引退百人隊長奮闘記
あかつき
第1話
ローマ帝国の治世が優秀な皇帝の下で安定し、平和が続いた時代。
周辺の国家や蛮族達も、皇帝の威光を恐れて帝国の国境を侵すことは無く、平穏が続いている。
ここはゲルマニアとの境目、北の最辺境であるゲルマニア・スペリオール属州の植民都市、モゴンティアクム市のそのまた郊外の小農場。
そこに住むのは、かつてローマ帝国軍で百人隊長として勇名を馳せた、クアルトゥス・シアヌス、軍を退役した35歳の元兵士。
兵士として、そして百人隊長として鍛え込んだ身体は衰えを知らず、半袖のトゥニカからのぞく太い腕には、筋肉と血管の筋が浮き立っている。
戦場では勇猛果敢に先頭を切って東方や南方の蛮族、更にはオリエントのパルティア軍を蹴散らした彼も、退役した今は畑を耕して麦や豆を育て、果樹を栽培し、山羊や鶏を飼いうつ蜂を養う農夫。
満期除隊の退職金として、ここゲルマニアとの境目の場所にローマ帝国から土地を宛がわれたので、多くの退役兵がするように、彼も農園を開くことにしたのだ。
残念ながら、連れ添いはいない。
基地の近くでなじみになった女は何人かいたが、誰もが北の辺境へ行くのを嫌がったので、結婚はあきらめた。
その内、農園が落ち着いて金が貯まったら、後継者を兼ねた子供奴隷でも買って作業を手伝わせるつもりでいるクアルトゥス。
最初の開墾については、人を雇って行ったので今は作業量もそれ程では無い。
屋敷は放棄された物見櫓を改装して使っているので、広さは十分。
付属する建物も、倉庫や馬房、鶏小屋や山羊小屋として活用しており、土塁と柵の内側を、そのまま放牧地と牧草地にしている。
今はまだ小さい畑は、小川を挟んだ東側に広げることにしているので、少し距離があるが、目と鼻の先と言える場所だ。
時折、手空きの時間に新たに開墾を行うのがキツイくらいで、今は農作業の内容も作業量も落ち着いている。
「ふああ~さあて、始めるか~」
早くに起き出したクアルトゥスは、大あくびと共にそう独り言を言い、いつもどおりの農作業を始めることにする。
鶏に飼料をやり、飼い葉を馬に宛がい、山羊を草地に出してから、井戸から水を汲んで家畜用の水槽に流し込む。
それぞれの糞がたまりきった家畜小屋の掃除をしてから、鶏小屋からは卵を回収し、また放牧地で山羊の乳を搾る。
帰り掛けに家の軒先にあるミツバチの巣を確認してから、その中を軽く清掃し、蜂をなだめつつ蜂蜜を少しだけ採取する。
麦畑の小麦と大麦、レンズ豆やタマネギ、キャベツの生育具合を確かめて目を細めるクアルトゥス。
そこには荒ぶる戦場の勇士の姿は無く、穏やかなローマ農民の姿があった。
泥に汚れた手足を井戸から汲んだ水で洗い流し、最後に木製の柄杓で取り分けておいた水を飲むと、クアルトゥスは卵が入った籠と、山羊の乳を詰めた素焼き壺アンフォラを手に屋敷へと入る。
そうして一通りの作業を終えて家に戻ってきたクアルトゥスだったが、目の当たりにした現実を見て、苦虫をかみ潰したような顔になった。
そう、彼は3日前からほとほと困り切っていたのである。
「もういいから帰れ!」
「いいえ!まだ帰りませんっ」
黒髪を短く刈り込んであるが故によく目立つ広い額、決してハゲている訳では無い。
そこに青筋を浮かべて怒鳴るクアルトゥスに臆すること無く、真っ向から言い返したのは、細身の少女。
ほっそりとした手足に、将来を期待させる柔らかな曲線を描く胸元。
真っ白な肌に青い瞳、後ろに流されている金色の髪といった風貌は、北方ゲルマン人の特徴を現す。
身につけている衣服も、上着は厚手の織物に同じ材質のズボン、革製のブーツと如何にも蛮族らしい格好で、腰には革製のベルトに金の装飾が施された短剣を差し込んである。
しかし、そんな美少女も口の周りを蜂蜜とチーズ、更にはパンくずだらけにしていては魅力も半減だ。
その前には一切れだけになった円形麺麭バニスと蜂蜜があちこちに張り付いた壺、それから小さなナイフで切り分けられたチーズがある。
クアルトゥスの屋敷の1階に設けられた食堂には、その少女が先乗りし、クアルトゥスが昨晩あらかじめ用意してあった朝食の一部を頬張っていたのである。
クアルトゥスは深い深い溜息を吐くと、アンフォラと籠を机の上に置き、無理矢理心を落ち着けてから静かに言う。
「……それを食ったら帰るんだぞ」
「いやですっ!」
一瞬の間もなく、そして躊躇も無く言い返した少女が、蜂蜜をたっぷり塗りたぐった最後の一切れとなっていたバニスにかぶりつく。
そして幸せそうに口を動かす少女の姿に、クアルトゥスのこめかみがひくひくと揺れた。
そして少女は、そんな彼の様子に頓着すること無く、空になった素焼き皿をぐっとクアルトゥスへ突き出して更に言う。
「おかわりっ、下さい!」
「うるさあいっ!」
ぶち切れたクアルトゥスの絶叫が、静かな農園に響き渡った。
事の始まりは3日前。
クアルトゥスが近くの町まで物資の買い出しと小麦の売却に出かけた帰りのことだ。
馬車に買い入れたワインや塩、布や縄、釘などの食料や資材を積み込み、後もう少しで屋敷に着こうかというその時、森の外れから金色の塊がいくつか飛び出してきたのだ。
慌てて馬を止めて、御者台に置いてあった木剣を取り出すクアルトゥス。
退役以来、護身用には専らこの木刀を使っているためだ。
その彼が見たのは、カッティ族と思われるゲルマン人の少年が、マルコマンニ族と思われるごつい戦士3人に追われている光景だった。
長い金髪をなびかせ、追手の戦士の刃を巧みにかわす少年もなかなかの身のこなしだが、それよりも轟風をまとって剣を振るう3人の戦士がクアルトゥスの目に止まる。
「何だ一体……外れとはいえここはローマ帝国内だぞ?」
辺境とは言え蛮族(ゲルマン人)同士の諍いを目の当たりにしてしまったクアルトゥス。
マルコマンニ族はローマに敵対的な部族で、その勢力圏もここからまだ東のはずだ。
カッティ族は国境リーメスに近い場所に勢力持つ、比較的友好的な部族。
尤も、決して油断はならないが、今は大人しく交易相手や傭兵としてローマ帝国に協力している。
「やれやれ……どうしたものか」
呆れたように言うクアルトゥスだったが、その目は厳しい。
というのも、追手と思われる3人の戦士が、何れも相当の手練れである事が知れたからである。
彼らが何の事情でローマ帝国の領内で争っているのか知らないが、行き会ったクアルトゥスを見逃してくれるようなお人好しではなさそうだ。
現に長い金髪を振り、カッティ族の少年は目を輝かせてクアルトゥスの方向へやってこようとしている。
その急な逃走方向の転換に驚いた3人の戦士達も、クアルトゥスとその馬車の存在に気付く。
少し戸惑った戦士達だったが、すぐに全員が欲望の色を目に走らせた。
恐らくクアルトゥスのローマ農民然とした風体と荷馬車、更には手にある木剣を見て略奪の対象と見なしたようだ。
「……くそ蛮族め、俺は行きがけの駄賃じゃあないぞっ」
クアルトゥスが愚痴をこぼすと同時に、少年が軽い身のこなしで馬車に駆け上がってきた。
「おじさまっ!見てないでたすけてくださいなっ!」
しかもラテン語の発音は綺麗だが、少しオカマ臭いことこの上ない。
てっきり自分を囮にして逃げ去っていくと思っていたのに、事もあろうにこの少年は自分を頼ろうとしている事に気付き、クアルトゥスの顔が引きつる。
「お、お前はっ?」
「えへ?」
かわいく小首を傾げるが、冗談では無い。
身ぐるみをはがれるぐらいなら良いが、このままでは恐らく殺されてしまうだろう。
「くそ!」
少年が綺麗なラテン語を話したことに内心驚きつつ、クアルトゥスは、悪態をつきながらも戦士達を再度見る。
目をぎらぎらと輝かせた戦士達が、迫り来る様子は変わらない。
まあ無理だと分かっていたが、やはりあきらめてはくれないようだ。
クアルトゥスは、馬車に駆け上がってきた少女と見紛う程の美貌を持った少年に目をやる。
よくよく見れば身に付けている服や装飾品も、蛮族風ではあるが悪く無い物ばかりだ。
先程のラテン語と言い、蛮族とは言え貴族の出かもしれない。
しかし、既に退役したクアルトゥスにはいずれにしても関係ないことであろう。
「冗談じゃない!さっさとどことなりと行け!」
「そんなこと言わずに助けてくださいませんか、おじさま?あいつら私を手籠めにしようと襲って来たんですよっ」
「はっ、物好きが居たモンだなっ」
少年の説明を鼻で笑い飛ばし、クアルトゥスが言う。
「むうっ?」
不満そうな少年を余所に、クアルトゥスは手綱を操ろうと試みた。
しかし、馬車を方向転換させようにも、戦士達の足が速くて間に合いそうに無い。
戦士達が凄まじい勢いでこちらへ駆け寄ってくるのを見て取り、クアルトゥスは逃走をあきらめて御者台の後ろに括り付けてあった大盾スクトゥムを取り出す。
これは剣と違って本物。
キズだらけになりつつもクアルトゥスの命を守り続けてくれた、正に相棒だ。
「えっ?おじさま、もしかしてローマ帝国の兵隊さんなのですか!?」
「ああ、“元”だがな」
そうぶっきらぼうに答えたクアルトゥスの右手に握られた木剣。
それを手にして馬車から降りたクアルトゥスの姿を見た少年の顔が強張る。
「……あれ?木剣?え?え?」
「お前はそこにいろ、余計な手出しをするんじゃ無いぞ」
素っ頓狂な戸惑いの声を上げる少年を余所に、クアルトゥスはそう言い置いて右手のグラディウスを模した木剣をくるくると回しながらゆっくりと進んだ。
大盾を構え、その右脇から木剣を突き出す構えを見た少年は、我に返ってから甲高い驚きの声を上げる。
「お、おじさま正気ですかっ?」
「ああ?正気だ、それとおじさまなんて呼ぶんじゃない、気色悪い」
少し首を傾けて応じると、クアルトゥスは腰を少し落として身構えた。
そして早速一番目に斬りかかってきた戦士の剣を大盾の縁で受け止め、そのまま下からすくい上げるようにして押し出すと、その腹部を激しく木剣で突き上げる。
木剣とは言え固い樫の木で出来ている。
それを隙だらけの腹部に突き込まれてしまったその戦士は、反吐を吐き散らしながら地面を転げ回った。
死にはしないだろうが、すぐには起き上がれないほどの打撃を与えたのは間違いなさそうだ。
「問答無用かよ!分かってたけどよ!」
いきなり襲われたクアルトゥスが反撃しつつ吐き捨てる様に言うと、蛮族戦士の2人は一旦距離を取ってクアルトゥスを牽制しながら、馬車の上にいる少年へちらちらと目をやっている。
そして2人の戦士がゲルマン語で何かを話す。
それを聞いたクアルトゥスが顔をしかめて言う。
「……ちっ、厄介なことを」
クアルトゥスが舌打ちしつつこぼした言葉の内容に気付き、少年が驚いた様子で顔を向けてくるが、構っている暇はない。
クアルトゥスは戦士達が動くよりも早く地を蹴りつつ大盾を構えたまま前に出ると、驚いている右側の戦士に襲いかかる。
とっさに防御しようと両手で振り上げられた戦士の長剣と、クアルトゥスの木剣が真正面からぶつかる。
しかし木剣は切れたりせず、鈍い打撃音が響いた。
思い掛けない一撃の重さに戦士が驚いて後退する。
「ええっ?すごいですっ、マルコマンニの上級戦士を片手で……しかも木剣で押し込むなんて!?」
少年が感嘆の声を上げるのに、クアルトゥスは唸り声で応じてから戦士を突き放し、蹴り飛ばした。
そして慌てて駆け寄ってきたもう1人の戦士に対し、大盾の突起をその胸元へ思い切り叩き付ける。
鈍い音と悲鳴が上がり、駆け寄ってきた戦士の勢いが弱まった隙を突いてクアルトゥスは胸元を押さえてうずくまっている戦士の首筋へ木剣を振り下ろした。
がつんっという打撃音と共に、気を失った戦士が崩れ落ち、クアルトゥスは振り返りつつもう1人の戦士が立ち上がったところへ、今度は大盾を横にしてその縁が当るような角度で思い切り振り抜く。
再び鈍い音が響き、戦士の首があさっての方向をに捻れると、戦士はそのまま糸の切れた操り人形のように力なく地面に崩れ落ちるのだった。
「大丈夫か?」
「それはこちらの台詞ですわ、おじさま!ありがとう」
「だから、おじさまってのは止めろ」
蛮族戦士達を買ったばかりの縄で縛り上げ、クアルトゥスは少年と思っていた少女を荷馬車に乗せたまま元来た道を戻っていた。
格好からてっきり男だとばかり思っていたら、何のことは無い。
実際は美しい少女であったのだ。
一旦は故郷に帰そうと思ったクアルトゥスだったが、このまま返してもろくな結果にならないと判断するにいたる。
「おじさま、私はカッティ族に連なるファシナ氏族の娘、ユリアーネと申します。私をローマの属州総督、もしくは軍司令官の所まで連れて行って貰えませんか?」
「こんな田舎で聞くには違和感のある官職だな……何があった?」
彼女、ユリアーネの口から出たのは、ローマの地方高官の官職名。
その響きに不穏な物を感じたクアルトゥスが尋ねると、ユリアーネはゆっくりと説明を始める。
彼女から聞くところによれば、マルコマンニ族の一部にローマ帝国に対する不穏な動きがあるので、その情報を持ってローマへ来たのだという。
彼女の一族はローマに融和的だが、マルコマンニ族のその勢力から合力を求められており、対応に苦慮しているそうだ。
カッティ族も一枚岩では無く、様々な勢力がある。
そんな一族の苦境を察し、ゲルマニアの地の平穏のためにローマ帝国の介入を嘆願しようと、ユリアーネは危険な国境破りをしてこの地までやって来たのだ。
平たく言えば、ユリアーネはローマ帝国にマルコマンニの討伐を依頼しに来たのである。
「普通に国境リーメスの関所を越えてくりゃ良かったんじゃないのか?」
クアルトゥスの疑問は尤もで、そこには国境守備隊とローマ軍団がいる。
事情を話せば、すぐにでもローマ本国へ早馬が発せられるはずだ。
しかしユリアーネは首を左右に振って言う。
「おじさま、マルコマンニはローマとは敵対的ですが、大部族です。マルコマンニの傭兵や商人は国境リーメス警備にたくさんいるんですよ」
一旦少女はそこで言葉を切ると、あたりを警戒しつつ言葉を継いだ。
「それに、彼らは私の意図をどこかで知って追手を差し向けてきています。油断は……出来ません」
「う~ん、そうか」
先程の光景を見れば、それはクアルトゥスにも理解できる。
彼らは追手に相応しい戦技と意思を持っていた。
そんな戦士を放置しておいて、背後から襲われても困るし、縛って転がしておけば夜には狼の餌食となってしまうことだろう。
別にそれでも良かったのだが、人の味を知った狼が増えるのは、比較的近い場所に住むクアルトゥスとしてはあまり良い事では無い。
仕方ないので町の兵士に預け、マルコマンニ族の背信の証拠にしようと思い立ち、クアルトゥスはユリアーネと一緒に縛り上げた戦士を連れて町へ行くことにしたのである。
「私、ローマ人の町って初めて見るんですよ」
「そうか……まあこの辺の町じゃゲルマン人の集落とそう変わらないと思うがな」
ユリアーネの嬉しそうな言葉に、クアルトゥスは苦笑しながら応じる。
大都市のウィンボドナやロンディニウム、コロニア・アグリッピナあたりであれば、ローマの町らしく石造りの巨大建築や頑健な城壁、水道設備や街路などを披露してやれるのだろうが、あいにく今から行く町はそんな上等な町では無い。
元はと言えばユリアーネの出身母体であるゲルマン人の集落を、ローマが接収して手を入れただけの、良くある辺境の町だ。
恐らく彼女がいたゲルマン人の大集落と、様相はそう大きく違わないだろう。
「そうなのですか?」
「ああ」
そんな会話をしている内に、目的の町が正面に現れた。
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