雪と風と彼方の物語
風野旅人
第1話 プロローグ
――それは世界の片隅で紡がれる、大きな物語へと続く小さな物語――
――わたしは夢を見ました――
そこから見上げた空は揺らめく光に覆われていました。
まるでさざ波立つ水面に映った月の光のようにゆらゆらと輝いています。
でも、それは空では無く湖面……わたしは水の中から空を見上げているのでした。
光の源はお日様、水の中から見えるお日様の光はとても柔らかく、まるで包み込まれているかのようです。
そして、わたしは……いつまでもお日様を見つめながら水の中を漂い続けているのでした。
いつまでも……いつまでも……
そう、この夢が終わるまで……
山間の
真新しい車体は、突き刺さるような夏の日差しに隈無く覆われ、その光を焼けたアスファルトの路面へと照り返していた。
空調の良く効いた車内はこれっぽっちも夏を感じさせないほどだが、締め切られた窓の外から見えるは、輝くような新緑と遠く広がる入道雲。
大気の濃さが分かるほどの真夏の厚い空を眺めていると、まるで吸い込まれそうな錯覚にすら陥りそうである。
「……寒い……」
日差しとは反対側の窓際の席で夏真っ盛りとは思えない台詞を思わず呟く青年。
その青年の服装はさほど薄着というわけではなく、ジーパンに長袖のカッターシャツを腕まくり……むしろこの季節からすれば暑苦しい姿であろう。
「確かに……このバス、冷房効き過ぎよね……」
その席には青年以外は座っていないにも関わらず、少女の声が青年の耳元で響き、その言葉を追認する。
バスの車内には青年の他に数人の乗客がいるが、皆、日の当たる席に集中しており、やはり寒いと感じているのだろう。
比較的後から乗り込んだ青年は席が空いていなかったため、やむなく日差しの無い席に座っていたのだが、まさかこの季節に寒いと感じるはめになるとは予想出来なかった。
「大勢乗っているならいざ知らず、この少人数でこの温度設定は無いぞ……」
青年は長く伸ばした袖の口をさらに細めながらぼやく。
「このあたりの学校は夏休みに入っているでしょうから、その子供達の分を当て込んでいるのかしら?」
「そんな気が利いた理由は無さそうだけどな」
平日の昼間も時間が出来た子供達が乗ってくることを考慮して……と考えても、無遠慮極まりない冷風に満たされた車内はむしろ体に毒だろう。
「脂ぎったおっさんが乗るならちょうど良いかもしれんけど」
「言いたいことは分からないでも無いけど……」
青年の言葉に肩をすくめたような少女の声が小さく響く。
「そもそもこんな山と谷間の田畑しかない農村に脂ぎったおっさんもないでしょうけどね……」
青年の座る席からは望むことが出来ないが、日の当たる窓と面した道路の向こう側には田畑に囲まれた谷間の村が広がっている。
日に焼けてがっちりとしたおっちゃんが颯爽と畑を耕しているイメージはあっても、都会の喧噪の中でささくれ立っているおっさんの存在を感じさせるようなことはない。
青年が何気なく外を見ている間、バスは三カ所ほどの停留所を飛ばして走り抜けていた。
平日昼間とは言え、他に交通手段がないこの地域にも関わらず、バスの乗車数は芳しくないと感じられる。
「それにしても、こんな人よりもお猿の方が乗車率が高くなりそうな運行限界ギリギリにしか見えない過疎地域なのに、何でまたこんなピッカピカの車両が走っているのかしら……?」
どことなく首を傾げたような仕草が感じられるその少女と思わしき声は、地域住民の皆様の神経を逆撫でするには十分な『意味』を備えていたりする。
「……酷い言いようだが、この国は一歩都市圏から足を踏み出せばどこでもこんな感じだろう? ちょうど車両の更新時期だったとか、そんなところだろうよ」
「それもそっか」
少女の声の通り、道路に沿って見受けられる民家はどことなく寂れ、場合によっては空き家と思わしき家も少なからず存在していた。
古き良き時代の面影を残し続けるのが良いか、利便さのみを追求して唯々作り替えて行くのが良いのか。それに
「とりあえず、羽織る物を出すか……」
青年は床に置いていた大きめのザックから薄手の上着を取り出して袖を通さずに羽織った。
この季節柄には極めて暑苦しい風体であるが、寒いものは寒いのである。
むしろ青年の上着を羨ましがっていると思われる視線もちらほら感じていた。
そもそもこの時期に薄手とはいえ上着を用意している方が珍しいだろう。
――それは、青年が旅の途中だから――
青年の旅はまだ始まったばかり、手にした荷物もまだ時を経ておらず、角がいくらばかりかすり切れたところが垣間見える程度。
首から提げた翡翠色の石が
メガネの奥から垣間見える瞳は若干鋭さを持っているものの、小さく収まった顔立ちからは実際の年齢を容易には悟らせない……そんな雰囲気がある。
当面の寒さから身を守りながら青年は隣の座席に置いていた本を手に取ると、自らの視線とは思えないほどかなり下の方で開いて目を進ませていた。
ただその瞳は本の内容を追っている様子は無く、何らかのタイミングに合わせてページを進めているだけのようにも見える。
「う~ん……もう少し人が居なければ、気軽に話が出来るんだけどね……」
少女の声がため息混じりに放たれた。
バスの走行音によって車内は満たされているため、小さく呟くような少女の声は誰にも届いていないだろうが、さすがに気軽に話すほどの声を出すことは憚れる。
「今更、俺と話すことなんて無いだろうよ。一体、何年旅していると思っているんだ……?」
青年の言葉に心底呆れたといった感じで、少女は小さく呟く。
「そりゃぁ、あんたと旅を……いえ、この旅が始まる前からずっと一緒に行動してきたし、あんたと同じものを見てきたと思うわよ……でもね……」
「でも?」
「あんたとあたしはどこまで行っても別の存在よ。それに同じものを見ても同じ答えを出すほど同じ考えを持っているわけじゃない。だから……」
「少しでも会話くらいさせろと?」
「まあ、そんなところ……かな……。だいたい旅とはいえ観光的なことも結構しているじゃない? その時に旅の相方がどんなことを思っているか、くらいはね……」
その言葉を最後に、少女の声は押し黙ってしまう。
その『どう思っている』かは、後でまとめて聞いたものではなく、その一瞬一瞬で聞けなければ価値がない、そういうことなのだろうか。
「……今は、漫画の本を開いてやるから大人しくしているんだな」
青年は手にした本――漫画雑誌の単行本――を
(『見ているもの』が同じでも、『見えているもの』は違うか……)
少し先に見える山の稜線と奥にある空へと目を向けると、そこには変わらず、無数のこぶを纏わり付かせた入道雲と酸素の濃さを表すかのような深い青空。
「次の……次の夏はどこにいるんだろうな……」
「あのねぇ……今年の夏もまだまだ始まったばかりじゃないの……」
青年の何気ない言葉に、ほとほと呆れた少女の声が突き返される。
暦の上でもまだ七月の半ば、しかも今の暦では九月後半までこの暑さは続くことだろう。
「そうだな、今年の夏もまだまだ暑くなりそうだ」
度々アクセルを全開にしたエンジン音を轟かせ、青年たちを乗せたバスは山がちの道路を駆け上がってゆく。
これからはじまる物語は、こんな『二人』がいくつかの出会いを紡ぐ、小さな物語の一つ――
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