第6話

イズの話




 その日その夜その時は。

 異界と通ずる扉が開く。

 この世界のこの国の、古よりの暦では、そういうことになっていた。



 だから、イズは、扉を開いた。







 イズは最後の一人だ。最後の生き残りだ。

 ヨルディニア王家、最後の一人。ディン朝最後の生き残り。最後のディン。

『ディンの新月』。イズ・アル・ヨーディン。

『ディンの望月』は、もういない。ヨルディニア王家の正当なる後継者、混じりけなる純血のディンのみが名のることが出来る『ディンの望月』は、もういない。

 あとに残ったのはただ、血を薄めることで生き延びてきた『ディンの新月』しかいない。

 それも、もう、最後の一人。

 同じ親から生まれた二人が血を交わらせ、それでもイズは『ディンの新月』。望月はもう戻らない。欠けた月は二度と蘇らない。『ディンの望月』は、もう二度と生まれてくることはない。

 だから、イズは、ディン朝の、ヨルディニア王家の再興などは望まない。

 そんな事を望んでも、望月はもう戻らない。

 時の流れは、逆しまには流れない。

 イズが望むこと。

 イズが望むことは一つ。

 イズの望みは、翡翠の王を手に入れること。

 いや――本当は、違う。

 結果的にはそうなるが、イズの望みは、本当の望みは、そんなことではない。

(あのね、イズ)

 昔、昔、はるかな――それとも、まるで昨日のような、昔。

 翡翠の瞳と、翡翠の髪とを持つ子供。

 リセルティンの、貴族と王族のみが持つ『リセルティンの玉眼』。

 ソルレンカの、貴族と王族のみが持つ『ソルレンカの榊髪』。

 その二つを共にあわせもつものは、リセルティンにはその当時、たった一人しかいなかった。

 リセルティン王子、ナルガ・リィン・セルティニクシア。ナルガの姉ガートルードは、その母、リセルティン女王フィリアから、翡翠の玉眼は受け継いだが、その父、ソルレンカ王子、ザレス・レンカ・ソルレンカ――いや、リセルティンに嫁して後は、ザレス・リィン・セルティニクシア――から、ソルレンカの榊髪は受け継がなかったのだ。

(あのね、イズ)

(なあに?)

 そのころは、まだ、イズの両親は生きていた。

 近親相姦と言う最大の禁忌を、古の王家の最後の二人――リセルティンのセルティニクシア家に征服される以前にその地にあった、ヨルディニア王家の最後の二人であるという事実によって周りに辛うじて承認させていた、たった二人の、イズを入れればたった三人の生き残り。

 ザレスはいつも、イズ達の家族に優しかった。大国ソルレンカの後ろ盾があったとはいえ、閉鎖的、排他的なところの多いリセルティンの貴族、王族達の中で、イズ達に自分と同じ、外様者として同情と共感とを寄せていたのだろう、おそらく。

(あのね、イズ)

(どうしたの、ナルガ?)

(あのね、あのね――お、大きくなったら、私のお嫁さんになってくれる?)

(え? ……でも……)

(……だめ?)

(だって……みんな、言ってるよ。ナルガは、琥珀の姫君と結婚するんだ、って)

 この時、その、琥珀の姫君と言う存在は、未だ固有名詞を持ってはいなかった。

 ただ、決まっていたのだ。

 翡翠の王家は、代々比翼宰相を世襲する、琥珀のエルネストーリア家と瑠璃のローディニア家とから伴侶を見出す。それが慣習だ。ザレスのように他家の王族がリセルティン王族に嫁ぐのは、非常に珍しい例外なのだ。

(そしたら私、やだって言うもん。イズじゃなきゃやだって、私ちゃんとそういうもん)

(ほんと?)

(うん!)

(でも……きっと、叱られるよ? わがまま言っちゃ、だめだって)

(そしたら私、イズと結婚できたら、もう一生絶対、わがまま言わないっていうもん)

(え……ほんと?)

(うん!)

(で、でも、それだと……ナルガ、すっごく大変だよ?)

(大変でもいいもん。私、イズが一番好きなんだもん。ずっとずっと、イズといっしょにいたいんだもん。だから、言うんだ。イズをお嫁さんにします。そのかわり、もう一生絶対、わがままは言いません、って)

(ナルガ……)

 リセルティン序列第一位王位後継者、ナルガ・リィン・セルティニクシア。

 ヨルディニア王家最後の一人となるであろう、イズ・アル・ヨーディン。

 互いに相手だけだった。

 対等な友と呼べるのは、互いに相手しかいなかった。

 ナルガの姉、ガートルードははてみの君としてはてみの塔へと封じられ、イズもまた、古の王家最後の一人として、周りからは敬して遠ざけられていた。

 互いに相手しかいなかった。

 ナルガにはイズしか。

 イズにはナルガしか。

(だったら……だったらわたしもそうする! ナルガと結婚できるなら、もう一生絶対、わがままなんて言わない!)

(……ほんと?)

(うん!)

(ほんとに?)

(うん!)

(じゃあ――)

 あの日。幼かりし日のリセルティン王、ナルガ・リィン・セルティニクシアは、喜びに真っ赤に頬を染めた。

(イズは、私のお嫁さんになってくれるんだ!)

(うん! もちろん!)

(うわあ)

 その日のナルガの笑顔は、イズの生涯の宝物だ。

(ありがとう、イズ!)

(約束だよ、ナルガ)

(うん! 約束!)

 それは、遠い、子供の日の夢。

 今のイズは、知っている。

 今のイズは、よくわかっている。

 悪魔の力を借りでもしなければ。

 自分の魂と引き換えでなければ。

 そんな事は、到底不可能だ。

 誉れ高きリセルティン王と、滅び去った澱んだ血の王家の最後の一人が結ばれるなどということは。

 悪魔の力を借りでもしなければ。

 自分の魂と引き換えでなければ。

 絶対に、不可能だ。

 だから。

 だから、イズは、扉を開いた。







 イズが手に入れたいのは、翡翠の王ではない。

 イズが手に入れたいのは――いや。

 イズがその手に取り戻したいのは。

 幼かりし日の約束と、なによりも大切な、優しい幼なじみだった。

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