第2話(4)
行き場がないので映画館近くのコンビニの前のベンチでアメリカンドッグにケチャップとマスタードを敷設していると、ウミメシ先生に遭遇した。
「こんな時間にどうしたんすか先生」
「それはこっちの台詞ですよ」ウミメシ先生はぶら下げていたコンビニ袋を開いて、コーヒーフィルターとアーモンドチョコを俺に見せた。「もしかして久郎と喧嘩でもしたんですか? あいつ目つきと態度と口は悪いけど根は悪い奴じゃないんですよ?」
ああそれは知ってます。
アメリカンドッグをひとかじり。売れ残り、長い間ホットなケースの中で熱にさらされていたのだろう。表面カチカチ生地パサパサ。しかしそれでも美味い。酸っぱ甘辛肉肉しい。
「違いますよ。眠れる有様じゃないんですよ映画館。オールナイトとかで茄子の洗い場になってます」
「茄子じゃなくて芋の洗い場です。土で汚れた芋を、桶に入れて……こう、掻き混ぜて洗うのが語源で。というかそれ海水浴とか水場の混雑を表現する言葉で……」現国教師のウミメシ先生は拳で円を描きながら、教え子の国語力の低さに眼を細めた。「にしてもオールナイト? なんでまた突然そんなことを。ただでさえ閑古鳥が鳴いてるのに、どこの誰が好き好んで深夜に行くんですかあんなところ」
あんたに紹介された俺の職場あんなところ呼ばわりされとる。どうやらウミメシ先生も記事の件をご存知ではないようだった。
「これっす」俺は携帯電話を取り出して、先ほど久郎に教えてもらった記事をウミメシ先生に見せた。「この記事がきっかけで映画オタどもが大量に押し寄せてます。ネット社会の闇です」
「はー、これはこれは……あー、これは……」
俺の携帯電話を握り締め、食い入るように記事を読むウミメシ先生は、これまでに見たことのない顔をしていた。千文字程度の文章を読了するのに要する以上の、明らかに長い数分が経ち、ウミメシ先生はようやく顔を上げると、携帯電話を俺に返しながら、「やばいかもしれませんね、これは」と苦笑した。
「やばい?」
ウミメシ先生は「ん~」とわざとらしく唸った。
「杞憂だといいんですけどね。しかしまあこんなことで倖一郎君の安眠を奪ってしまってすみませんというやつです」
「いえいえ、ずいぶんと助かりましたし」
「今夜はこれからどうするんですか?」
「どうするって帰りますよ。家に。ゴーホーム。バックホーム。レーザービーム」
俺は虚空にボールを投げるふりをしながら嘘をついた。
「帰れるんですか?」
つい先ほどまでの柔らかい雰囲気は消え、真剣な眼差しで、俺の目を見て、教育者の顔のウミメシ先生。きっと彼女の頭の中のストーリーでは俺は家庭の事情かなんかでおうちに帰れない、帰りたくないキャラクターになっているに違いない。ウミウシ先生はそのへん誤解しているし、久郎とジジイに到っては事情を聞きすらしない。
「帰れますって。なんの問題もありません」
帰れる。ウミメシ先生が想像するようなドラマは俺にはない。家に帰れば柔らかいベッドと暖かい布団がある。ただそこでは眠れないだけなのだ。
「それならいいんですけど……ああそうでした、倖一郎君に謝ろうと思ってたことがあって……えーと、ユマってわかります? ちょくちょくテアトル三津由園に来てると思うんですけど若い金髪の女の子が。あの子小学中学とわたしの同級生で、まあ幼馴染みたいなやつなんですけど、彼女がですね、こないだ倖一郎君のことをいろいろ訊いてきて、まあ普段は何も教えないんですけど、その日は私もお酒が入っていたこともあって、倖一郎君がバイトすることになった経緯とかを、ついポロリと喋ってしまいまして、いや本当に申し訳ないです……生徒のプライバシーを軽々しく……というか倖一郎君に迷惑かけてないですかユマの奴? あの子馴れ馴れしいうえに馬鹿だからきっとウザいでしょう。絶対にウザいと思うんですよ。でもあの子、頭は悪いけど悪い子じゃないんですよ」
ああそれも知ってます。
「たぶん仕事のこととか倖一郎君にも言ってると思いますけど、そういう仕事をしてるからこそ、そういうのなしで誰かと好きに話したがるというか、寂しがりやというか、一人でいる時間が長くなると、なんというか精神的に不安になりやすいというか……迷惑だったらいいですけど、もしそうでないのならば、あまり邪険にせず、程ほどに付き合ってやってください。お願いします。でももしなんか……えーと、いかがわしいことに誘われたら、それは絶対に断ってください。たぶん名刺とか渡してると思いますけど、捨てちゃってください。倖一郎君はもちろん、それがユマのためなんです。あそこで話すだけでいいんです。ほんと外で会ったりしちゃ駄目……いや、駄目とまではちょっと言いにくいですけど、うーん、とにかく節度を持って接してください! お店とかは絶対駄目ですからね!」
嫌がらず深入りせずそこそこに仲良くね。なかなか微妙な舵取りを要求してくれる。しかしこないだ下がったウミメシ先生の俺内人間評価は上方修正された。もちろん例のテカラフルな名刺はちゃんと大切に財布にしまってあるぜ。
これからテストの採点なんですよ~つらい~ブラック~と愚痴って軽自動車で去ってゆくウミメシを見送り、俺もチャリに跨って、どこに向かうわけでもなく走り出した。
ぼんやりと、ハンドルが赴くまま、ゆるやかに、ペダルを扱ぐ。
映画館のバイト君になる前のさらに前、山中の墓地に漂着する以前の感覚が蘇る。具体的な目的地はない。しかし目的はある。安眠の地を求める流浪の民だ。とはいえ三ヶ月前とは状況が若干異なる。
緩やかな斜面になっている住宅街を抜け、踏切を越えると、交通量に釣り合わない無駄に広い国道に出る。道の両側には葡萄畑。信号機は黄色のまま点滅し続けている。テアトル三津由園で働く前に、墓地で眠るようになる以前に、何度も何度も走っている道だ。
しかし頭蓋骨の中に眠気を溜め込み、ドロドロに腐らせていた数ヶ月前と違い、今夜の俺の頭に睡魔は棲んでいない。明日になればわからんがとりあえず今はいない。だからか流れる風景は鮮明に映り、頬の温度を奪う風も存外に心地よかった。
雲も微かな満月夜。すでに時刻は午前零時を回っており、通行人はもちろん車もなく、自転車の車輪の音だけが夜道に響く。自然と鼻歌が漏れた。
ソオゥダーリンダーリン、スタエンデゥ、バーイミー、ホオォウスタエンデゥ、バァイミー。ホオォウスタエンデゥ、スタエンデゥバーイミー、スタエンデゥバーイミー。
ヘタクソな英語の発音も気にせず、白い吐息を漏らして追い越して、深夜の静寂にうろおぼえの歌詞を刻みつけながら、先ほどウミメシ先生との会話に登場したからか、いつだったか、ユマちゃんから訊いた話を思い出していた。
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