第86話 俺、帰宅する

 ちゃぽん。シャワーヘッドから水滴が落ちる。

 見渡す限り白い湯気が覆うこの場こそ、風呂場だ。

 いやぁー、マジで疲れた。完全に今日のMVPは俺だろ。


 ばしゃん。

 湯船のお湯をすくい上げ、顔にぶつける。

 ふぅー。

 寒くなってきたらやっぱりお風呂っていいよな。

 夏場は面倒くさく感じるけど、冬の風呂はいい。


 見てわかる通り、俺は風呂に入っている。今日1日の疲れを癒すために……。


「将兄、早くして。私も入りたいんだから」

 でも、この声は俺の疲労を回復させるのには邪魔なもの。

「わーってるよ」

 濡れた髪を掻きあげる。


 ──先帰ってて。

 いつもなら絶対送られてこないLIMEがイリーナから送られてきたことを今更ながらに思い出す。


 ***

 うぅ、寒っ。イリーナよ早く来てくれよ。

 そう思いながら、俺は約束などはしてないが、いつもイリーナと落ち合う昇降口で、イリーナを待った。

 3分ほど待った時に、俺の寒さに限界が来た。

 もうちょい待てよ、と思うだろう。だが、俺はもうすぐ12月という時期に秋さながらの服装をしているのだ。

 それ位は多めに見てくれ給え。


 堪らず俺はスマホを取り出し悴む指で、文字を打つ。文面はこう。

『早くいつもの場所に』

 相手は言うまでもなくイリーナなのだが、全く以て既読がつこうとしない。

 嘘だろ。いつもなら一瞬も要らないのに……。

 腕をさすりながらポケットの中に意識を集中させる。いつ返事が来てもわかるように、だ。

 あーくそ。早く……。返事よプリーズ。

 俺の心底の本当の本当の願い。だが、それが伝わることなく15分が過ぎようとしていた。

 もう帰ろうかな……。そう思った時だった。

 ポケットの中で携帯が震えた。

 ──きたっ!

 心底で大喜びし、慌てて文面を確認する。

『先帰ってて』

 何っ!? ふざけんなよ! こんなクソ寒い中で何分待ったと思ってんだよ。

 てか、学ラン持ってんだからそれくらい持ってこいよ!

 どれほど胸中で文句を言ったって相手に伝わるわけがない。それどころか、イリーナは悪びれた様子もなく訳のわからんゆるキャラのスタンプを送ってきた。

 あー、もういい。時間無駄にしたわ。

 大きくため息を付いてから、分かった、と返信し俺は駆け出した。

 体が冷たい。触れる空気が刺さるように痛い。そして、周りの目が痛い。


 家帰ったら絶対風呂入らねぇーと。風邪ひく。


***


 あー、のぼせてきた。

 お湯に浸かった状態で、少し前のことを思い出していたせいだろう。

 妙に頭がクラクラとする。

 大きく息を吐きながら、俺は湯船から出るために立ち上がる。

 刹那の立ちくらみが襲う。それを難なく持ち堪え、俺は脱衣場へと出た。

 その瞬間、冷たい空気が裸体の俺に襲いかかる。やっぱり冬だな。

 濡れた体をバスタオルで拭き取りながら、そんなことを考える。

 手早くパジャマにと着替え、俺はリビングで顔を赤らめ乙女の顔になっているイリーナに声をかけた。

「あがったぞ」

「……うん」

 二人しかいない空間で、微妙な間隔の後に返事が返ってくる。

「なんかあったか?」

 ──先帰っててなんて言ってたけど。

 後半は言葉を飲み込み、前半部分だけを問う。

「……まぁーね」

 困惑顔を浮かべるイリーナ。

 いつもなら関係ないとか言ってきそうなのに、今日はやけに素直である。

 顔赤いし……もしかしてッ!?

「おまっ、熱でもあるんじゃねぇ?」

 心配になり、イリーナに近づきお風呂上がりでほんのり蒸気した手を額に当てる。

 俺の心配はよそに、イリーナを額は熱など全くなく冷たかった。

「やめてよ、恥ずかしい」

 イリーナはより一層顔を赤らめ、俺の手を握り、そっと額からずらす。

「体冷えてるぞ。先風呂入ってこい」

 真剣にイリーナが心配で、俺はそう言う。イリーナは初初しくこくん、と頷きゆっくりとした足取りで脱衣場へと向かい始めた。


***

 イリーナがお風呂から上がってくるタイミングを図り、俺は温かいココアをいれた。

 少しでもイリーナに元気になってほしい、その一心で。


「これ飲めよ」

 俺が買ってやった、暖かそうな白いモコモコにハートマークのついたパジャマに身を包むイリーナに声をかける。

 それから白い湯気を上げる、白いマグカップを台所からテーブルにへと運ぶ。

「……うん、ありがと」

 お風呂上がりだからだろうか。それとも、学校での出来事を引き摺っているのだろうか。

 イリーナの顔はまだほんのりと赤い。

「もう平気なのか?」

「……まぁーね」

 力のない笑みで返される。何か悩んでんのか?

 そう考えているうちに、イリーナは俺の前の椅子に腰を下ろし、小さくお礼を告げながらマグカップに手を伸ばす。

「あつっ」

 マグカップに触れた途端に、小さくこぼす。可愛らしく愛おしい声だ。

「気をつけろよ」

 イリーナは俺の言葉に小さく頷いた。

 不思議なくらいに俺の言葉に反対せず、従ってくれる。嬉しいような、くすぐったいような。


「何があったんだ?」

 再度そう訊いた。それと同時に、カチッという大きな音が頭上から響いた。

 なんだ?

 見上げてみると時計の針が、ちょうど7時を指している。

「うん……。私ね。今日告白された……」

 今度は秒針がやけに大きく耳に届いた。だが、それが秒針だと気づけなかった。それほどまでに、動転していた。

 イリーナに告白……?

 全然嬉しくない。義妹いもうとが誰かに好意を抱かれる。それはもっと感動的で嬉しいものだと思っていた。でも、事実は違った。ちっとも嬉しくない。それよりも怒りを覚えてしまう。

 俺の義妹に手を出すな、と。

「へ、へぇー」

 それらの複雑に絡み合った想いをぐっと噛み殺し、俺はそう紡ぐ。

「でも断った」

 瞬間、嬉しさが舞い込んできた。おかしいな。そう思うけど、それでもその思いを超える嬉しさがあった。

「どうして?」

 余裕が出てきた証拠だ。そんな質問さえ出来るほどに思考回路は復活していた。

「……」

 しかし、イリーナは答えない。恥ずかしそうに俯きながら、俺のことをチラチラと見るだけで言葉を紡がない。

「ど、どうした?」

「……」

 まだ話さない。両手でマグカップを包み込むようにして、顔をマグカップの中に埋めるように俯く。

 そして、篭った声でこう告げた。

 ──好きな人がいる。と。


 表現出来ない、嫌悪感が生まれた。誰だ?

 そう思う反面、イリーナを応援したいという思い。

 兄は複雑だ。

 正直にそう感じた。

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