしたら。


 紡は、今までの自分が偽りであることなど信じたくはなかった。今ここに存在している自分は、確かに本当で偽りはないのだと思っていた。だからこそ、心の中では分かっていながら、今まで目を背け続けてきたのかもしれない。


 知る必要が、思い出す必要がある。毛布の中に入れた拳を自然と握り締めた。


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