シーン3 母が夢見た一夜にて
さて、それからがひと悶着であった。
まず、冬彦がパニックに陥った。
視線を泳がせながら、とりあえず何か言おうとはする、
「あ、そうだ、寝る前に歯を磨かなくちゃ」
言葉の上では努めて冷静を装うつもりではいるようだったが、歯ブラシを探してうろうろとキッチンを歩き回る。
見つかるはずがない。
しばし考えて、わざとらしく言う。
「そうだ、まず寝間着に着替えなくちゃ」
慌ててリビングを出て二階の自室に駆け上がったかと思えば、そわそわと下りてくる。
ひとりごとを言いながら。
「そうそう、石鹸、石鹸」
玉三郎は、きょとんとした顔でその様子を眺めていた。
亜矢は、くすくすと楽しそうに笑っている。
だが、兄の醜態に瑞希の怒りは頂点に達した。
「風呂入って寝ろ!」
一喝すると、冬彦は電光に打たれたように我に返った。
「あ、そうか、そうだよね、じゃあ……」
一同を見渡したが、微笑む亜矢に目を止めると急に顔を背け、妹の顔色をうかがった。
瑞希はこめかみを掻きながら視線をそらして、兄の無言の問いに答える。
「先に入ればいいでしょ、気にしないで」
「あ、でも」
玉三郎をちらりと見た。
客が先だとでもいうのだろう。
瑞希が一瞬、鋭い視線を玉三郎に送った。
そこには、「呼ばれてもいないのに夕食に上がり込んだ上に一番風呂にまで入るのかオマエは」という非難のニュアンスがたっぷりと込められている。
忍者でなくても察しがつくアイコンタクトだが、もちろん、冬彦が気づくはずもない。
玉三郎はというともちろん、すかさず同調した。
ただし、瑞希の思惑とは違う形で。
冬彦の前で急に改まって、おずおずと尋ねたものである。
「あの、先輩、それじゃ……」
「え?」
小首をかしげる冬彦に、玉三郎は散々迷ってみせた末、思い切ったように告げた。
「一緒に入っていいですか?」
「いいよ」
冬彦がさらりとOKを出した。
瑞希が是非を判断する前に、二人はリビングから消えた。
「え? え? え?」
ばたんと閉じた部屋の戸を見つめたまま、悪態ひとつ吐くことができない。
浴室の辺りで扉が閉まる音がするや、亜矢はキッチンのテーブルに突っ伏した。
丸めた背中が震えている。
やがて、屈託のない笑い声を背にして、ぺたんと座り込んだ瑞希はリビングの床に足を投げ出した。
「なんかその、すみません」
遠慮がちに謝る口調は、まるで屋上での戦いなどなかったかのようであった。
笑いに震える声が尋ねた。
「楽しいでしょ、毎日」
「別にそんな、バカでトロくてもう、イライラしてばっか……」
溜まりに溜まった思いを吐き出すかのように一気にまくしたててから、瑞希は慌てて振り向いた。
頬杖を突いた亜矢が、目を細めて見つめていた。
男を手玉に取って思いのままに操るばかりか、人を傷つけることなど何とも思わない迦哩衆の女が。
「別に冬彦クンのことは言ってないんだけど」
まだ微笑している油断できない相手を前に、瑞希は不用意な発言をした口を押さえた。
そう固くならずに、とお愛想ひとつ。
「本当のところ、どう思ってるの?」
「あ、兄貴ですけど」
声が裏返っている。
亜矢が重々しくたしなめた。
「ウソをついているとき、人間の声はすこし甲高くなるのよ」
息を呑む瑞希の眼を、亜矢はじっと見つめる。
「以上、葛城亜矢の演技指導でした」
一瞬の沈黙。
瑞希は、留め金を外されたゼンマイのように亜矢に向き直った。
「だって、兄妹なんですから! 」
ホントもウソもないです、とムキになるところに、今度は冷ややかな切り返しが待っていた。
「血はつながってなくてもね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに立ち上がるなり、身構えた瑞希の手が軽く握られる。
義理の兄妹であることは、家族のほかには学園教職員ぐらいしか知らない。
例外は玉三郎で、入学してからの付き合いの中で瑞希から告げるまでもなく、何となく知っているが。
それはともかく、そうした敵対者の秘密を敢えて告げることは、一種の挑戦である。
しかも、相手は自ら懐に飛び込んできたのだ。
何か思惑があると考えるのが普通である。
吉祥蓮の忍者が警戒することそのものは、別に過剰反応でも何でもない。
いざとなれば一瞬の「間殺」で亜矢に迫り、顔面に拳の一撃を見舞うこともできる。
テーブルに飛び乗って、相手より高い位置で頭を横から蹴ることもできる。
問題は、亜矢の武器だ。
この距離でチャクラムを一つでも投げられたら、ひとたまりもない。
最初に戦った時はタンクトップにジャージ姿だったが、その時にさえ隠し持つことができたのだ。
今着ている夏服のブラウスに隠しても透けて見えるおそれがあるが、スカートの中に仕込めないことはないだろう。
だが、瑞希がはいているハーフパンツの中にも、流星錘は仕込んである。
鎖のリーチぎりぎりに座っている亜矢は牽制できるだろう。
亜矢は笑顔を絶やすことなく、端正な姿で椅子に座っている。
瑞希も自ら攻撃に出ることはなく、ただ息をゆっくりと吐きながら尋ねた。
「どこでそれを?」
低く緊張した声で放たれた問いを、迦哩衆の忍者は軽く受け流した。
「聞くまでもないんじゃないかしら?」
椅子に腰かけたまま、亜矢は身じろぎひとつしないで瑞希を優しくなだめた。
「怯えることはないわ」
誰が、という怒気をはらんだ声を、涼しい言葉が制する。
「ここで戦っても何一ついいことはないんだから、お互い」
しばし考えて、瑞希はその場に腰を下ろした。
その通りなのである。
まず、台所を含めても、家具の置かれたリビングは狭い。
さらに、吉祥蓮が建てたものではないので、何の仕掛けも施されていない。
確かに、カウチを楯にしたり転がしたりして戦う手もある。
だが、そこまでして相手を倒したところで、戦った痕跡が残れば後々になって身近な人々から様々な疑いや不信の目を向けられてしまう。
忍者としては、甚だ困ったことになるのだった。
そこで瑞希も、精一杯の皮肉を込めて言い返す。
「あたしもいざこざ起こしたくないですし、センパイも兄貴をカモにできなくなりますね」
冷ややかに答えると、亜矢は哀しげにうなずいて言った。
「それが迦哩衆よ」
テーブルに頬杖をついたまま、目を伏せている。
数多の男たちを手玉に取ってきた女たちの一人にしては、大人しい態度であった。
本性を現したのなら、もっと尊大に振舞ってもおかしくはない。
瑞希もそんな反応を予期していたのか、肩透かしを食らったように唖然として、亜矢の沈んだ姿を見つめていた。
そこへ、リビングのドアが開いた。
瑞希が「間殺」で亜矢の傍らに寄り添ったとき、湯上りの肌を上気させた冬彦と玉三郎が並んで入ってきた。
少女2人が、何事もなかったかのように談笑し始める。
「も~やだ、センパイったら!」
椅子の背もたれに手をかけて、亜矢の頬に顔を寄せる小柄な瑞希の顔は、どこかひきつっている。
亜矢はというと、頬がくっつく前に美しい指でちょん、とつつく。
「瑞希ちゃんも何言ってんの」
妹とじゃれあう亜矢の笑顔を、冬彦はうっとりした目で見つめた。
玉三郎の口元も笑っていたが、目は笑っていない。
その白々しいまでに和やかな雰囲気は、本当は招かれてもいない少年忍者の余計な一言で凍りついた。
「あの、俺、今夜……」
玉三郎の声に、残る三人が壁の時計を見た。
もう十一時近かった。
泊まるとも帰るとも言わないうちに、その場でまたひと悶着持ち上る。
「ちょっと、玉三郎」
瑞希の制止には、明らかな先入観が働いていた。
人ん家に上がり込んでずーずーしくメシフロたかった上に寝るとでもいうのかこの三語族、というニュアンスがたっぷり込められている。
だが、瑞希のそんな威圧などまったく意識しない冬彦は、あっさり結論を出した。
「泊まってくといいよ」
「お兄ちゃん?」
妹の非難など、兄の耳には届いていない。
メガネを外してちょっと首をかしげたお人好しの顔が、「いいだろ?」と言っている。
瑞希は反論できなかった。
ここは、兄の言うことが正しいのである。
風呂まで入った同級生の少年を、秋の夜更けに外へ叩き出すことなどできるわけがない。
この展開も鳩摩羅衆秘法「郭公鳥(かっこうどり)徹所不可通術(とおるべからざるところをとおるの)術(じゅつ)」の一環と言えなくもないが、それは定かでない。
なぜなら、年下の少年が同じくらいの背の先輩をおずおずと見つめるその目は、潤んでさえいた。
ためらう声が、遠慮がちに尋ねる。
「い……いいんですか?」
「玉三郎も!」
その一喝は、年上の少女が余裕たっぷりに受け流してしまう。
「別にいいんじゃない?」
からかうような口調に対してムキになりかかった瑞希に流し目をした亜矢が、悪戯っぽく笑う。
これで3対1。完敗である。
「葛城……センパイ?」
この場で戦ってはいけない相手の側面からの不意打ちに、「センパイ」の敬称は一瞬遅れた。
亜矢は意味深な言葉をさらに付け加える。
「冬彦君も女2人と一晩、一つ屋根の下じゃ、ね?」
追い打ちをかけられて、少年2人と少女1人が真っ赤になる。
「でもほら、寝る場所が」
最後の抵抗を試みる瑞希だったが、その声は上ずっている。
玉三郎は助けを求めるように冬彦を見た。
だが、亜矢の指摘にうろたえている兄は妹の努力など知る由もなく、下級生のまなざしも受けとめられはしない。
あっさりと、問題にと終止符を打った。
「僕の隣で寝たらいいよ」
玉三郎が、可愛らしい顔に満面の笑みを浮かべた。
亜矢が無言で、親指を突き立てる。
瑞希がダメ出しする理由は、もはや一つとしてなかった。
こうして、2人の少年は肩を寄せ合って同じ部屋へと消えることとなったのである。
さて、男2人を寝かしつけた後、今度は少女二人の間に議論が生じた。
入浴の順番である。
「お先にどうぞ、センパイ」
瑞希はちょっと爪先立ちして、座った亜矢よりもほんの少し高い位置から告げた。
後輩の妹からの皮肉のこもった気遣いを、亜矢は鷹揚に受け流す。
「どうぞ、私は最後でいいわ」
客人としては当然のマナーであったが、そんな控えめな先輩からの申し出を、正面から聞き入れるべきではない。
一般常識としては。
瑞希は極めておしとやかな態度で、亜矢に順番を譲った。
爪先立ちのまま、バレエのステップのように音もなくリズミカルに亜矢の傍を離れるや、ドアの方向へ掌を差し出して恭しく言った。
「そんな、先輩を一人で待たせるなんて」
入浴するということは、狭い場所で一糸まとわぬ姿になるのである。
いちばん無防備な状態で亜矢を一人にしたら、寝室の冬彦に何をされるか分からない。
妹の瑞希ですら入ったことのないその部屋には玉三郎がいるわけだが、下手に動かれては事態が大きくなる。
もし、忍者という正体を明かさなければならなくなったら、冬彦との生活が、ひいては一葉と冬獅郎の生活が失われることになる。
瑞希自身は耐えられるとしても、こんなことで一葉の幸せを台無しにするわけにはいくまい。
だからといって、これを見過ごせば兄は身も心も完全に亜矢の虜になるだろう。
ベッドの(瑞希は見たことがないが、たぶんそうであろう)の上で眠る冬彦に何をするかは定かではないが。
一葉は「越三昧会術(えつさんまやじゅつ)に気を付けて」とは言ったが、それがどんな術なのかは言葉を濁してしまっている。
何にせよ、冬彦は顔と学校の成績を除いては何の取柄もない男である。
将来に至るまで利用しつくされて、必要がなくなればボロ屑のように捨てられるだろう。
夢に見た昔話の、若いお殿様のように……。
だが、そんな危険な女とはとても思えないほど気さくに、亜矢は理屈をこねて瑞希をからかった。
「じゃあ、あなたが済むまで私も入らないわ」
「え?」
瑞希は芝居がかった姿勢のまま、言葉に詰まった。
目をしばたたかせる瑞希を見つめながら、亜矢は困ったように言った。
「私、お風呂入らずに明日の本番迎えることになるんだけど」
「う……」
再び、瑞希の完敗であった。
このまま固辞すれば亜矢も入浴できず、悪者になるのは瑞希である。
亜矢はテーブルについたまま、瑞希はそれに背を向けてぺたんと座り込むや床に足を投げ出した。
沈黙が続いた。
瑞希がのそのそと立ち上がって、カウチの上に放り出されたテレビのリモコンを取った。
電源を入れても、画面にはわけのわからないシュールな深夜バラエティーが映っているだけだった。
瑞希が振り向くと、亜矢は可愛らしい笑顔を見せる。
お返事待ってます、と言わんばかりの余裕であった。
その視線を避けるように、瑞希はカウチに座り込んだ。
敵を背中にしている今は、寝そべったりすることはできない。
こうして深夜の静かな時間を過ごす2人の少女は、何となくテレビを見ているほかはなかった。
忍者同士の膠着状態というには、あまりにも緩い雰囲気ではあったが。
それを破ったのは、突然鳴った電話だった。
瑞希が出ると、一葉からだった。
受話器を寄せた口元に手を添えて、瑞希は囁き声で窮状を訴える。
「あの、今、実はね」
だが、入り組んだ事情を必死で説明しようとする娘は全く相手にされなかった。
一葉は一方的に用件だけを告げる。
「定時連絡。今、父さん、広島まで迎えに来てくれて、今夜はここで一泊します。以上!」
え、という間に電話は切れた。
「あの、お母さん? もしもし?」
九州で単身赴任している冬獅郎は母の再婚相手だが、家族で過ごした時間は短い。
父親のいない時間を、瑞希はもうどれだけ過ごしているだろうか。
その父親のところへ1人で行くと一葉が急に言い出したのは、つい5時間ほど前のことである。
わざわざ学校まで来たかと思えば、用件もろくに言わずに言葉を濁して駆け去ってしまった。
その挙句、ようやくよこした電話も「定時連絡」と称して一方的に切ってしまう。
吉祥蓮の忍者として、常に冷静沈着に振舞い、用意周到に立ち回っている一葉らしくもない。
いったい、何をしに行って、今現在、何をしているのか……。
瑞希が呆然としているところへすかさず、亜矢が議論の終止符を打った。
「一緒に入ればいいんだよね?」
「あ、ええ、はい……はい?」
もちろん、入浴の順番についての話である。
生返事をしてしまった瑞希の負けであった。
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