第二話 雨の中のあなた

@kazuya

雨の中のあなた

雨の日に、彼は必ず現れた。

まさに、現れたと言う表現がふさわしい。

気がつくと、いつも彼がそばにいた。


今日も新宿駅の南口を出ようとすると雨で、仕方なく雨宿りしていると背後から傘が差し掛けられた。

・・・彼だった。


偶然ではないのに、偶然だと思わせてしまう彼。

待ち伏せていたか、後を尾けて来たのに違いない。

だが、その自然さは、いつもさり気なかった。


高島屋横の紀伊國屋書店で、私は本を探す。

一緒に来た彼は、欲しい本が見つかると、必ず私に見せに来る。

決して読めとも買えとも言わない。


彼と毎日、こんな時間が過ごせたら・・・と思う。

絶対に許されるずのない愛なのに。心の底からそう思う。

彼といる時間は、いつも私は幸せだった。


帰りに必ず、彼はカバーつきの文庫本を一冊プレゼントしてくれた。

帰る時は、雨の中を彼と新宿駅まで歩く。

彼とはもう、何十回別れただろう。


だが、別れた翌日にいつも私に会いに来る。

雨の中を、今日のように。


父も母も、私が彼と付き合っていることは知っていた。

だが、結婚は猛反対だった。彼の学歴が高卒だったから。

父も私も東大卒で、帰国子女の母はがケンブリッヂを出ている。


彼のことを両親に言うと、真っ先に彼の出身大学を聞かれた。

もう三年つき合っているのに、両親は絶対彼に会おうとしない。

二人にしてみれば、高卒など人間の内に入らないのだ。


彼と私は、いずれ必ず別れなければならない運命にあった。

母はすでに私の結婚相手を探していて、結婚のカウントダウンは始まっていた。


私は何度か、自ら彼と別れようとした。

しかし、いつも二つのことが決心を鈍らせた。

一つは彼とのセックス、、もう一つは彼の性格だった。


彼はセックスが上手だった。私と相性がいい、と言ってもいい。

それが男性としていかに希有な才能であるかを、その時の私は知らなかった。

それに気づくには、私はあまりにまだ若すぎたのだ。


私の体の動き、気持ちの昂まりに,彼はいつでも合わせることが出来た。

決して自分勝手ではなかった。余裕を持って、私を待ってくれた。

私は彼とセックスをすると、いつもその甘美さに我を忘れる。


しばらく会えない時は、彼の部屋まで行ったことさえある。

始めはそれに溺れたが、次第に後ろめたさを感じるようになった。

セックスの歓びを覚え、結婚した相手と心置きなくしたいと願うようになっていった。


そのためには、彼と別れなければならない。

体と心がバラバラだった。

彼のセックスが下手だったら、これほど悩むことはなかっただろう。


歩いていて、ふと彼の手に私の指先が触れるだけで、軽いエクスタシーを感じた。

もう一つは彼の性格である。

彼は決して怒らない。


三年間つきあっていて、一度として怒った表情を見たことがない。

これも私が知っている男性として希有だった。

それが人間としていかに大切な資質か、私は知っていた。


父がいつも不機嫌なため、母が苦労しているのを見て育ったから。

にもかかわらず、母は温和な性格より学歴を私の夫に望んだ。

今日一日を、これまでと同じ当たり前の日として過ごそう。


私はそう決めて、今日家を出て来ていた。

明日は両親と共にニューヨークへ旅立つ。

ついに私の結婚が決まり、一週間後にニューヨークの教会で挙式するのだ。


今日で彼とは本当の別れになる。

彼を苦しめたくなかった。いつもと同じように別れたかった。

夫になる男は日本の有名企業の支社長をしているため、


私は最低三年は日本へ戻って来られない。

彼に取って、私の居ない三年はあまりに長すぎる。・・・哀れだった。


・・・三年ぶりに日本へ帰って来た。雨が降っていた。

夫も結婚も、ニューヨークも、全てが私が期待したものとはまったく違っていた。

望んでいたものを手に入れることも出来ず、失意の帰国だった。


特にショックを受けたのはセックスだった。

彼が与えてくれた甘美な歓びは、男なら誰でも与えてくれると思っていたが、

それは大間違いだと最初に気づいた。


ニューヨークでの初夜だった。

夫とのセックスは味気なかった。と言うより苦痛以外の何ものでもなかった。

その間目を開けて、私は白い天井を見ていた。


私のためでなく、夫のためのセックスだったから。

彼と経験したあの甘美な世界は何だったのか。

徹底的に避妊したので、三年の間に子供は出来なかった。


日本へ戻った目的はただ一つ。彼と会うこと。

あの経験がもう一度出来るなら、何を犠牲にしてもいい。とさえ思っていた。

子供を作るなら、彼との陶酔のあの瞬間に!と願った。


女として、当然と言えば当然の気持ちだった。

産むなら、最愛の人の子を!それ以外の男の子は欲しくない。


新宿駅南口を出た。小雨が降っていた。

さすがに彼は現れなかった。

駅の周辺はすっかり変わっていた。


彼に遭遇するために、私は周辺を歩き回った。

だが、彼の姿はなかった。無理もない。三年経っているのだ。

私のことを忘れ、どこかの女性と結婚しているかも知れない。


その可能性が高いと思った。

帰ろうと思い、高島屋脇の木製遊歩道を歩いていると、隅に白い花束がおかれているのに気づいた。


なんだろう?

デパートへ入り、受付で花のことを聞いて見た。

若い受付掛は、古参の上司を呼んでくれた。


「ああ、あの白い花ですか。今も若い女性たちが、花を手向けて行きます。三年前の雨の日に、若い男性が屋上から飛び降りたのです」

上司と言う男の言葉が、最後まで私の耳に入らなかった。


「その男性の名前は・・・名前は分かりますか」

「たしか、志手様と言ったと思います。珍しいお名前なので覚えています」

礼もそこそこに、私はその場を離れた。


・・・彼だった!!

三年前のあの雨の日、彼は私と別れた後屋上から飛び降りたのだ。

私が普段と変わりのない態度で接しようとしたように、彼も私のニューヨーク行き


を知りながら、それを隠し通したのだ。

思い残すことなく、私をニューヨークへ旅立たせるために。

次第に激しくなる雨の中を、傘もささずに私はただただ歩いた。


慟哭の嗚咽が堰を切って漏れた。

雨がもっと激しくなればいいのにと思った。

これは罰だ!天が私に罰を与えている!!


彼を捨てた私を天が罰し、二度と性の愉悦を与えまいとしているのだと思った。

彼を求めて、私は降りしきる雨の中を歩いた。

彼を見つけるまでは、もうどこへも戻らないつもりだった。


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