こまぞう

 なぜかその人と会うと雨が降るのだった。ぼくが就職して東京に行く前の日もさっきまで晴れていた空が大雨になった。車を洗ったばかりなのになあ、と恨めしかった。また雨が降ったね、その人は半ば楽しそうに言った。

 一年が経ち、ぼくが東京から帰ったときは違っていた。雨は全然降らなかった。ぼくらは海水浴へ行った。季節はずれで人気のない海水浴場だった。背後には建設中の高速道路がまるで残骸のように立っていた。その人は以前より少し痩せて、大人っぽく見えた。

 車の中で髪を乾かしているとき、ぼくは言った。

「雨が降らないんだったら車を洗ってくればよかった」

「だったらこれから洗いに行こうよ」

 だけど、ぼくは車を近くのホテルに入れた。彼女は何も言わなかった。部屋で初めてのキスをした。彼女の腕がぼくの背中で交差するのが分かり、胸が高鳴った。


知り合って何年も経っていた。初めて会った時、彼女は既に社会人で、同じ大学の卒業生だった。何かの飲み会で顔を合わせて、ぼくが一方的に熱を上げたのだ。ろくに授業にも出ないで、強がりばかり言っている年下のぼくなど、出来の悪い不良少年のようで呆れたことだろう。どういうわけか、時折、会ってくれるようになった。やがて虚勢の時期は過ぎ、彼女を支えに思うことが多くなった。ぼくが卒業の準備に入り、就職活動をする間、彼女は姉のように見守ってくれた。今、社会人となり、ぼくは彼女と並んだつもりでいる。


 愚かなことに、ぼくは慣れているふりを装った。一度、装うともう後戻りできない。行為が一人歩きをしてしまう。彼女が心を決めかねているのがわかった。それがぼくの焦りを誘い、ますます性急になってしまう。それはぼくの本当に悪い癖なのだ。いつも性急過ぎて、大事なものを見失ってしまう。ほんの小さな違和感を見過ごしてしまう。彼女はこの時でもぼくを制御し距離を測ろうとする。ある距離を保ったままで、ぼくを向かい入れ、味わおうとする。彼女のもらす声は、時折、絶叫に近くなり、ぼくを有頂天にさせる。それでも彼女は、距離を測りつづけている。

 ぼくはベッドで目を閉じて、彼女が浴びるシャワーの音を聞いていた。その音が、雨の音にも聞こえている。小さな違和感が次第に大きくなっていくのを感じていた。それをぼくは受け入れることができない。目を閉じてやり過ごそうとしている。やがて彼女の指が髪に触れるのを感じる。何を語ろうというのだろう。ぼくは眠ったふりを止めることができない。あるいは、本当に眠ってしまったのかもしれない。夢の中で、雨は降り続いていたのだから。

 目をあけた時、その人はいなかった。一人になった部屋で、幽かな潮騒に初めて気づいた。これが彼女との唐突な別れだった。


 それから何年か経ち、人づてに、その人が結婚をして離婚したことを聞いた。彼女が結婚に失敗するなんて、ぼくには想像もつかなかった。あの人が会いたがっていたよ、そうも聞いていた。だけど、ぼくは未だに胸の痛みを引きずっていて、顔を見ることさえ出来ないだろう。


また何年か経ち、偶然その人と会った。帰郷の折り、突然の雨にやられて立ち往生していたぼくに、傘を差し出してくれたのがその人だった。今日は雨が降る気がしたのよ、と彼女はいたずらが成功した時のように笑った。ぼくは突然のことに何も言えなかった。ぼくが確実に歳をとっていたのに比べ、彼女はまるで少女のように見えたから。

「結婚したの?」ぼくは頷いた。ほんの数分、肩を並べて歩いただけだった。

「そう。幸せにね」彼女は地下鉄の入り口までぼくを送ると、軽く傘を回して、雨の中に帰っていった。

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こまぞう @komazou

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