action1-5
吐き出された息は水泡になる。温かい液体の中を体は浮いていて、手足は少し伸ばしただけで弾力のある壁に動きを阻まれた。お陰で体は丸まったままだ。
身じろぎする度に、壁は彼女を押し返す。外に出ようとすることを止めようとするのだ。
(邪魔をするな!)
苛立ちから思い切り壁を蹴るも、足はなんなく押し返されてしまう。ただ外に出たいだけ、外はどんな世界なのか知りたいだけ。
しかしこうも狭いと、今自分が上を向いているのか、それとも下を向いているのかが分からない。平衡感覚が麻痺してしまっている。
(いつになったら出られるのだろう)
時折耳に外の音が届く。音は籠ってよく聞こえないが。そうだ、今なら外の様子が見えるのではないだろうか。期待を込めて瞼を持ち上げようとする。だが、瞼が糸で縫いつけられたように引っ付いて離れなかった。
なんともどかしいことか。ならば精一杯の抵抗で暴れてやろう。やがて手に負えなくなって、ここから出られるかもしれない。
手足を伸ばそうとした時、突然体が凄い勢いで引っ張られていく衝撃が彼女を襲った。まるで重力によって引きずり落とされるような感覚。
(ああ、このまま落ちたらどこに行き着くのだろう?)
胸中を支配していく不安と、もうすぐ出られることへの歓喜。相反する感情を抱えて、彼女は念願の外へと生まれ落ちた。
今まで温かかった中に生じる微かな寒気。彼女の動きを阻んでいた壁に、亀裂が入ったのを肌で感じる。
手を上へ上へ伸ばした。必死に這い出ようと、液体をかき分けていく。柔らかい感触ばかりが続く中、ふと手に硬い感触が伝わってきた。
体を一気に前に出す。直に冷風を浴びたような確かな寒気を再び感じて、本当に外に出られたことを実感する。
冷たく硬い感触に身震いをした。
『おはよう。気分はどうだい』
聞き覚えのない声の方に顔を向ける。
『おや? 目が閉じたままじゃないか』
誰かの手が彼女の頬に触れた。若干冷えた頬にほんのりと温かさが伝わる。
『恐れなくていい。ゆっくりと目を開けてごらん』
(目を……)
誰かの声に従って、ゆっくりと瞼を持ち上げてみる。あれだけ開かなかったのに、今度はなんなく瞼が持ち上がった。
『うっ……』
光が眩しくて、視界が一瞬だけ白くなる。何度か瞬きをすると、徐々に辺りの光景が見えてきた。
銀色の世界。壁も床も、全てがきらきらと光輝いているように彼女の目に移る。
そして、目の前には白い上着を纏った青みがかった髪の男が一人。男は優しい笑みを浮かべながら言った。
『僕が、見えるかい?』
『……はい』
少しの間を開けて震えるか細い声で答えると、男は満足したように笑った。不思議と男に対して警戒心も恐怖もなかった。
次いで男は風邪を引いてしまうから、と纏っていた上着を脱いで彼女に掛ける。
そこで初めて彼女は、自分が裸なのだと気付いた。白い肌には薄い紫色の液体がついていて、髪も濡れて肌に纏わりついている。
前がはだけないように、上着をしっかり胸元で合わせる。上着はまだ仄かに男の体温を残していた。濡れた体はだいぶ乾いてきていて、体温を奪われたからだろう、微かに寒気を感じる。
更に視線を巡らせると、床には赤くて丸かったであろう物から、彼女に付着していたのと同じ薄紫色をした液体が流れ出していた。
『同じ色……』
『ん? ああ、これのことかい』
不思議そうに自分の体に付着した液体と赤い物を交互に見ていると、男が教えてくれた。
『これはね、君が生まれるまで入っていた、エデンの実という特殊な実なんだよ』
もう一度赤い物ーーエデンの実を見た。赤い実は割れ目が真ん中から横に大きく入っている。彼女が這い出たことにより形を保っていられなくなったのか、今は地面に崩れている。
彼女の目には、役割を終えた実があるべき姿に変わっただけのように映った。
『さて』
男が場を取り繕うように話題を切り出した。
『まずは、君の名前を教えよう。君は弓槻 紡、年は十八だ』
紡。何故か、その名前を懐かしく感じる。
『僕は九条 咲夜。君の、養父になる』
『お父さん……?』
『そう、君のお父さんだ。誕生おめでとう。そして、これからよろしくね、紡君』
不意に紡は目を醒ました。懐かしい夢を見たのだ。自分がエデンの実から生まれた時に優しく声を掛けてくれ、なおかつ引き取り手のない自分を養子として引き取ってくれた咲夜との出会いは、今でも時々こうして夢に見る。何よりも優しい夢。
エデンの実から生まれたクローンは、全員が全員というわけではないが、ラボで育てられる者と外部からの養子縁組で引き取られていく者とに分かれる。
それでもあぶれ、引き取り手もラボも一杯の場合は、必要な物を揃えて自力で生活をしてもらうという状況になる。
要するに放置状態だ。放置状態にされたクローンは一応ラボから生活の保障は受けられるようになっていると小耳に挟んだことがあったが、事実はどうなのか分からない。
放置された状態のクローンは、保障さえされいるものの保護まではされていない。そこに漬け込んで良くない人間が、言葉巧みに騙して……ということも少なくないのだ。
紡はつくづく自分は幸運だと思った。生まれたその瞬間から自分は咲夜の養子として、そして蝶の一員として迎えられることが決まっていたのだから。
もしもあの時、側に咲夜がいなかったら自分はどうなっていたのか。考えて身震いする。
冴えていた頭の中を再び睡魔が覆い尽くしていくのを感じながら、紡はもう一度眠りについた。
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