action1-2

 西暦二〇五〇年、六月末日。時刻は午前十時を過ぎたあたり。

 弓槻 紡ゆづき つむぐは、生死が交じりあった街の路地を駆け抜けていた。建物で遮られ、陽射しの届かないここは薄ら暗い。


 前には追っ手から逃げる一人の男性。ここには紡の他に彼しかおらず、どうみても追っ手というのは紡のことだ。


 「……っ」


 追いながら若干、紡は焦りを感じていた。男性の容態は良くない。進行状況が早く、完全な暴走状態に陥るのは時間の問題だ。手がつけられなくなる前に、捕まえなければならない。


 しかし男性の走行速度は速く、脚力にそれなりの自信がある紡でも、どんどん間が開いていく。このままでは見失ってしまう。

 咄嗟に紡は、速度を緩めることなく横手にある壁から不規則に突き出している排水管を足場にして、ふわりと上空を舞った。茶色の瞳に建ち並ぶビルや家が映る。


 時と場合によっては、上空から見ることは状況把握に適していることもある。下にある路地を逃げている男性の姿を捉え、次いでその先を見た。

 男性が向かっている先は、行き止まりになっている。追い込むなら、あそこしかない。いち早く見当をつけ、重力に逆らうことなく落下する。


 下から受ける風は強く、髪や服を大きくはためかせる。そのまま地面に着地はせず、跳躍力で排水管を伝って移動した。


 一方、紡が未だに追っていることに気づいたのだろう。男性は更に奥へ奥へと逃げていくが、行き着いた先は行き止まりだった。

 見事なまでに誘導され、路地の奥に追い込まれ焦った男性は、狂ったように叫び出す。


 (いけないっ)


 捕獲しようと足を一歩踏み出した途端、男性は鋭い目つきでこちらを見た。彼全体が殺気を帯びている。

 肌を刺す刃物のような鋭い殺気。眼光に宿るのは、紡に向けた殺意。その圧倒的な雰囲気に気圧され、紡はそれ以上前には踏み出せなかった。

 次第に男性の瞳が赤くなっていく。口は半開きになり、塞がらない。あいたままの口からは涎が垂れ、瞳はつり上がっている。


 「……ダメだったか」


 こうなってしまった以上、捕獲は不可能だ。腰につけたホルダーに手を伸ばしたのと、男性が獣のような咆哮を上げて飛びかかってきたのはほぼ同時だった。


 目前に迫る死の恐怖に、目を瞑ることなどしない。彼との距離は手を伸ばせば届く所にまでなっていた。紡に向けて伸ばされる手。


 しかし、紡を殺そうと伸ばされたその手が、彼女に触れることはない。密かに構えていた銃口から銃弾が発射され、彼の心臓を貫いたからだ。

 赤い血飛沫が舞い、頬や服に血飛沫がつく。微かに匂った鉄臭さ。絶命した男性は音を立てて、地面に倒れ込んだ。




 「こちら西地区。先ほど、捕獲対象のクローン男性を射殺。進行状況が早く暴走状態に陥り、危険と判断したため、止むを得なく実行。処理班の要請を求む」


 左目に着けたネルヴォイで組織に詳細を報告してから、辺りを見渡した。事情を知らない者からしたら、犯罪だと思うことだろう。紡達だって、無闇やたらに射殺しているわけではない。


 暴走状態のクローンを放置していれば、周りが危険なのだ。だから紡達は、暴走状態に陥った者に関してだけ、射殺という手段を取っている。

 これはあくまで最終処置に過ぎない。本来、暴走の兆候がある者は捕獲してラボで調整させるのが第一処置だ。


 元より寿命が短い紡達クローンは、半年に一回ラボでの調整が義務づけられている。先ほど射殺した男性は、つい最近調整を受けたばかりだった。


 足元に倒れている男性を見る。胸ポケットから男性の家族と思われる写真がはみ出ていた。彼の死後、残された者がいる。そのことについて胸を痛めた。


 これで今日の巡回は終わりか。処理班の到着を待つ間、ネルヴォイでクローンリストの整理を行っていた。後から思い出すと、油断していたとも言える。考えもしなかった予期せぬ事態が起こった。


 目前に表示されたクローンリストに目を通していた時、臨戦体勢を解いた紡の背中にどこに隠れていたのか、もう一人の暴走者が飛びかかってきたのだ。


 左肩に感じる衝撃と痛みに気づいた紡は、後ろにいる暴走者の腕を掴み、軽々と投げ飛ばした。


 (もう一人いたなんて、気づかなかった)


 不意を突かれるとは。投げ飛ばした暴走者は女性。女性は激しく体を壁に打ち付け、そのまま地面に倒れる。


 「人を噛むなんてっ……まさに獣だ」


 痛む肩に目をやってから、たった今心の中で思ったことを口にする。彼らのことは、前々から獣のようだとは思っていたが、どうやら本当に獣そのものであるようだ。鋭い歯で抉られた傷口からは出血をしている。


 礼服越しに噛みついて肩の皮膚を抉るには、普通の人間の顎の力ではどうやったって無理だ。せいぜい服を噛み破くくらいだろう。それなのに、彼らは一度噛んだだけで服だけではなく肩の奥にまで歯が達している。人間にはあり得ない噛む力。これを獣と呼ばずしてなんと呼ぶ。


 「いっ……た」


 破れた箇所から覗いている傷口に僅かな風や振動が伝わる度に、痛みが自分の存在を強く主張してくる。処理班が来るまでに早く片付けなければ、二次被害が出かねない。


 地面に倒れていた女性が起き上がり、咆哮を上げて飛びかかってくる。押し留めることすらしないだだ漏れの殺気。赤い瞳は瞳孔が縮み、それは狩りの時の獣の瞳だ。


 女性は好機とばかりに、意図的に構えていないがら空きの懐へ誘われるように飛び込んできた。紡は女性の腹部に思いきり膝蹴りをお見舞いする。膝が上手い具合に鳩尾に入ったのか、女性はえづいた。えづいて数歩下がった隙にもう一発蹴りを入れておく。


 よろめいた女性の胸部を素早く構えたリボルバーで撃ち抜いた。銃弾は胸部を貫通して背後の壁に弾丸がのめり込む。貫通した後から花弁のように血飛沫が散らしながら、女性は息絶えた。


 荒々しく息を吐きながら傷口を手で押さえていると、処理班が到着した。肩から血を流している紡を見た処理班は、驚愕の表情を浮かべたものの、すぐ組織に詳細を報告し現場での作業を開始した。立ち往生していた紡を処理班の一人が止血に包帯を巻いてくれ、バイクに乗せて組織まで走ってくれたのだ。


 組織に緊急送還された後、医療班による傷口の消毒や細菌が入っていないか病理検査や血液検査も行われ、やっと解放されたのは昼を過ぎた頃だった。


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