第14話

イズの話




 街に朝がやってくるのと同じく、翡翠宮にも朝が来る。翡翠宮が目覚めるのは、せルティニアの街と同じように――いや、せルティニアの街以上に早い。

 リセルティン国王、翡翠の玉座の主、ナルガ・リィン・セルティニクシアは、シュティをたっぷり入れたドゥカー茶をゆっくりすすりながら、窓の外を見るともなしに眺めた。高価なガラスの入った窓だが、今は大きく押し開かれ、風が通るにまかされている。風が、背中の中ほどまでもある翡翠色のまっすぐな髪をかすめた。父、ソルレンカのザレス王子から受け継いだ、ソルレンカの榊髪である。

「王様、王様、翡翠様」

 かわいらしい、舌足らずな声に、ナルガは翡翠色の目を細めた。栗色の髪に茶色い瞳。どこからどこまでまるまっちい顔に小さな体。女官の中では一番の気にいり、オリン・ディ・ジュディアだ。

「どうした、オリン」

「新月様が、おいでです」

 オリンは、しゃっちょこばってそうこたえた。ナルガはわずかに首を傾げた。

「――イズが?」

 ナルガは知っている。自分の周りの者達が、出来得る限り、自分とイズとをあわせないようにしていることを知っている。

「はい、イズ様がおいでです。あと、それから、御家来衆が、お二人」

「……」

 ナルガはわずかに躊躇した。今までイズが、誰かを連れてナルガのもとを訪れたことなど、ない。

「翡翠様、いかがいたしましょう?」

「……ここに通してくれ、家来もいっしょにだ」

「はい、かしこまりました」

 オリンは真面目くさって退出した。ほどなくして室内に招き入れられた三人を、ナルガは翡翠の瞳でじっと見つめた。

「かたじけなくもお許しをいただき、拝謁の栄を賜ります、翡翠様」

 イズはひざまずき、両手を胸の前で交差させてうなだれた。ナルガは苦笑した。

「からかうな、イズ。ここにはオリンしかいない。おまえの連れてきた二人を除けばだが。早く立て。オリン」

「はい。新月様、どうぞこちらへ。御家来様がたは――」

 オリンはチラリとナルガを見た。ナルガは、ひざまずいている二人に、鷹揚にうなずきかけた。

「その二人も、もう立ってよい。イズ、何か飲むか?」

「ありがとう。じゃあ、シュティだけ入れたドゥカー茶を」

「わかった。オリン」

「はい、かしこまりました」

 オリンがしずしずと退室する。ナルガは、長椅子に腰かけたイズの向かいへと席を移した。

「不用心だよ、ナルガ」

 イズは小さく笑った。

「わたしが暗殺者だったらどうするつもり?」

「おまえがそんなに愚かなはずがないだろう」

 ナルガも小さく笑みを返した。

「おまえは、自分の死を前提にした計画を立てたりしない。それはもう、よくわかっている」

「これだから幼なじみっていやなんだよ」

 イズはじゃれつくように笑った。

「少しは驚け。かわいげないぞ」

「そうか。なら、次からは驚くことにしよう」

「って、真面目な顔で言うんだもんなあ」

 イズはおかしそうに、そして、どこか優しく笑った。

「その顔に、みんなだまされるんだ」

「それはどうだかな」

 ナルガは、ゆったりと笑みを浮かべた。

「現に、おまえはだまされていないじゃないか」

「幼なじみだからね」

「なるほど」

 イズとナルガは、すました顔で見つめあい、同時にプッとふきだした。

「お茶をお持ちしました」

 オリンのおっとりした声が響く。イズは、クスクス笑いながらふりかえった。

「ありがとう、オリン」

「どういたしまして、あ、じゃない、も、もったいのうございます、新月様」

「いいよ、そんなにかしこまらなくったって」

 イズは、目を細めてオリンを見つめた。

「かわいいなあ、オリンは」

「ありがとうございます」

 オリンは深々と頭を下げた。その背に、ナルガが声をかける。

「オリン、もうさがっていいぞ」

「はい、かしこまりました」

 再びオリンが、しずしずと退室する。イズは名残惜しげにそれを見送り、小さくため息をつきながらふりかえった。

「いいなあ。わたしも、オリンみたいなのが一人欲しいよ」

「ふむ、新顔を二人入れたのに、もう次の算段か?」

 ナルガはチラリと、たたずむ二人に目をやった。イズは苦笑しながら軽く手をふった。

「ああ、こいつら。こいつらは、わたしの新しい道化さ。おい、おまえ達、ご挨拶しな」

「はあい、かしこまりました」

 ニチャニチャとした声。紺色のお仕着せ、白い、ひだ飾りをたっぷりとつけたエプロン、白い頭飾り、白い手袋、白い靴下、黒い靴。違う次元、違う世界においては『メイド服』と呼ばれているその服装の上につきだしている、魚のように平たい顔。

「あたくし、ナタリー・ロクフォードと申すはしためにございます。どうぞ以後お見知りおきを」

「あたしは、カンナ」

 幾分鼻にかかった声。真っ白な、油っ毛のない短い髪。細く整えられた眉。何かの切り口のような、一重まぶたの灰色の瞳。とがった鼻。薄い、常に何かを小馬鹿にしているかのような笑みが浮かんでいる唇。黒光りする、体にピッタリとはりつく、あまりにも面積の小さな、皮、らしきものでできた服。真っ赤な、かかとのやけに高い皮靴。

「カンナ・キャラウェイ。よろしくお願いいたします」

「――イズ」

 翡翠の瞳が真っすぐにイズを射抜く。

「おまえが今朝、ここまで来ることが出来たことに、この二人が何か関係しているのか?」

「ああ」

 イズはニヤリと笑った。

「関係してるよ」

「そうか。やはりな」

「なんだよ、もう」

 ナルガの返事に、イズは口をとがらせた。

「そこは、『何!? なんだと!?』とか言って、ちゃんと驚いてくれなくちゃ」

「ああ、ごめん。次からそうする」

「もう、ナルガったら」

 イズは楽しげに笑った。

「まあいいや。王様は、どっしり構えてないとね」

「――そうか」

 ナルガは静かに笑った。

「イズ」

「何?」

「私の気持ちは、変わらない」

 それは、唐突な言葉だった。

 だが、イズにはナルガの真意が即座に察せられた。

 ナルガにとってもイズにとっても、この上なく重い言葉だった。

「――ありがとう。でも」

 イズの瞳に、怯えに似た色が浮かぶ。

「すごく、大変だよ?」

「わかっている」

「みんな、反対するよ?」

「私が誰と結婚しようと、必ず『誰か』は反対するものだ」

「ジェニアはどうするの? 今度は、今度宝玉様になるのは、順番から言って琥珀宮のジェニアしかいないんだよ?」

「私が守りたいのは、私が結婚したいのは、私が一生を共にしたいのは、おまえだ、イズ」

 ナルガとイズは、ほとんどにらみあうように見つめあった。

「イズ、私の宝玉になれ。私が、してみせる」

「……変わってるね、ナルガは」

 イズは、かすかな吐息をもらした。

「わたしは、ディンの新月だよ?」

「私は、リセルティンの翡翠だ。……わだかまりがあるとするなら、むしろそちらのほうだろう」

「わたしは――わたしが生まれる前に死んだ奴らのことなんてどうでもいいよ。でも、ねえ、ナルガ」

「なんだ」

「ちゃんと――ちゃんと、わかってる?」

 イズの瞳には、怯えと悲しみが浮かんでいた。

「ディン王家の澱んだ血は、もう――もう――命を伝える力が本当に弱いんだよ。異形が――異形の子供ばかりが生まれてきてしまうんだよ――わたし――わたしだって、ほんとは――ほんとは、異形――」

「知っている」

 ナルガは静かに、まっすぐ言った。

「私は、おまえの本当の名前を知っている」

「――え?」

「イズ、おまえの、本当の名前は」

 ナルガの瞳は、イズを真正面から貫いていた。

「イズ・アル・アディンではなく――イズ・アル――イズ・アル・ヨーディン、なんだろう――?」

「――知ってたの?」

 イズの瞳に、涙が浮かんだ。

「しって――知ってたの? わたし――わたしがほんとは『ディンの双つ身』だって――ほんとは――ほんとは――男でも女でもない、って――」

「ああ」

 ナルガは大きくうなずいた。

「知っている。それがどうした? 半分は女なんだ。誰にも文句は言わせない」

「――ねえ、ナルガ」

 イズの瞳が、黒い影を浮かべた。

「そのことを――わたしが『ディンの双つ身』だってこと、きっと――きっと、アヴェロンも知ってるよ――」

「アヴェロンが知っている、ということを、私も知っている。それなら、なんとかなる」

「――なるほどね」

 イズは大きく息をついた。その瞳から、すでに涙は消え去っていた。

「おまえ達」

 イズはナタリーとカンナに目をやった。

「二人とも」

「はあい」

「なあに、ダーリン?」

「これからは、ナルガの命令も、わたしの命令だと思え。わかったな」

「はあい、かしこまりましたあ」

「オッケーよ、ダーリン」

「――イズ」

 翡翠と黒曜石が、互いを捕えあった。

「それは、そういうことだと思ってもいいのか?」

「そう。――そういうこと」

 イズは声を低めた。だがその声は、間違いなくナルガの耳に届いていた。

「我が名は、イズ・アル・ヨーディン。――汝が名は?」

「我が名は、ナルガ・リィン・セルティニクシア」

 イズとナルガは、どちらからともなく手をさしのべあった。

「我が名は汝のもの。汝が名は我のもの。イズ・アル・ヨーディン、そなたこそ我が宝玉」

「我が影は汝のもの。汝が影は我のもの。ナルガ・リィン・セルティニクシア、そなたこそ我が望月」

「――そう、言うのか。――知らなかった」

 ナルガはそっとつぶやいた。

「そうだろうね」

 イズはナルガの手に、流れるように指をからめた。

「初めてだからね。月が翡翠に、翡翠が月に求婚するのは」

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