黒い翼と哀しい瞳の天使

い助

序章 ー日常ー ①

 購買で買った焼きそばパンが、胃の中で順調に消化されていく昼下がりの授業中。


 教壇では、くたびれたスーツに身を包む初老の理科教諭が、退屈そうにしている僕らの興味をひこうと、空や海が青く見える理由について時に体を目いっぱいに使いながら力説している。


 けれど、いちおう底辺レベルとはいえ高校二年生ともなれば、なんとなくでもその原因が地球の大気にあるということは教養レベルの知識である。いまさら新鮮なリアクションなんてわざとらしい。


 教室の空気の質量が増す。


 みんなはしだいに手紙を回したり、隠れて持ち込んだ校則違反の携帯電話を操作したり、あるいは机に顔を突っ伏して眠っていたり──学業が本分である僕らも、聞いて身にならない話を聞くほどお人よしじゃない。


 そんな無駄話をするくらいなら、本題の授業を面白くする努力をすればいいのにと、そんなことを自分勝手でわがままな意見と自覚しつつ考えた。


 ふと僕は窓の外に目をやった。


 空は青い。雲は白い。


 生まれた時から変わらない、絶対不変の事実。研究者になりたいわけでもないのだし、そうであることを認識することさえ出来れば、生きるには苦労しないのだから問題ないじゃないか。


 窓の外から、黒板の上にある時計に視線を移す。


 授業が終わるまであと二十分はある。


 僕は机の引き出しから、一冊の本を取り出した。



 僕は本が好きだ。

 好きな作家は数人いるが、特に読むジャンルは決まっていない。


 僕は本の中で、様々な体験をする。


 魔王を倒す勇者になったことがあれば、倒されるドラゴンになったこともある。腐った政治を正す革命家になったこともあれば、腐った政治に見切りをつけて旅商人になったこともある。


 探偵として、詐欺師として、ガンマンとして、魔法使いとして──


 僕は本の中で戦い、泣き、笑い、恋をして、数百ページの一生を終えるのだ。


 多くの人生を読み、僕という人間の人生へ吸収する作業は、時に爽快で、時に凄惨で、時に困難で、けれど大抵楽しいものだ。


 現実と仮想の間には、決して越えることの出来ない境界線がある。けれど僕は、越えることは出来なくても境界線に限りなく近づくことは出来ると思う。


 イメージ。ようは妄想だ。


 子供のころに憧れたヒーローのごっこ遊びのような、ただそれをよりリアルに頭の中だけで繰り広げる。


 物語の世界が広大で深遠で厳粛なほど、現実より遥かにかけ離れているほど、境界線に近づくことが楽しくなる。様々な困難に立ち向かい、時に孤独に、時に仲間と助け合いながら解決していく過程を自分にトレースすることが楽しくてしょうがない。


 我ながらネクラな趣味だという自覚はあるけれど、いまさら止めることなど出来るはずもない。


 本は僕にとって世界であり人生なのだ。


 でも、だからこそ許せないこともある。


 それは──



「おい、比護!」



 不意に名前を呼ばれて、思案から引っ張り出された。


 声の方を振り向くと、最近目立ってきたと評判の顔のしわがくっきり出る何とも言えない怒り顔で、先生が僕を非難するように見ていた。


 はっとして見渡せば、僕を除くクラスのみんなは全員立ち上がっていて、輪から外れたただ一人の男(つまり僕)をぽかんと見ている。


 時計を見ると、すでに授業が終わっていた。夢想に耽りすぎて、チャイムの音さえ聞き逃していたみたいだ。


「す、すみません……」


 幸いなことに、本を読んでいたことは、どうやらばれていないみたいだ。


 僕は本を引き出しに戻して慌てて起立し、へこっと頭を下げた。


 先生もそれ以上怒るつもりはなかったのか、日直に号令を促し、そのまま授業は終わりを告げた。




──

 放課後になり、僕は隣の校舎のとある一角へと歩みを進めていた。


 校舎間を結ぶ渡り廊下からは、作業服に身を包んだ清掃のおばさんが中庭の落ち葉をかき集めているのが見えた。


 昼休み終わりに掃除したばかりであるはずの渡り廊下にも、もういくつもの色彩豊かな葉が散っていた。差す太陽光は柔らかく、吹き付ける心地よい涼風には少し焦げ臭さが混じっていて、風上を見やると校庭の方角に細い煙が上がっていた。


 すれ違う女生徒の制服も、長袖のブラウスの上に袖のないワンピースのスカートと、先月に比べると露出が減ってしまっている。


 季節は秋。暦は十月になっていた。



 目的地の教室に到着した。


 頭上のプレートには、理科準備室と記されている。


 放課後の理科準備室。ここが物語の世界であるならば、これから僕は科学部として怪しげな実験の一つでもするのだろうけれど、残念ながらここは現実。


 どこにでもある貧乏な公立高校には、当然ながら部室棟などという立派なものはなく、ただ名だけ借りている顧問の理科教諭(さっき授業をしていた先生だ)から許可を得て、文芸部の活動を行っているのである。


 教室のドアを開けると、未だ慣れないほのかな薬品の匂いが鼻腔を刺激する。


「よーっす、タカー」


 僕の姿を確認した部員の一人が、気の抜けた声で、僕の名を呼んだ。

 彼は同級生で、みんなにはヒロと呼ばれている。


 ヒロの他には、ヤスと呼ばれている部員もいた。

 ヤスはクラスメイトでもある。


「おーす。今日は三人だけ?」


 僕の問いにヒロが答える。


「だけだけ。ま、三人集まっただけでもマシだろ」


「まあ、たしかに」


 はは、と渇いた笑いが三人分。


 ちなみに部員は全部で五人。部の活発度は低く、文芸部とはほとんど名ばかりの本好きの同好会みたいなものだ。


 どれくらい低いかと言うと、部長が幽霊部員になるくらいである。


 集まっても基本的に面白かった本や漫画、アニメの話をして終わる。


 作品コンクールなんか出品どころか応募の検討さえしたことがない。一年に一度、唯一冊子を作って販売する文化祭用の作品だって、旬なアニメのパロディ小説がせいぜいである。


 出来は目も当てられず、物好きな連中が冷やかしで買って行くくらいだ。


 なんで未だに部として存続しているかも怪しい、ちょっとオタクが入った連中の集まりだと思ってくれればいい。


 だから、はっきり言って女っ気はゼロである。虚しいことに。


 いや、こんなだから女っ気がないのではなく、女っ気がないからこんななのかもしれないな。女子がいれば、こんな部にだってもう少し緊張感も生まれるかもしれない。


 だったら、僕らは少し真面目になって、女子部員の勧誘に力を入れるべきなのかもしれないな。


 あ、でもその“真面目になる”という行為ができないからこそ、現在の体たらくなわけで……。


 考えれば考えるほど、思考が行き詰まっていくのを感じる。



「何考え込んでんの?」



 と、ヤスの問いかけで我にかえった。


「ん、ああいや、なんでもない」


「まったく。ほんと、タカはそうやって考え込む癖どうにかした方がいいと思うよ」


「別にそんな、癖ってほどのものでも」


「いや、癖でしょ」


 喰い気味だった。


「ああ、癖だな」


 ヒロまで乗ってきちゃうんだ。


「ちょっと目を離すといつの間にか何かしら考えてっよな。傍から見たらお前、ちょーネクラだべ?」


「うそ、マジで?」


 たしかに僕は何かを思考したり夢想することが好きだし、そんな趣味をネクラだと自覚しているけれど、外面までそんな印象を与えているなんて思わなかった。


 まさしく、夢想だにしなかった。


「しかも、実際に考えてることって、どうでもいーこと多いよな」


「さすがに失敬な!」


 たしかに百歩譲って僕の考え込む行為は傍から見ればネクラに見えてしまうのかもしれないけれど、その思考の内容まで馬鹿にされるとなれば、僕もいよいよ黙ってはいられない。


「じゃあさ、さっきお前何考えてたん?」


「この部、女っ気がないなぁって」



「なんてひどいことをっ!!」



 ヒロとヤスの絶叫が、狭い理科準備室に響き渡った。


「タカ、それは……それだけは……この文芸部唯一にして最大の禁句タブーであることは、最早言うまでもない暗黙の了解だろう!」


「本当だよ! 誰でも一度は部内で女の子とキャッキャウフフでムニムニウフフな関係を夢見ながら、夢破れて幽霊部員になっていったというのに!」


「知らないよ! そして誰でも一度は以降に関しては完全に初耳だよ!」


 まさか、部長が幽霊部員になってしまった原因って…… いや、考えるのはよしておこう。

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