第77話 俺、夏穂のことを考える

 教室にまで戻った俺と上野美琴。教室までの帰路で、俺たちの間に会話は一つも生まれなかった。

 それも当然だろうか。

 あんな話をした後で、普通に会話できる方がおかしいと思う。


 上野美琴は、いい奴だとは思う。しかし、過去の過ちは消すことはできない。

 そして、夏穂にとっては一生掛けても消えないであろう傷を与えたのも確かなことである。

 ただ机に落書きをしただけ。

 しかしイジメを受けている最中でのそれは、普段のそれとは全然違ったものであろう。

 その時の夏穂の気持ちなど分かるはずはない。そしてそれは、上野美琴の立場でも言えることだ。

 俺は教室に帰るや否や、カバンを持ち、値段が高いから相談してから買うことに決めた、ということすら伝えず、教室を出た。


 クラスメイトは、不思議そうな顔を浮かべているだろう。

 でも俺には、これしか出来なかった。まだあの空間にいたならば、俺は上野美琴に罵詈雑言をぶつけていただろう。

 夏穂の代わり、などと理由付けをして、何も知らなかった自分に対する怒りをぶちまけるんだ。


 くっそ、最低なやつだ。


 昇降口まで降りてきた俺は、自分の靴箱の中の靴に手をやりながらそう思う。


「遅いよ、将兄」


 そこに両腕で自身の身体を抱きながら、寒そうに告げるのは、俺の義妹であるイリーナだ。

 うん、何だか久しぶりな気がするな……。

 栗色の髪に、二重まぶたの大きな目をした美少女を体現した娘だ。


「……、悪い」

「どしたの?」


 間の悪い俺の返事に、イリーナは顔色を真剣なものに変え、訊く。

 こういう所は鋭いんだよな。


「別に、なんとも無い」

「何かある時しかそれ言わないじゃん」


 イリーナは呆れ半分でそう告げると、靴を履き替えたばかりの俺の前に立ち塞がる。

 俺は使うことを許されて無い、俺のより100円も高いシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「言って」


 有無を言わせない強い波動を感じる。思わず喉まで込み上げてきた、夏穂の過去をグッと呑み込む。


「だから、何もねぇーって」


 学生ズボンのポケットに手を突っ込み、イリーナをかわし校門へと歩を取る。

 もぅ……。と、イリーナは少し口先を尖らし、声を洩らす。


「そーゆーことにしといてあげる」

「そーゆーことって、何もねぇーって言ってるだろ」


 追いかけてきて隣に並んだイリーナにため息をつき、俺は天を仰いだ。

 黄昏の空の端に、揺らぐように浮かぶ満月を視界に収める。


「それよりさー」


 校門を抜けた所で、俺は切り出す。

「ん?」

 視線を交えることなく、イリーナは、ただ少し先で点灯し始めた街頭をぼーっと見つめる。


「なんでいつも待ってるわけ?」


 イリーナには合鍵を持たせている。ゆえに、わざわざ寒い中俺を待たずとも家に入ることができるのだ。

 普通先に帰るだろう。


「待ってちゃ悪いの?」

「悪くはねぇーけど」


 少し怒りが含まれたように思える。だからまぁ、機嫌取り……っというわけで、俺はイリーナの頭の上に軽く手を乗せる。

 付き合いが長くなってきて分かったことだが、イリーナは意外と甘えん坊なのだ。

 イリーナのトゲがあった物言いも一変し、朱に染めた頬を首に巻いた白いマフラーに顔をうずめて隠す。

 わかりやすいな、と思いつつ微笑する。


「何がおかしいのよ」


 口先を少し尖らせ、ぼそぼそっと告げる。


「べっつにー」


 あはは、と笑いながら俺はイリーナの頭に乗せてた手をポケットへと戻す。

 イリーナはどこか残念そうな表情で、俺の横をちょこちょこと付いてきた。


***


 自宅に着いた俺は、制服を脱ぎ捨て部屋着であるスエットに着替える。

 動きやすくて楽なんだよな。あったかいし。

 時を同じくして、イリーナがとんとんと階段を降りてくる。

 そのままリビングへと侵入してくる。服は制服ではなく、ダボッとした長袖Tシャツに体操ズボンを穿いている。

「将兄、いっつもそれじゃん」

「うるせー」


 笑顔でそう返すと、俺は台所へと向かう。

 未だにキッチンに立とうとしないイリーナ。故に毎食毎食、俺が作っているのだ。


「何食べたい?」

「なんでもー」

「それが1番困るんだよ」


 嘲笑気味にそう告げ、冷蔵庫を開ける。刹那、冷気が流れ込み、思わず身震いしてしまう。


「これでいくか」


 いくつかの材料を取り出し、俺は料理を始めた。




***


 食卓に並ぶのは、味噌汁と生姜焼き、惣菜品のポテトサラダと、白米だ。

 ほんと、毎食作ってたら料理の腕が上がったよ。


「出来たぞ」

「ほーい」


 リビングであはは、と笑いながらテレビを見るイリーナの背中に声をかける。

 イリーナは、振り返ることもせず、右腕を上げると、よっこいしょ、と老人顔負けの声掛けで立ち上がる。

 それからテレビから視線を外すことなく、食卓テーブルに向かう。


「危ないからな、それ」


 そう告げても、イリーナはやめようとはせず、上の空で返事する。

 何度か後ろを確認しながら、無事食卓テーブルにたどり着き、イリーナは俺の正面の椅子に腰をかける。


「「いただきます」」


 合掌し、そう言う。

 イリーナは、すぐに生姜焼きへ箸を伸ばす。ロシア育ちとは思えないほど、上手な箸さばきでそれを掴むと、お茶碗に盛られた白米の上に乗せる。

 白米に生姜焼きのタレが移り、白く輝いていた部分に茶色の輝きが灯る。

 それを美味しいそうに咀嚼する。

 自分の作ったものをここまで美味しそうに食べて貰えると、心底嬉しい。


 食べ始めて少し経ち、お茶碗の中に残る白米が半分をきった頃だ。

 俺はおもむろに箸をテーブルに置いた。

 その雰囲気が普通では無かったのだろうか。

 イリーナは口の中に物が入った状態で、こちらを覗き小首をかしげる。


「どったの?」


 口の中の物をごくん、と呑み込んでから俺に訊く。


「ちょっと訊いていい?」

「何よ、改まって……」


 伸ばしかけた箸を引き戻し、イリーナも俺と同じように箸を置く。


「夏穂の事なんだ」

「なん……品川さんがどうしたの?」


 イリーナは眉をピクリと動かし、何か言おうとしたが、俺の真面目な雰囲気を読み取ってそれを抑える。


「マジな話だけど、大丈夫か?」


 最後にもう1度確認を取る。すると、イリーナは少し目を上に向け、考える仕草を見せる。

 そして──

「まじまじっぽいから、ご飯食べ終わってからにしよ」

 と、告ぐとお預けを喰らっていた分を取り戻すかのように、勢いを増して咀嚼を再開させた。


 俺は何も言わず、お茶碗に残った白米を味噌汁と同時に流し込む。

 ねこまんまと遜色ない。


 こんなので大丈夫なのかな。俺、どうすれば……。上野美琴も悪い。けど、上野美琴だってやりたくてやったわけじゃないって言ってたし。だからと言って、それを鵜呑みにするのも……。


 考えれば考えるほど、頭の中がごちゃまぜになる。

 思わず口から零れだしそうになる弱音を、俺はコップに入ったお茶と一緒に飲み込む。

 ガタガタっと、椅子の足と床とが擦れる音と共に立ち上がり、空になったお茶碗と汁茶碗、コップをシンクへと運ぶ。

 頭の中には、今日の放課後に夏穂が見せた、弱弱しい顔が浮かぶ。

 はぁー。

 そんな顔、させたくなかったな。

 自分の情けなさを実感しながら、俺は茶碗に水を張っていく。


「将兄、思いつめすぎ」


 不意に、隣りからイリーナの声が聞こえた。

 俺、イリーナのことも見えてなかったのかよ……。

 夏穂のことを考えていた間に真横に立っていたイリーナ。

 俺より8センチほど背が低く、少し見下げるような感じになる。

 栗色の髪の毛の間から覗くつむじ。くるくるっと右巻きのつむじを見つめ、息を吹きかける。


「やァん」


 可愛らしい声に思わず目をそらす。

 イリーナは恥ずかしそうに頭に手を乗せ、上目遣いで俺を見てくる。

 慌てて目をそらし、お湯を沸かすためにティファールに水道水をいれる。


「で、イリーナがキッチンになんの用だ?」


 いつもはほとんど立ち寄らないキッチンに足を踏み入れているイリーナを、不思議に思い訊く。


「見てわからない?」


 そう言いながら、イリーナは手元に視線を落とす。

 俺も釣られて視線を落とすと、イリーナの手には空になった茶碗が持たれていた。


「嘘だろ?」

「嘘なはずないじゃん」


 へへっーん、とドヤ顔を浮かべながら、シンクの中に置き、水を張る。

 イリーナなりに俺の様子の変化を見抜き、気を遣ったのだろう。

 そう思うと何だかいたたまれない気になってくる。

 背後ではシューッとティファールから、音とともに湯気が上がり始めている。


「悪いな」


 今現在、本気で思っていることを吐露する。

 すると、イリーナは。

 優しい聖女のような微笑みを浮かべ、

「いいよ。だって、私の大事な義兄将兄なんだから」

 と、告げた。

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