シーン4 恩讐の忘れ去られた祝宴の場

 文化祭が終わり、会場の撤収が終わった後、演劇部では打ち上げが行われた。

 今回の上演では、解体するほどの舞台装置はない。

 人が乗っても壊れない程度の机がひとつ、壊すのはもったいないからという理由で生徒会に引き渡されて終わりである。

 放課後になっても特にすることはなく、部員たちは予め決められた時間には打ち上げ会場となった稽古場に集合していた。

 稽古場の隅の長机をずらりと並べ、椅子を人数分置いたら、あとは開始を待つだけである。

 その場にいる部員全員が、席に着いた。

 あくまでも、「その場にいる」全員、である。

 因みに冬彦は、遅刻することなくやってきた。

 相変わらず動きは鈍く、会場設営の役には立たなかったが。

 さらにもう1人、この場に欠かせない部員がいるはずである。

 だが、ここにはいなかった。

 席が1つだけ空いている。

 顧問がちらりと様子を見に来て出て行ったところで、あれ、と誰かが気づいた。

 その疑問の声は2人、4人と倍々ゲームでネズミ算式に増えていく。

 やがてそれが大きなざわめきになったとき、稽古場の扉が横にガラガラと滑った。

 足を踏みいれた人影に、誰もが遅れてきたヒロインの登場を期待した。

 だが、それは部に籍を置く者ではなかった。

 稽古場中に、ほんの半月ほど前まで、当たり前だった声が再び響き渡った。

「みんな、すまない! どうにでもしてくれ!」

 三好藍は稽古場で、菓子やジュースがずらりと並んだテーブルの下に土下座して、冬彦にサプライズを詫びた。

 沈黙が辺りを支配する。

 正確に言えば、その場は完全に静まり返っていたわけではない。

 顔を見合わせ、また目くばせしあいながら、忍者同士の会話もかくやと思わせるほど微かな、聞こえるか聞こえないかというような私語があるにはあった。

「亜矢先輩は?」

「来られるわけないだろ」

「そういうことかあ……」

 テーブルのあちこちで、そんな囁きが聞こえる。

 これらが聞こえていたのかどうか定かではないが、舞台監督の立場を離れた部長が無言で立ち上がった。

 一同が息を呑んだ。

 三好藍に注がれていた視線が、席を立った部長に集中する。

 部長は、所在無く座っている冬彦に歩み寄った。

 深く頭を下げる。

「許してくれ!」

 いや、そんなと慌てる冬彦に、部長は事情を語った。


 ――本番直前、事務室の隣の応接室に放送で呼び出されてみると、そこには大きな段ボール箱を前にした三好がいた。

 急に退学して舞台に穴を空けられるところだったという怒りが半分、かつての仲間への心配が半分、部長はしばらく何も言えず、ただ三好の前に座ることしかできなかった。

 ようやくのことで、「もうすぐ本番なんだけど」とだけ告げると、三好は段ボールの蓋を開けた。

 そこには、バカとしか言いようのないほど派手な衣装があった。

「二日寝ないで作った」

 まず、三好が言ったのはこれである。

「だから何だよ」

 部長も、こんなことしか言えない。

 三好は、頭を下げた。

「無理を承知で頼む。舞台に上げてくれ」

「バカじゃないの、お前」

 吐き捨てる部長の目の前で、三好の背中が震えていた。

「そうでないと、俺、前に進めない」

部長は席を立った。

「知らねえ」

 応接室の扉を開けて、振り向きもしないで部長は言った。

「予定通り幕は上げる。その後のことは舞台監督の責任だ」

 ばたんと戸を閉めてから本番までの間に何があったのかは、部長も知らない――。


「俺の責任だ」

「い、いえ、僕は」

 冬彦にしてみれば、追い込まれた結果、素に戻って叫ばざるを得なかったに過ぎない。

 あの後、「お呼びでない、これまた失礼しました」の定番ギャグで、三好演ずるオロントと、正体の分からないクリタンドルは退場し、事情を知らない兄弟子が戻ってきた。

 町から出られないことを兄弟子が告げると、精魂尽き果てたジョン修道士はその場で崩れ落ち、ジュリエットも自ら命を絶って、無事に幕が下りたのだった。

 それで結局、カーテンコールで大喝采と「冬彦」コールを浴びたわけだから、照れ笑いをするより他はなかった。

「それより、クリタンドルって誰よ?」

 男子部員の中から声が上がる。

「そうだよ、責任とってもらお!」

 以前にロリコン男子部員たちを怒鳴りつけた女子部員も応じた。

「お前だろ」(あいつ)

「俺じゃねえって」(お前にゃ無理だ)

 いつの間にか姿を消したもう一人の飛び入りについての詮索が無限に続く。

 やがて、一人二人と立ち上がる者が現れた。

「はっはっは、実は俺だ」(あんたじゃムリムリ)

「私! 私!」(照明についてたろ、お前)

 いい加減なもので、三好の飛び入りも部長の責任もうやむやになり、「文化祭の怪人」をめぐる議論は宴に華を添えた。

 話がひと段落したところで、部長ははジュース片手に三好をねぎらう。

「しかし、あんな衣装、よく作ったな。いくらかかった?」

 三好は、一枚の名刺を部長に手渡した。

「なに、クマーラって生地屋、安くしてくれたのさ」

 へえ、と店の名前と連絡先を指でなぞって、部長はそれを三好に返した。

「今度頼んでみようかな」

 その言葉と共に、稽古場の扉の向こうに潜んでいた「文化祭の怪人」が姿を消したのを知る者はない。

 ささやかながら、鳩摩羅衆はきちんと元を取ったのである。


 ――事情は、こういうことだった。

 文化祭の2日前。

 つまり、瑞希が玉三郎によからぬ相談をもちかけた日の夜のことである。

 カラオケボックスで不思議な従業員から台本一部と名刺一枚で奇妙な誘いを受けた三好藍は、その足で生地屋「クマーラ」に向かった。

 名刺に小さな図で大雑把に示された店の場所は、分かりにくいことこの上なかった。

 三好は表通りにはないその店を、民家や営業を始めた居酒屋などの立ち並ぶ細い路地をうろうろと歩き回って探さなければならなかった。

 すっかり暗くなってから見つかったその店の構えは、誰が見ても尋常な人間が出入りする性質のものではなかった。 

 まず、平屋建ての斜めに傾いだ軒先はやたらと広く、逆に言えば店先はようやく見える程度である。

 奥からぼんやりと黄色い光が漏れるその下には、インドや東南アジア、アフリカのものと思しき怪しげな彫刻がこれでもかと並んでいた。

 三好は背が高いので、軒下へ入るには首を少し傾けなければならなかった。

 すると、ちょうど会釈をするような姿勢になったからだろう、「いらっしゃい」という微かな声がした。

 その先には、怪鳥や悪魔、踊る破壊神(シヴァ)や裸で抱き合う馬頭の男女像などが出向えるように並んでいる。

 おそるおそる足を踏み入れると、店の奥にあるカウンターには頭の禿げあがったネズミのような老人が、眼鏡の奥から鋭い目つきで見つめていた。

「話は聞いているよ」

 かすれ声ではあったが、はっきりとした言葉になっていた。

「あとはお前さん次第だ」

 僕は、と言いかけて、三好は口をつぐんだ。

 ポケットから財布を取り出して、中を探る。

 紙幣は何枚かあったが、その額面は全て5000円を下回っていた。

 因みに2000円札は人々の記憶と財布から消えて久しい。

「お前さん次第だと言ったろう」

 ネズミじいさんの声はいささか不機嫌であった。

 三好は財布をポケットに押し込みながら尋ねた。

「僕次第、とは?」

「お前さんがどこまでやる気か、ということさ」

「どこまで……?」

 それは、時間の問題か、それとも程度の問題であったか。

 三好が答えかねていると、カウンター上にうずくまった老人は面白くもなさそうに言った。

「それを決めるのもお前さんさ」

 内心を見抜いているかのような答えに、ますます三好は黙り込む。

 ネズミのように尖った顔がややうつむき加減に、眼鏡越しの上目遣いで眺めていた。

 やがて、かすれ声がぼそりとつぶやいた。

「金が無いのは見れば分かるからな」

 その言葉に、三好は噛みついた。

「僕次第で、生地を売ってくれるってことですか?」

 答えの代わりに、返ってきた言葉があった。

「まず、その財布を預かろうか」

 三好は動かなかった。

 ポケットの中に手を突っ込んだまま、もじもじと立ち尽くしている。

 老人は目をそらして、壁の時計を眺めた。

 大きな木の枝が一本、打ち付けてある。

 その上には大きな時計のついた小屋があり、枝の切り口には鶏の足が付けてある。

 ロシアの魔女バーバ・ヤーガの小屋だ。

 老人は三好と目も合わせずに言った。

「そろそろ閉店なんだがな」

「じゃあ、また明日……」

 三好の逃げ口上は、間髪入れずに遮られた。

「しばらく店を閉めるんでな」

 いるのは明後日だろう、と言われて三好は一言もなかった。

 あのカラオケの少年とどういうつながりなのかは分からないが、全て筒抜けになっている。

 財布は、ズボンの尻ポケットから老人の手に渡った。

 中身を確かめもせず、時計に目を遣ったままで再び同じ問いが繰り返された。

「お前さん、どこまでやる?」

 時計の針が、かつんと動いた。

 細い目が、横目で三好を見る。

「長くは待てんぞ」

「じゃあ、別の店で……」

 またしても結論を先延ばしにする三好を、老人は鼻で笑った。

「なら、これは返そう」

 放り投げた財布は、再び持ち主の手に戻る。

 慌てて中身を確かめる三好に、嘲笑が浴びせられる。

「他所では間に合わんし、とても足りんぞ」

 そこで「さあどうする」と迫る声には、一転して凄みがあった。

 うつむいて考え込む三好に、老人は三度問いかけた。

「どこまで?」

 じっと立ちすくんでいた顔が、キッと前を向いた。

 ひそやかだが、地の底から響くような重みのある声がきっぱりと言い切る。

「分かりません」

 ならば帰れ、とネズミ顔の老人は正面切って言った。

 三好は、その冷ややかなまなざしを真っ向から受け止めた。

 先の返事には、まだ続きがあったからである。

「今、決めてしまったらそこで終わりです」

 高らかな笑い声が、狭い店に響き渡った。

 グラン……ワラン……と店の隅にある大きな鈴が微かに揺れた。

 それに一瞬気を取られて後ろを向いた三好だったが、再び老人に向き直って言った。

「これが、最初の一歩です」

 ふん、と鼻息ひとつついて、老人は天井を仰いだ。

 黒ずんだ梁には裂け目がいくつも走り、今にも屋根が落ちてきそうである。

 じっと見つめている細い目は、それを心配しているわけでもなさそうだった。

 三好を見もしないで尋ねるその口元は、微かに笑っている。

「で、どっちへ行くね?」

 さっきと同じような、抽象的な質問であった。

 方角のことか、それとも土地のことか、それとも専門分野のことか。

 三好は不敵に笑って答えた。

「まだ、分かりません」

「それじゃ売れんね」

 のけぞった身体を起こした老人は、何故か上機嫌である。

 三好もまた、自信たっぷりだった。

「でも、戻ることは絶対にありません」

 細い目の間に皺が寄り、意地の悪い言葉が投げかけられた。

「絶対? いちばん信じられん言葉だな」

 黄色い乱杭歯を剥きだして見せた老人を、三好は軽くいなしてみせた。

「方向を変えるだけですから」

「ものは言いようだな」

 そういう老人の姿は、カウンターから消えていた。

 何やらごそごそ探す音がする。

 声のした方に向かって、三好はいささか気負ったように言った。

「じっとしていることだけは、しませんから」

 それに応えるように、カウンターの上には芯に巻いた記事がいくつも載せられた。

 姿を見せないまま、かすれ声が告げる。

「持っていけ」

 いくらですか、と尋ねる三好に、ぶっきらぼうな答えが返ってきた。

「財布を見てみろ」

 言われるままに開いた財布には、さっきまで入っていたはずの1000円札くらいの大きさに切られた新聞紙が何枚か挟まれていた。

 唖然とする三好に、カウンター向こうから姿を見せない老人はふっふと笑ってみせる。

「たかが学芸会に、高い生地はいらんよ」

 三好は口元を歪めたが、その表情に怒りや憎しみはない。

 それでも声を震わせながら、荒い呼吸を抑えて冗談っぽく尋ねてみる。

「少しばかりキャッシュバックしてもらえませんかね?」

「それで2着分だからな、安くしたほうだ」

 答えるだけの声は、素っ気ない。

「オロントと、クリタンドルの分ですか?」

 そろそろとカウンターに近づきながら、三好は問いかけた。

「そんなことは知らんが、1着分はもう持って行ったな」

 さっきよりもひそやかになった声は、いささか不機嫌そうである。

 更に質問を畳みかける。

「どんな男の子でした?」

 返事はない。

 生地を両脇に抱えた三好は、そっと先立ちした。

 老人の姿を探そうとしたのだった。

 だが、それは叶わなかった。

 残念だが店じまいだ、と答えるかすれ声と共に、店の明かりがふっと消えたのである。

 グラン……ワラン……と鈴が暗闇の中に鳴り渡った。 

 音の中に取り残された三好を、インドの神鳥ガルーダや、朝鮮半島の将軍標(チャングンピョ)が男女一対で見つめている。

 慌てて道へ飛び出すと、背中からネズミじいさんのかすれ声が追いかけてきた。

「今夜の夕食は、家で食うんだな」

 振り向くと、そこには軒のかしいだあばら家が月明かりの下にだらしなくアグラをかいている。

 三好は、しばし呆然と佇むよりほかはなかった。

 やがて、聞き覚えのある少年の声がどこからか響いてきた。

 ……それでは、台本通りに体育館で……。

 我に返った三好は、生地の束を抱えてよたよたと暗い路地を歩き出した。

 その晩から文化祭の前夜まで、三好はフランス貴族の衣装縫いと台詞の暗記に忙殺されることになる――。

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