perfect days
淡月カズト
第1話 少女と世界
「なんで、こんな、ところに、いるの?」
途切れながらも必死に編んで生まれた言葉から少女の世界は始まった。真っ白な感覚が少女に絶え間なく降り注いでいる。果たしてその感覚は少女にとって味方なのか、敵なのか。
始まりはベッドの上。少女の身体よりも大きいしっかりとした無機質なベッドや冷たい印象を与えてくる特有の床からここが病院であることを少女に教えてくれる。
「あ……」
この空間を共有している人間がもう一人居た。格好からしてほぼ看護師であることは間違い無く、今まさに目を覚ました少女の様子を見て慌てながら病室を出て行ってしまった。
そのような様子を見ても少女にとっては何の事か分からず首を傾げることしか出来なかった。
困惑している中、先ほどの看護婦が一人の人間を増やしてここに戻ってきた。
年老いたおじいちゃんと呼ぶべき年齢の男性、ここが病院であるならば彼は医者であることはほぼ間違い無いであろう。
「具合はどうかな? 吐き気とかしないかな?」
不気味なほどにこやかで柔らかい声で少女に接してくる。会話をするためにはこちら側も言葉を何かしら返さなければならない。
「えぇと……だ、だい、大丈夫、です」
少女は一応会話を成り立たせたが、その言葉に責任はなかった。なぜならそんな事を聞かれてるのかわからないからだ。答えを出せないので考えるしかなかった。考えて考えて、答えは出ない。
それでも世界は止まってくれない、同時に色々な大人が慌しく動き出す。この少女のために何人もの人間が動いている。
「あなたの名前を教えてくれるかな?」
同じような音量で、同じような声質で、同じような雰囲気で医者は問いかけてくる。まるでマニュアルに従っているみたいだ。
少女はまた考える。自分の名前、それくらいすぐに間髪入れずに答えられるのが普通だ。
別に声が出ないわけではない、言葉が喉につっかえてるわけでもない。
それでも時間は何も言葉が飛び交わない空間を突き抜けて行く。ひたすら無だ、医者はずっとにこやかな表情なまま。
「どうしたのかな?」
「……わ、わ……」
必死に喉の奥から出てきた言葉は答えではなかった。泣き声だった、言葉ですらなかった。
「……わ、わか……わから、ない」
思い出せない。それがある意味少女の中で導き出された答え。
それと同時に色々な答えを導き出せた。でもその事は喜ばしいことじゃない。
答えは、名前だけじゃなく自分について知っていることがない、ということだった。
なぜ?
名前が自分につけられてないという事だろうか? そんな非常識な事はない。
なら理由は一つしかない、記憶喪失だ。
一度、しっかりとした呼吸を挟む。
窓の外には、木々が並んで遠くに町並みが眺められる見知らぬ光景。それは少女が見慣れた町並みなんだろうか。
ベッドの横には見覚えの無い女の子らしいキュートなリュックサック。それは少女と共に時を重ねた大切なモノなのだろうか。
目の前には知らない人間。それは少女にとってかけがえの無い人なのだろうか。
答えは肯定でも否定でもなく、無。
とうとう少女は泣き出してしまった。
「なんで……なんで思い出せないの……なんで?」
この人なら自分の求めてる答えを出してくれる、神様のような人に思えたから。
「とにかく、落ち着いて。まずは元気にならないと」
今求めてるのは優しさじゃない、答えだ。自分が何なのか、その答えを求めているのに、誰も応えてくれない。
その優しさが逆に少女を苦しめてしまった。落ち着いてられなくて布団にもぐりこんでしまった。今の自分には布団の中のような暗い空間がお似合いだった。
少女はこう考えた。
記憶を失ったということは過去の自分が死んだことと同じ。ついさっきこの世界に「こんにちわ」と言って誕生した感覚だ。そこからまず四つんばいで前へ進み、いずれは地に足をつけて進み、やがて自分の意志を持って進む。
いわば今の状態は突然ある程度進む能力を持たされて新しい世界に放り出されたことと一緒である。
やってきた新世界をぐるっと見回す。
やっぱり知らない。自分の前方にある黒い四角の塊がテレビであることは分かるが、テレビをどのように操作すれば適した楽しみ方を出来ることかは分かるが、今までどのように使ったのか、楽しんできたのか分からない。そんな繰り返しがこの先ずっと続いていくのか。
テレビが映ると何やらドラマがやっていた。番組情報を見ると数年前に放映された人気ドラマの再放送らしいが、全く覚えがなく役者も誰一人分からない。そもそも自分がこのドラマを当時見ていた可能性もあるが、定かではない。
そんなもどかしい想いがチャンネルを変えた。
次は知らないお姉さんがやけに可愛いファッションに身を包んで天気予報を伝えていた。
『ここ静岡では明日の夕方から激しい雨が全面的に降るでしょう。傘などの準備を忘れないようにしてください』
ここで初めて自分が今いる場所がわかった。ついでに明日の夕方から激しい雨が降る事も分かった。
雨か。
雨は覚えている。だけど雨の思い出は覚えていない。小さいころだったらてるてる坊主でも作っていただろうか。好きな男の子と相合傘をして歩いていただろうか。
「ねぇ、クッキー食べる?」
曖昧で不明確な思い出に耽っていた少女はその声で我に返る。
声のしたほうに顔を向けると、同じくベッドで寝ている少女がいた。自分とは対称的にニコニコしながらクッキーを頬張っている姿は何か遠いものを感じた。
「あ、ありがとう」
少女は恐る恐るクッキーを受け取った。
クッキー、シンプルで丸い形をしている。食欲をそそられるような焦げ色。どんな味がしたっけな、と言うのが少女の正直な想い。
そんな邪念の中、口に含むと表情が少し和らいだ。
「お、おいしい」
口の中に広がる甘い香り、そして味。美味しい、という文字が早く浮かんだ。
こんなに美味しい物があるんだ、という世紀の大発見に出会った瞬間だった。
「良かった、喜んでくれて。さっきすごい泣いてたから大丈夫かなって心配してたんだ」
そんなに泣いていたんだ、と今更その事を知った少女。
「私の名前は戸塚美由って言うの、よろしくねっ。それで私はあなたのことをなんて呼べばいいかな?」
「え?」
なんて呼べばいいといわれても彼女は自分の名前を知らないのに答えられるわけがない。だからそんなドライな返答になってしまった。無いものを答えろなんて、少女にとっては難しすぎる。
そんな少女の様子を見かねた美由は、なぜかニヤけながら自分のポケットに手を入れて何かを取り出した。
「このヘアピン、あなたにあげる」
白い花の形をした可愛らしいヘアピン。そういう印象が最初だった。もちろんヘアピンに対する思い出も何もないため感じることは特に無かった。
反応に戸惑う少女をよそに美由はヘアピンを優しく前髪につけてあげた。
「わぁ可愛い。似合ってるよ」
容姿を見て彼女はとっても満足している。
「そ、そう?」
恥ずかしそうにする少女だったが、何だか嬉しかった。
昔の自分がヘアピンを好んでいたかはわからないが、なんだか思い出深い感じがした。根拠は無いがそういう何かが胸の奥に潜んでいる気がした。
なんとなく見ていたドラマの再放送とか、クッキーとか、そういうものと違ってこのヘアピンには特別なものがある気がいた。
「その花のヘアピンには恋愛成就のおまじないがかかってるの」
恋愛成就……胸の奥に潜んでいるのはそういうことなんだろうか。この問題にもまだ答えは出そうになかった。
「あなたにとっても似合うから華の恋って書いて華恋ちゃんってのはどう?」
「か、かれん?」
急な事だった。当然の戸惑い。
別にこの名前に不満があるわけではないが、承諾するのも何かおかしいような気がしていた。ついさっきこの世界に誕生したならば、これは「命名」という事である。
別に美由が親になるわけではないが、名付け親にはなる。もし記憶が何も戻らなかったらこのまま「華恋」としてずっと生きていくかもしれない、そんな大切な瞬間な気がした。
「異論が無いなら決定! あなたは今から華恋ちゃんね。よろしく!」
「う、うん。よろしくね、美由ちゃん」
こうして少女はこの時間を持って「華恋」としてこの世界を生きていくことになった。いつまでこの名前でいるのか分からないが、なぜだか長い旅路になる気がした。
「華恋」としての人生がスタートした。
華恋が生まれてから一時間くらい、美由が定期健診で病室を離れるまで色々な事を二人で話していた。
一人になったところで華恋は病室を見回す。この病室にはベッドが六つあるが、使っているのは美由と華恋の二つしかないらしい。
誰が出てるかも分からないテレビを見るのも飽きたので華恋はふと理由も無く窓の外を眺めていた。窓から見えるのは街並みの全体、これだけ見えるという事はこの病院は高い標高に位置しているということだ。確かに見る限り若干街の郊外に位置している感覚が窓の外から読み取れる。
次に視点を変えて見下ろしてみた。まだ面会時間ということもあり、病院の入り口付近には人の出入りが多い。
点滴をつけている小さな女の子が同い年らしき女の子と仲良くベンチで話していた。きっと二人とも入院していて仲良しになったのだろう。そんな微笑ましい姿を寂しく見つめていた。
「私にも、こういう光景が、あったんだよね、たぶん」
死んでしまった過去に微かに希望を抱いていた。自分がどういう子供なのか、どういうわけで記憶を殺されたのか、すべてを思い出したかったけど今はどうすることも出来ない。
一人ぼっちはとても寂しい。それに尽きる。
「具合はどうですか?」
誰かが不意に病室に入ってきた。振り返ってみると目を覚ましたときに一番最初に見た看護師だった。そのまま彼女は華恋のベッドの隣においてあるイスに静かに座った。
特に話すことも無いので華恋は目線を窓の外に戻した。それに釣られて看護師も窓の外を眺めてこんな事を口にする。
「あれは六○三号室の沙希ちゃんと胡桃ちゃんだね。二人とも八歳くらいだったと思うわ。入院の時期も同じで隣同士のベッドだからか、すごい仲良しなのよね。体調もだいぶ良くなってきてるから二人とももうすぐ退院できると思うわ。とってもきちんとした子なのよ。お見舞いでもらったリンゴをわざわざ私にくれたのよ」
華恋は少しうなずくだけで声は発さない。看護師は言葉が返って来なくても楽しそうに話を続ける。
「美由ちゃんとお友達になったのかな? あの子はちょっと喋るのが好きすぎてうるさい時もあるけど、とっても優しい子なのよ。あなたも気軽に声をかけてもらったんじゃないの?」
看護師の言うとおり、美由は気軽に華恋に声をかけた。そして素敵な名前までつけてくれた。
彼女と友達になれたかはまだ分からないが、それ以上に何か特別な縁を感じていた。今のところ名付け親でもあるし当然といえば当然である。
「あら、そのヘアピンって美由ちゃんのじゃない。プレゼントしてくれたんだ。良かったね、こんな可愛いヘアピンもらえて。とっても似合ってるよ」
華恋はそう褒められて少し頬を赤く染めた。だんだん表情もほぐれてきて温かい空間と化していた。
「看護師さんのお名前……聞いても、いいですか?」
途切れ途切れでも自分から言葉を発することに抵抗が無くなっていた。声もだんだんとスムーズに出てくるようになったのを本人も感じられている。
「あ、まだ言ってなかったわね。ごめんね、非常識な大人で。私は星崎愛美って言うの。愛に美しいって書いて愛美。まさに美しいくて愛らしいって感じでしょ、わたし」
「は、はいっ」
「ふふ、ジョークなんだから素直に答えられても困るわよ……っ」
二人で笑いあった。心の底から笑いあった。
この世界に生まれてからまだ数時間、素直な自分を表面に出せた気がしていた。
「ずっとこの街で育って病院に勤めてるの。いい街よ、ここは」
「景色が、とても良いですね」
「たぶん貴女もこの街で育ってきたんじゃないかな」
「……そうなんですかね」
また不明確な質問を投げられて少し戸惑う。確かにここに運ばれて来たという事は、ここの近くで何かが起きて搬送されているわけだからこの街で育った可能性は大いに高い。大いに高い、に過ぎないが。
「何か思い出したかな?」
静かに首を横に振る華恋。
「急いでも仕方ないからね、今はご飯をしっかり食べて元気にならないとっ。そんなに体調には問題ないらしいけどね」
「はい、頑張ります」
「さて、あんまりサボってると怒られちゃうからそろそろ行くね。寂しかったらいつでもベッドの横にあるナースコール押してね。時間があったら話し相手になるからさ」
あまり推奨されないナースコールの使い方を教えてから愛美は病室を立ち去っていった。
また一人で窓の外を眺める。先ほど説明された沙希ちゃんは既にベンチから姿を消していた。病室に戻る時間が来てしまったんだろう。早く退院出来るように華恋は目を閉じて願った。
他人の心配をしている場合ではないは分かっているが。
「……よし」
初めてベッドから出た。脇に置いてあったピンクのスニーカーをしっかりと履く。おそらく華恋が記憶をなくす前から履いていたものだが、今では新品の靴を履くような新鮮な気分だ。ちょっぴりだけわくわくする。
なぜベッドから出たかというと、彼女が唐突に病院内を探検したくなったからだ。あまり病人には勧められないものだが、愛美が先ほど言っていたとおり体調に問題があるわけではないので許してくれるだろうと彼女なりに考えた。
どこに行こうか。
まずはロビーまで降りてみることにした。出来れば外に出て庭を一通り歩いてみたいとも思った。
ゆっくりと足を動かす。問題なく普通に歩行できそうで彼女も安心していた。病室を出てまずはエレベーターを探す。とりあえず廊下を右にずっと歩いていると拓けた空間と共に数人の看護婦が見えた。お年寄りのお婆ちゃんと仲良く世間話の相手になっている看護婦もいれば、せっせと資料を整理している看護婦も見える。
いわばそこはナースステーション、先ほど話していた愛美の姿はここからでは見えないようだ。
「愛美さんに見つかったら怒られるかな?」
エレベーターを使うためにはこのナースステーションを通り抜ける必要がある。一応バレないようにこっそりとここを抜けることに決めた。
屈めば姿を見られることなく通り抜けられそうなので素早く体勢を変える。
ゆっくりと、ゆっくりと。
時間をかけて端まで来たので残り数歩でエレベーターに辿り着く。しかしその数歩の間は身を隠すものがない。華恋は端で息を潜めて機会を伺っていた。
「あ、愛美ちゃーん。お疲れー」
「ありがとー。今日は平和ねっ」
愛美さんの声だ、と思いながらちらっと顔をはみ出してナースステーションの中の様子を見る。
「そういえばあの子、どうだった?」
「記憶無くして運ばれて来た子? 頭打ってたから心配だったけど特に脳には異常なかったし身体も元気そうだからしばらく様子見よ。美由ちゃんも隣にいるから大丈夫でしょ」
おそらく華恋の事について話している。なんだか耳を傾けずにいられなかった。
話からすると自分は頭を打って運ばれたらしい、それで記憶も飛んでしまったのだろう。言われてみると頭が少しズキズキ痛むような感じがしてきた。
「あの子も運ばれて来たばかりのときは精神不安定だったからねぇ。今ではあんなに元気だったのに」
この会話においての「あの子」は美由だろうか。
そういえば美由が入院している理由をまだ尋ねていなかった事を華恋は思い出した。
何か良くない風が吹いていた。気持ち悪い。
「記憶喪失な子が二人も短い期間で運ばれてくるなんて、びっくりよねぇ」
……?
よく分からない、というのが彼女の正直な感想。
確かに自分は記憶喪失らしいが、今の会話だとまるで美由まで記憶喪失みたいな言い方だ。
……。
「ん、そこに誰かいるのかしら?」
愛美がナースステーションの受付の陰の部分を上から覗いた。しかしそこには誰もいない。
「小さい子がかくれんぼでもしてたんじゃない?」
「そうねぇ。遊ぶのはいいけど注意してあげないとねっ」
本来なら病院の前庭にいるはずだった。でも今は屋上にいるのが落ち着くと華恋の本能が判断したらしい。
落下防止の塀があるため屋上の淵までいけないので少しだけしか前庭の姿を眺められない。華恋は懸命につま先立ちをしてやっとの思いで覗く。
「ん……遠くまで見える」
前庭は逆に病院に近すぎてあまり見られないが、代わりに窓から見たときよりも町並みが遠くまで見ることができた。
色々な建物が見える。デパートが見える。学校が見える。グラウンドが見える。遠くには駅も見える。
病院の前の道を歩く子供が見える。散歩しているおじいさんが見える。自転車に乗ってる高校生も見える。
「お母さん、お父さんは今どこにいるんだろう」
冷静に考えれば。
何かがあって病院に運ばれて来たのならば、側に親が居るのが普通じゃないのだろうか。美由だって事実、お母さんはよくお見舞いに来ていてお父さんも遠くにいるらしい。
なのに華恋は目が覚めたときに一人だった。誰の身寄りも無いので本当の名前もわからず新しい名前が付けられた。
これってかなりおかしい事ではないだろうか。自分の娘が突然居なくなって病院に搬送されていたら普通すぐにでも駆けつけるものではないだろうか。
もし近くにいるならば、の話だが。
「……」
今の華恋にはその答えを出す力は無い。でもいつか自分の中で答えを出せる気がしていた。そうしようと強く心に決めていた。今は前を向いて歩くしかない。
でも。
それでもやっぱり寂しい。今は美由がいるから良いものの、いなかったらずっと孤独だった。その事を考えてしまうと身体に寒気が走ってしまう。
「……戻ろう」
寂しい背中を町並みに見せながら屋上を後にした。
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