第100話 私的純文学論

純文学とはなんぞや

多くの人がこれに対して、曖昧な答えしか持っていないと思う。


ウィキペディアなどでは単純に、芸術性のある作品としているが


これは大きな誤解を生みかね無い表現だと

前々から私は思ってきた。


じゃあ、あなたは純文学とはなんぞや

と尋ねられたら、どう答えるのですか?と問われれば

こう答える


「感受性を文章に表した作品」


だと。


最近の芥川賞作家さんの中では又吉さんが一番それが色濃いように感じている。


受賞作の火花より、次作の劇場の方がそれが良く出ている。


又吉さんと同時受賞された羽田さんは多分

純文学を私と似た感じに捉えてらっしゃるのでは無いかと感じる。


というのも、「純文学は何でも出来る」というような事を仰っていたから。



そうなのだ、純文学は一見

小難しい芸術作品だと誤解されがちだが


そうではなく、作者の感受性を文章で表しながら

主人公の生活の一部分を切り取ったようなストーリーで作られている事が多い。


なので作者の感受性を出す小説ならば、エンタメ小説かと思われるような

ストーリー展開が奇抜な作品や世界観でも純文学は出来てしまう。


大事なのは作者の感受性。


純文学に私小説があるのはモロ、作者の感受性出しまくりが

私小説だからだと思える。


芸術性という意味合いで、メタファーが純文学と考える方もいるが

メタファーはあくまでメタファー


作者の感受性ではない。

感じた事、感じ取った事を文章で表現していないと

純文学とは少し違うのではないかと思う。


なんか偉そうに書いたけれど

芥川賞と文學界が大好きなので、そんな私からの純文学論でした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る