第16話

アヴェロンの話




「はい、おっしゃるとおりにいたします、おとうさま」

 琥珀卿、アヴェロン・ティン・エルネストーリアには、奇妙なくせがある。

 もっとも、このくせを知っているものはアヴェロンの他に一人もおるまい。誰もいないところ、誰からも聞かれはしないと絶対的に確信できるところでだけ、アヴェロンの奇妙なくせは顔を出す。

「はい、おっしゃるとおりにいたします、おとうさま」

 うつろな声で、アヴェロンはつぶやく。アヴェロンは、いったい誰に語りかけているというのか。彼の父親は、すでに、十年以上も前に亡くなっているというのに。

「はい、おっしゃるとおりにいたします、おとうさま」

 うつろな声で、アヴェロンはつぶやく。誰もいない、誰からも聞かれはしないと確信できるところでは、いつも。奇妙なくせである。ひどく、奇妙な。

「はい、おっしゃるとおりにいたします、おとうさま」

 うつろな声で、アヴェロンはつぶやく。

 うつろな声でつぶやきながら。

 その唇には、うっとりとした笑みが浮かんでいる。







「おまえさえ生まれてこなければ」

 初めてそう言われた時、アヴェロンは、驚くことが出来なかった。

 ああ、やはりそう思われていたのか。そうとしか思えなかった。

「おまえさえ――おまえさえ生まれてこなければ――エレノアはきっと、まだ――まだ、生きていただろうに――!」

「――」

 アヴェロンは反論できない。母、エレノア・ティ・エルネストーリアがひどく虚弱な人であったことを覚えている。出産など無理だろうと言われていた体でアヴェロンを生み、その出産の際に体をひどく壊し、それからずっと、死ぬまで健康な体に戻ることが出来なかったことを覚えている。

 そして。

 アヴェロンが、流行り風邪にかかった時に、おそらくアヴェロンからうつったのだろう、同じ流行り風邪にかかり――。

 アヴェロンは全快し、母はそのまま命を落としてしまったことを覚えている。

 母が死んだ、その日からずっと。

 父が――比翼宰相、グウェンドル・ティン・エルネストーリアが、決して自分のことをまっすぐに見つめようとしないことも、骨身にしみて知っている。

「おまえさえ――おまえさえ生まれてこなければ――」

「――」

 アヴェロンはただ、こうべを垂れ、黙って呪詛の言葉を受けとめる。

 なら、生まなければよかったではないか、などという反論は、無意味だ。

 そう、ただ琥珀宮の跡継ぎが欲しかっただけなら、それこそ側室でもつくって適当に子を生ませればよかったのだ。

 それでは意味がないのだ。

 なぜなら。

 異国の血が入り、血が薄まってしまった王家の血を、再び元の美しい翡翠の色に戻すため、より濃い――より純粋な琥珀の血をひくものをつくりだし、王家に娶せることが必要なのだから。

 虚弱なエレノアなどを、そもそも妻に選ばなければよかったではないか、などという反論も、無意味だ。

 グウェンドルは、その人生のすべてを捧げて悔いないほどに、エレノアのことを愛していたから。下世話な言葉で言えば、骨の髄から惚れていたから。もっとも濃い琥珀の血をひく男女の組み合わせは、確かにまぎれもなく、グウェンドルとエレノアだった。虚弱なエレノアを妻にすることに反対する者達に、グウェンドルはその事実をつきつけて口をつぐませたのだ。

 だからこそ――だからこそエレノアには、アヴェロンを生む――子供を、より高められた琥珀の血をひく子供を産むことより他に、道が残されていなかったのだ。

 生まれてくる時は、望まれていたのだ。少なくとも、生まれてくる時は、望まれて生まれてきたのだ――と、アヴェロンは心の中で意味もなくつぶやく。

 意味がない。本当に。

 今、父の目の前に立って首をうなだれているのは。

 生まれてこないほうがよかった鬼子にほかならないのだから。

 そう――父が狂っていることを、アヴェロンは苦もなく理解する。

 そう、確かに、アヴェロンが生まれてこなければ、エレノアがずっと、ずっと身ごもらずにいたならば。

 エレノアは、まだ生きていたかもしれない。そして――そう、そして。

 琥珀の血をより純粋に高めるための、もう一人の女の成長を、待つことが出来たのかもしれない。

「――アヴェロン」

 父が、初めて息子の名を呼ぶ。

「――エミリアを抱け」

「――!?」

 父の言葉に、アヴェロンは絶句する。

 エミリア、それは。

 父の後妻の名であり、そして――。

 父、グウェンドルよりむしろ、アヴェロンのほうにずっと年の近い、エレノアの年の離れた妹の名――。

 父の後妻にして、アヴェロンの叔母の名にほかならなかった。

「ち――父上!?」

「――抱けないんだ」

 グウェンドルは、うつろな声でつぶやいた。

「ためしては見た。何度も何度も、ためしてはみたんだ。でもだめだ。抱けないんだ。あれは――あれは確かに、エレノアに似ている。でも――でも、あれはエレノアじゃない――! エレノアじゃない、エレノアじゃない、エレノアじゃない――!! だからだめだ。とても無理だ。あれはエレノアに似ている。だけどエレノアじゃない。あれがエレノアに似ていれば似ているほど、私は――私は、吐き気がしてたまらない――!!」

「――それで」

 アヴェロンは、ひどく乾いた声で言った。

「私に、父上のかわりをしろと?」

「そうだ」

 グウェンドルは、ためらいもせずそう答えた。

「ガートルード様は、はてみの君だ。はてみ様は――生きる力が弱いかたがたが多い。おまえとガートルード様がその血を交わらせようとしても、ガートルード様は、御子を成す事がお出来になられないかも知れん――」

 父の瞳から憎悪が滴る。

 アヴェロンは、口には出されぬ声を聞く。

「おまえさえ――おまえさえ生まれてこなければ――」という、呪詛を。

「――それで、私の妹が必要になるわけですか」

「――そうだ。弟君のナルガ様ははてみ様ではない。今までまったくその兆候が出なかったんだ。まず間違いなくはてみ様ではないだろう。体も大変頑健で、お健やかでいらっしゃる。血をつなぐためには、翡翠の血をより純粋なものに戻すためには、あのかたとのあいだに御子を成すのが一番いいだろう」

「――そうですね。私もそう思います」

「――エミリアを抱け」

 グウェンドルは、うつろに命令する。

「すでにあれも承知だ。因果を含めてある。――簡単だろう? おまえもエミリアも――すこぶる健康なんだからな――!」

「――」

 アヴェロンは、決して。

 エミリアのことを嫌ってはいなかった。

 年の近い、自分とは兄弟にしか見えない、子供っぽい、時として自分よりも年下のようにさえ感じられてしまう――。

 父の後妻を。自分の叔母を。

「――」

 アヴェロンは、わずかに口を開く。

 もしかしたら――反論、しようとしたのかもしれない。

 ――だが、結局。

 彼の口からこぼれ出たのは。

「はい、おっしゃるとおりにいたします、おとうさま」

 ひどくうつろな、幼い子供の声だった。







「――はい、おっしゃるとおりにいたします、おとうさま」

 そして、今。

 うつろな声で、アヴェロンはつぶやく。

 うつろな声で。それなのに、口元にはうっとりとした笑みを浮かべて。

 あの日から。

 あの瞬間から。

『妹』がこの世に生まれ出たその日から。

 アヴェロンの世界の中心には、常に『妹』、ジェニア・ティ・エルネストーリアがいる。

 そう――アヴェロンは、ひどく恐怖していた。

 自分が、生まれてくる『妹』、もしくは『弟』のことを、いったいどんな目で見てしまうのか。どんなふうに感じてしまうのか。

 ひどく、恐怖していた。

 だが――だが。

 この世に生まれ出た、小さな小さな『妹』を、初めて見た瞬間。

 アヴェロンの胸にあふれたのは――限りない、いとおしさ。それだけだった。

 本当に本当に――いとおしいと、思えた。自分で自分を疑う必要がなかった。ただいとおしかった。本当に、本当に――いとおしかったのだ、ただひたすらに。

 ああ――当然だ。その時アヴェロンは、ぼんやりとそう思った。

 だって私は『兄』なんだから。『妹』を愛するのは当然だ。これは当然のことなんだ。

 ああ――だから、だからこそ。

 妹には、自分と同じ道を歩ませはすまい。

 望まれて生まれてきたのだから。

 生涯おまえのことを望み続けよう。

 王の花嫁になるために生まれてきたのだから。

 きっとおまえを、王の花嫁にしてみせよう。どんな手を使ってでも、人生のすべてを費やしてでも、きっとおまえを、王の花嫁にしてみせよう――!

 ――簡単な、はずだった。

 それは、簡単なことのはずだった。

 そう――あんな女――いや。

 あんなバケモノさえいなければ。

 ディン朝最後の生き残り、『ディンの新月』、『ディンの双つ身』、現リセルティン国王、ナルガ・リィン・セルティニクシアの、口にするのもおぞましい、たった一人の想い人――。

 イズ・アル・ヨーディンさえいなければ。







「――はい、おっしゃるとおりにいたします、おとうさま」

 うつろな声で、アヴェロンはつぶやく。

 その口元には、うっとりとした笑みが。

 母が死んだ、その日からずっと、父は自分を、まっすぐに見つめてはくれなかった。

 ただ――そう、ただ。

 自分に呪詛の言葉を叩きつけ、人の道を踏み外せと、乾いた声でうつろに命令した、あのひとときだけを除いては、けっして。

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