異邦人

@Jarvis

異邦人(1話完結)

 正午を少し過ぎたころ、私を乗せた普通電車はターミナル駅から動き出した。まだエアコンが入っておらず窓は開け放たれ、ゆっくりとしたスピードに合わせてぬるい風が車内を流れいく。

 作られた冷風ではないその風が私には気持ちよかった。

 電車は何度も停車と発車を繰り返している。ところどころに老人やショッピングから帰る主婦の人が座っているのを除いて、車中はずっとがらんとしたままだった。朝夕には満員となる電車とはとても思えない風景だ。私はドアのすぐそばに座り、何度も読み返した手紙をまた眺めていた。

 「ダメでしょ。やめなさい!」女性の叱り声に目を上げると、小さな子供が母親に叱られている所だった。ばつの悪そうな顔をした男の子は母親にお押さえつけられながら、不服そうな眼を母親に向けている。母親の諭すような眼は怒っているがどこか幸せそうに見えた。

 母親の年齢的には私と同じぐらいだろうか。私も幸せな結婚をしていたら同じようにあんな風に子供を叱っていたのだろうか。

 私は窓から進行方向に目をやった。ゆっくり流れる車窓の景色はオフィスビルが立ち並ぶ風景から住宅地へと変わっていた。


 「次はサクラマチ。サクラマチ。」

 どこか機械的なテープのアナウンスが車内に流れる。

 さぁ目的の駅だ。手紙を畳んでバッグにしまい席を立つ。ドアが開くのを待つように電車を降り、小さな人の流れにまかせて改札を抜けた。大きな階段を下りるとそこには整備されたバスロータリーが広がってきた。

 昔はこんなにきれいじゃなかった。単に道路があっただけだったような気がする。まるで知らない街に来たような錯覚に陥り目の前の景色が記憶と違うことに戸惑っていた。

 真新しいコンクリートで固められたバス乗り場にはすっきりしたデザインのベンチや屋根が備え付けられている。

 少し歩きはじめると以前はなかったコンビニが目についた。『ここは昔、なんだったっけ?そうだ!本屋さんだ。よく、雑誌を立ち読みしたのに』コンビニを恨めし気に眺めながら前を通り過ぎる。

 駅に沿って広がる商店街はそのままだったが、私が覚えていた店は少なかった。豆腐屋さん、クリーニング店。それにお茶屋さんぐらいしか判らない。

商店街を抜けると次第に住宅街へと入っていく。古い住宅や小さなアパートが立ち並ぶこの区域はそれほど昔と変わっていなかった。その辺りからは足が勝手に道を選んでくれた。もう何年も訪れたことのない街。この街を私は思い出に向かって歩いていた。


 複雑な路地を抜けて、プレハブという呼び名がふさわしいボロアパートが見えてきた。ヨウジと私が暮らしたアパートだった。『まだ建っていたんだ』急に胸の奥が熱くなる。

 むき出しの鉄骨はほぼ全て錆びている。壁に打ち付けてあるプラスチックのトタン板は白く変色し、朽ちてぼろぼろだ。各戸にある木の扉は下半分が腐ってようにみえた。


 それでも、ここは私が暮らした思い出の場所だった。「大学からひと駅離れているから格安なんだ」と同郷の先輩から紹介されたアパートだった。

 私の父は酒乱で小さいころから私はよく殴られた。「大学など行かせない。高校へ行けるだけ幸せだと思え。卒業したら働け!そして俺の決めたところに嫁に行かせてやる。なんだ!その眼は文句があるのか!」高校生の私に父はそう言い続け、ことあるごとに殴りつけた。

 高校の3年間バイトに明け暮れ、母が協力してくれて半ば家出同然に東京の大学へ進んだ私には夢の別世界だった。

 トイレ付お風呂なしの六畳一間。先輩が譲ってくれた机とお布団、それにバイト先まで紹介してもらって私の一人暮らしが始まった。

 同級生のヨウジとは同じサークルで出会った。最初は恋愛対象にはならない単なるサークルの仲間に過ぎなかったが1年間、友達として付き合ううちにだんだん気になる存在へと変わっていった。

 ヨウジも地方出身で大学生活の1年間でだんだんあか抜けてきたのだ。2年になってから急にカッコよく見え始めた。ヨウジが上級生の女性に失恋して仲間で慰め会をやったのをきっかけに私たちは仲良くなり、付き合うようになっていった。


 ヨウジもお金がなかった。彼が家賃を滞納してアパートを放り出されたのは2年の秋だった。

 その日だけのつもりで「泊まっていく?」と言ったつもりなのに彼はそのまま私の部屋に転がりこむことになった。少し驚きはしたが、ヨウジと暮らすことは決していやじゃなかった。一緒に暮らすうちに私は心からヨウジが好きになっていった。

 朝、目が覚めるとヨウジが居る。それだけで心が和んだ。朝寝坊をしている幸せそうなヨウジの顔を見ているだけで私は幸せな気分になれたのだ。

 毎朝、家族に隠れるように新聞配達にでかけていた高校時代を思うと『おはよう』とヨウジに呼びかけられるだけで嬉しかった。

 それにどんなに貧しいおかずでも彼は美味しそうに食べてくれた。それも心底、味わってくれるヨウジの優しさは嬉しかった。よく父にご飯が不味いと殴られた。東京に来た頃は自分でご飯を作ることがとても苦痛だったが、ヨウジが来てからご飯作りは楽しみに変わった。

 ヨウジは「食わしてもらっているから」と食器の洗い物は全部片付けてくれた。家事を分担してくれるなんて田舎の事を考えると思いもよらない事だったが、鼻歌交じりに洗い物をするヨウジの後姿を見るのも、やがて楽しみのひとつになった。

 夜、ヨウジの腕の中で甘えているとこれが本当の幸せなのだと心の底から思えた。大学が終わったらどうなるんだろう?就職できるのかな?という不安もかなり和らいだ。

 「おやすみぃ」ちょっととぼけた彼の声を合図に私は深く心地よい眠りに落ちる。きっと明日も楽しい日になると思いながら寝られるのはとても幸せなことだった。


 ガツン、ガツンと足音が響く鉄の階段を上る。あの日のままだった。

 廊下の一番奥にある204号室。かつての自宅ドアだ。その前に立つと感慨深い。ヨウジがふざけて貼ったキャラクターシールがそのままそこにあった。今はもう見かけることもない、色あせたそのキャラクターの笑顔にそっと触れてみる。シールをなぞる指先に私はほのかな温かみを感じた。


 ヨウジは音楽をやっていた。

 当時から歌が上手くて、それも彼を好きになった一つの理由だった。きれいな彼の声を聴くのが好きだった。

この部屋で窓を開け放ち、ギターを抱えて彼はよく曲を作った。

 私は机に向かって、いつも勉強していたような気がする。遊ぶお金もなかったし、就職するために『資格を取らなきゃ』って、いつも追い立てられるような気持ちでいた。

 考えてみればまだお互い道の見えない同士だった。ヨウジが「そんなに勉強してどうすんの?」と聞いて来た時に私は「生きるためだよ」と答えた。

 ヨウジは「偉いな」と独り言のように目を伏せた。その姿はまるで叱られた子供のようだった。

「ねぇ、二人で頑張ろうよ」私がヨウジの肩を指で突っつくと、ヨウジは目を上げてにっこり笑った。

「ほんとに?」

「うん。ほんとに」

私が差し出した小指にヨウジも小指を絡ませた。

「約束な」

「うん。約束ね」

「よ~し。俺に任せとけぇ~」

それからヨウジは勢いよくギターをかき鳴らし、即興で私のために応援ソングを作ってくれた。

 その曲を聴いた時に『あぁ同志がいてくれる』と思った。それが私にはどれだけ心強かったことか。「うるさい!」どこからか怒声が飛び、私たちは首をすくめて大笑いした。その時だ。生きるために今を精一杯頑張ろうと心に誓った。


 ヨウジの歌が認められたのは4年の時だった。学園祭でのコンサートがたまたまテレビで流れたのがきっかけだった。デビューが決まったとき二人でお祝いをした。私たちには贅沢品だったビールを買い込んで、安い鶏の胸肉でいっぱい唐揚げを作った。二人きりの宴会は二人が疲れ果てて眠るまでいつまでも続いた。


 それが別れるきっかけになるなんて思ってもみなかった。レコード会社の要望でヨウジはマンションに引っ越して行った。「毎日のようにここに来るよ」と言っていたのに、結局それから一度もここに戻って来ることはなかった。

 ボイストレーニングなど様々なレッスンで忙しそうな日々を送っていたようだった。それからデビュー曲がヒットしたのをきっかけにヨウジはあっという間に有名芸能人になってしまったのだった。


 204号室のドアを開けると部屋はきれいに掃除がされ、薄墨の幕が室内に張り巡らされている。そして部屋の真ん中に敷かれた真っ白な布団の中にご遺体が安置されていた。何人かの人がヨウジを囲んでいる。そして、動かないヨウジにすがり人目も憚らず泣いている可愛い人がいた。芸能ニュースで知る限り3人目のお嫁さんだ。


 ヨウジが芸能界入りしてもしばらくは連絡をもらっていた。電話をしたり、手紙のやり取りがあったりした。でも出す曲がどれもヒットしていき、やがて電話も手紙も来なくなった。あの頃、ケイタイやメールがあればもう少し状況は変わっていたかも知れないけど、確実に私たちの間は終わっていった。

 私はアルバイト先の税理士事務所に就職し、税理士の資格を取ろうと頑張った。ヨウジのことはテレビや芸能ニュースで伝わってきた。もう一度やり直したいと思って何度かヨウジに会おうとしたが、電話は通じず、手紙も返事はなかった。

代わりに彼の所属事務所から「今は勘弁してください」と止められた。ヨウジからの最後の連絡は印刷されたファンクラブの年賀状だった。

 ある日テレビでヨウジの婚約を知った。相手は私など比べ物にならないくらい美しい女優さんだった。その夜、私は一人で泣いた。悔しくて泣いた。でもこれが私の人生だと諦めることにした。それから私は一人のファンとしてヨウジを見守ることに決めて仕事に専念していった。


 それから何年経っただろう。私は税理士になり、独立して今は小さな事務所をやっている。ヨウジのことなどほぼ忘れかけていた。いや、気にしないふりをしていたというのが正確かもしれない。日々の仕事に追われていた私に彼が自殺したという知らせが舞い込んだ。あまりにも突然の出来事だった。

 「形見のアルバムを、あの部屋でぜひあなたに渡してほしい」というのが彼の遺言だという。正直、行くべきかどうか迷った。アルバムをもらって私はどうなるのだろう?と思った。

 かつての彼女がそんなものをもらう権利があるのだろうか?とも思った。

 でもヨウジの希望ならそれは叶えてあげるべきだという心の声が勝ち、こうして私は思い出の中に舞い戻ってきたのだ。

 全く知っている人が死んだというリアリティがなく、まるで夢の中の出来事のような気がしていた。


 参列する誰の目も『こんなところで死ななくても』と言っているようだった。すごい豪邸を建てているし、人気に翳りがあるものの落ちぶれているというわけでもないし、なぜ?それは私も知りたかった。


 名前の確認が終わり、ご遺体と対面した私は声が出なかった。まるで眠ったようなその顔は安らかで大学生のころと少しも変わっていない。でも、確かにヨウジも年齢を重ねていた。髪には白いものが混じり、目じりや首筋にある皺は私の知っているころのヨウジにはない皺だった。

『やっと会えたね』心でそうつぶやき、冷たくなった頬に手を添えてみた。今にも起き出しそうなそんな感じさえした。


「これが形見の品です」

弁護士と名乗る中年の男性から渡されたのは茶色いA4判の封筒だった。ヨウジの封印がされている。

「開けてもいいんですか?」

「はい。あなた宛てのものですから」

私は丁寧に封を切った。

中には1枚の手作りCDと古びた分厚いノートが入っていた。

 ノートの1ページ目を開くと、まぎれもないヨウジの文字で書かれた便箋が挟まれていた。


「来てくれたかな。俺がひどいことをしたから来てくれないかもしれないな。ごめんね。俺、逝っちゃいます。

 お前とさ、暮らしたかった。いつまでもいつまでも。でもさ、俺が弱かったばっかりにそれができなくてごめん。去年かなこの部屋がまだあるって知った時に、来てみたんだ。そうしたら、俺が貼ったシールが残ってたりして、不意にさ、デビューが決まった時に食べたお前が作った唐揚げの味がさ、口の中に蘇ってきて俺って何してんだろうって思っちゃった。


 あの頃はどんどんイメージが湧いて曲なんてばんばん作れたのにもう駄目なんだ。なんのイメージも湧いてこない。きっとお前を捨てた罰なんだと思うよ。


 デビューして、少しの間は誰も恋人がいないふりをしててください。なんて云われたもんだから俺ってバカだよな。その気になればお前にだって会うことなんて全然できたのに「彼女は居ません」って言うと女が寄ってきて、舞い上がっちゃって。ごめん。俺が浅はかだった。


 このアパートを買ってさぁ、この部屋に来てお前のことを想いながら曲を作りました。最後にお前に残してあげたいと思って曲を作りました。CDに入っています。俺が作る最後のアルバムはお前だけのためにと思って頑張りました。


もう、才能のかけらしか残ってないけどきっと気に入ってくれるんじゃないかな。

お前のために精一杯作りました。チカラがなくてごめん


 疲れたので先に逝きます。おやすみぃ」


 手紙を読み終えて分厚いノートのページを開くとデビューの日付から始まる長い日記だった。日記と言っても殴り書きのメモとたくさんの写真が貼りこんである雑記帳だ。ぱらぱらとみると私の知らない彼の暮らしぶりを知るには十分な記録だった。

 私が知らない時間を埋めてくれるのね。ヨウジの気持ちが私には判った。私はそっとノートを封筒に戻し胸に抱えると胸が詰まった。


「何か権利を主張されますか?」さっきの弁護士が声をかけてきた。

「いえ、そのような内容の事は一切書いていませんのでお構いなく」やっとの思いで喉から絞り出すように私はそう告げた。

 それからご出棺まで葬儀に参列した。私は淡々と進められるセレモニーの中で頭の中は真っ白なままだった。親族ではないので私にとっての葬儀はそこまでだった。多くの人が車で帰る中、私は駅まで歩き始めた。


 ヨウジ。私さぁ、幸せだったんだよ。バカ!死んじゃうなんてバカだよ。電話番号だって知ったはずなのに。そりゃヨウジが結婚してから年賀状とか送ってないけどさ、有名人のヨウジならなんだって調べられたでしょ。

 ほんとバカ!バカ!バカ!あなたと過ごしたあの時期があるから私は生きる勇気を持てたんじゃない。

 人から愛される気持ちを知ったから頑張れたんじゃない。なのになによ!『先に逝きます』ですって。信じられない。

 悪いけど私は死なないわよ。ヨウジあんたのことこれから一生、一生抱きしめていてあげるんだから。そして、幸せになるね。あなたの分まで。自由に生きて幸せになるからね。

 空の上から見守ってなきゃ許さないからね。わかったヨウジ!


 私は封筒をしっかりと両手で抱きしめながら歩いていた。涙が止まらなかった。両手がふさがっていたので涙を拭くことはできなかった。ぼんやりとかすむ街を人目など気にせず私は歩いた。

 本当に幸せになどなれるのだろうか?私にはわからなかったが、きっといくらでも方法はあるはずだ。偶然のように、今まで生きてこられたように何か幸せになる方法が必ずあるはずだとも思った。

 行く手にコンビニが見えてきた。もうすぐ駅だ。ようやく思い出の街から抜け出すことができる。私は涙をぬぐった。長い間、心の中に刺さっていたものが抜け落ちたような気がしていた。

 来てよかった。素直にそう思えた。バス停のベンチに腰を下ろし抱きしめて、涙で濡れてくしゃくしゃになった茶色の封筒を撫でてみた。しわを伸ばすように丁寧に撫でてみた。

 『今日は唐揚げ作るね』ようやく私は素に戻りヨウジに語りかけた。見上げるとそこには抜けるように青い空が広がっていた。降り注ぐまぶしいくらいの日差しはとても心地よく、まるで抱きしめられているようなそんな気がしていた。

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