シーン2 嵐の前の静けさにて

 そして2時間後。

 遅い夕食を取る菅藤家のテーブルに、なぜか瑞希の招いた覚えのない客がもう一人いた。

 言わずと知れた白堂玉三郎である。

 下校途中で寄ったために、まだカッターシャツを着ている。

 その席の正面には瑞希が座り、その隣は冬彦の席である。

 2人とも、私服に着替えていた。

 冬彦の正面には、エプロンを外した制服姿の亜矢が座っている。 

 食卓に並んでいるのは、そうめんと亜矢手作りの具だくさん麺つゆ、玉三郎が無造作に切った夏野菜のサラダであった。

 季節外れのそうめんを、玉三郎は氷水の貼られた器からガラスの器に当然のように取って、悠々とすすり込む。

 その傍若無人な態度に、瑞希は非難がましく突っ込んだ。

「何であんたがウチでずーずーしくご飯食べてんの!」

 食事の手を止めて睨みつけられても、この少年は動ずる様子もない。

 多面体に切られたトマトに和風ドレッシングをぶっかけながら答える。

「いや、スーパーで買い物してたら偶然見かけたんで」

 到底相手を納得させられない答えであった。

 Whyに対するBecauseを形式的に返したに過ぎない。

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、瑞希の怒りに火が付いた。

「あんたは夕食買うの見かけた家ならどこでも上がり込むのか玉三郎!」

 どこでもというわけではないが、そうしたいときは上がり込むのである。

 これこそ鳩摩羅衆秘法「郭公鳥徹所不可通術術かっこうどりとおるべからざるをとおるのじゅつ」。

 食事をたかれそうな相手を見つけると適当に話を合わせて一日中でもつきまとい、ついには家にまで上がり込んでお茶やお菓子や食事を出させてしまう。

 細かい仕事をして細かい日銭を稼いでも食いつなげないとき、鳩摩羅衆の男たちはこうやって生き延びてきたのだった。

 こんなわけで、鳩摩羅衆には鳩摩羅衆の言い分があったのだが、玉三郎は烈火のごとき瑞希の怒りに油を注ぐことを恐れてか、いつものように「獣志郎だ」と名乗りを挙げることはなかった。

「いや、俺も一人暮らしだし」

「関係ないでしょ!」

 そう言って薬味のネギをかけたそうめんを一口すすってから、瑞希は黙々と食事に箸を進めるばかりで、口を利くことはなかった。

 冬彦はというと、黙々と箸を動かしては麺を取り、サラダを口に運ぶ。

 顔を赤らめてうつ向いたまま、伏し目がちに正面の亜矢をちらちらとみている。

 しばし無言の間が続いたが、それでも怒りが収まらないのか、瑞希は玉三郎はおろか、冬彦の顔も見はしない。

 要警戒の迦哩衆、葛城亜矢さえも眼中にはないようだった。

 瑞希が勝手に作り出した気まずい雰囲気の中、玉三郎が悠然と尋ねた。

「約束しなかったっけ?」

 椅子の背もたれに身体を投げ出してふんぞり返ると、瑞希の眉の間にくっきりとシワが寄った。

 閉ざしていた口が、不機嫌な声と共に再び開かれる。

「何を?」

 玉三郎は勝利の笑みを浮かべながら告げた。

「一食おごるって」

 ランドセルを背負った小学生スタイルで冬彦を尾行した朝、変装を訝る散歩中のチワワに吠えつかれたときのことである。

 兄の周辺に女性の姿がないか玉三郎に調査を頼む際、見返りにそんなことを言ってしまったのだった。

 たかがチワワのせいで変装姿を冬彦に見られるわけにはいかないといえ、焦って自分から約束してしまったのは失策であった。

 そんな古い証文を持ち出されて、瑞希は黙り込む。

 再び、重い沈黙が食卓にのしかかった。

 麺をすする音と、生野菜をかじる音だけが、テレビの電源を入れていないリビングに聞こえていた。

 やがて、亜矢が肩をすくめて謝った。 

「ごめんなさい、大きなこと言って結局そうめんで……」

 口にしたそうめんを慌てて呑み込んだ冬彦が、むせ返って胸を何度も叩いた。

 苦しい息の中でも、亜矢をフォローしようと試みる。

「え、いえ、美味しいです、その、時間遅いし、あんまり重いと、胃にもたれるし」

「何うろたえてんのよ、お兄ちゃん」

 瑞希が凍り付いた笑顔を浮かべて、肘で冬彦を小突く真似をした。

 だが、ふざけてはみせたものの、重い空気はどうすることもできなかった。

 沈黙の中で、玉三郎だけが泰然自若としていた。

 シイタケや玉ねぎを刻み込んだつゆを何杯もおかわりしながら、何を遠慮することもなく、ひとりで大量の麺をすすりこんでいる。

 やがて麺がなくなって、亜矢が冬彦に微笑みかけた。

「おかわりはどう?」

 はい、と背筋を伸ばして答える冬彦に、長い黒髪の揺れるすらりとした背中を向けて、亜矢は椅子の背もたれにかけたエプロンを再び着けた。

 台所に立つ亜矢の後姿を陶然と見つめている兄に冷ややかな一瞥を送って、瑞希はまだ食べ切っていなかったガラスの器の中のそうめんを口にした。

 その様子をじっと見ていた玉三郎は、悪戯っぽく笑って亜矢に訪ねた。

「先輩、ご自宅はどちらですか?」

 今度は瑞希がむせ返り、冬彦は己を取り戻してサラダに箸を伸ばしたが、なぜか麺つゆのなかにレタスを突っ込んで貪り始めた。

 ん~、と考え込んだ亜矢は、エプロン姿の胸から上を見せてちらりと振り返るや、ふふ、と笑って答えた。

「秘密」

 そうでしょうねえ、と意味深に言って、玉三郎は頷いた。

 冬彦はほっとしたように、しかし残念そうに、曖昧な笑いを見せた。

 瑞希は玉三郎を睨みつける。

 微かに動く唇は、迦哩衆の女がそう簡単に吐くわけないでしょう、と言っていた。

 茹でた麺をザルにすくい、水をかけてすすぎながら、亜矢は玉三郎に尋ね返した。

「あなたは?」

 もちろん、鳩摩羅衆も忍者である。

 そう簡単に本当のことを言うわけがない。 

 第一、亜矢の場合と違って、誰一人として興味を持っていない話題である。

 そのくらいのことは玉三郎本人にも、さほど想像力を働かせることもなく分かっていたであろう。

 突拍子もない答えが返ってきた。

「あれ、ご存じなかったんですか」

 ええ、と応じた亜矢は、水を張った器に麺を泳がせる。

 ここで初めて、瑞希は玉三郎の顔を見つめた。

 冬彦も興味深げに、玉三郎が下宿先を教えてくれるのを待っている。

 玉三郎は、人差し指をくいと立ててみせた。

「あそこです」

 そうめんの入った器を手に振り向いたエプロン姿の亜矢は、視線をちょっと上にやった。

 瑞希も冬彦も、それにつられるかのように天井を見上げた。

 意味を量りかねる分かりにくい謎かけに、何度目かの無用の沈黙が訪れた。

 その間に亜矢はそうめんの器をテーブルに置き、自分の席で「いただきます」と言うなり、さっさと手製のつゆに麺を取ってすすり始めた。

 沈黙の原因となった玉三郎を含む一同、それに倣った。

 黙々と食事が進み、残ったのはそうめんのあった器の中の水だけになった頃、ふうと一息ついた亜矢が突然、「分かった」と言った。

 重い空気が破れたのに安堵したかのように、玉三郎が「そうです」と答える。

 冬彦が、「ああ」と何やら納得した。

 瑞希だけがひとり蚊帳の外である。

「え、何? 何なに何?」

 オタオタする一名を尻目に、亜矢が冬彦の目を見て「せーの」と言った。

 玉三郎が、「しまった」とでも言うように口を歪める。

 冬彦が真っ赤になって俯きながら、亜矢と同時に答えた。

「月」

 ぽかんと上を見上げる瑞希に、冬彦は19世紀末の代表的な戯曲を挙げた。

「シラノ・ド・ベルジュラック」

 フランス屈指の剣豪でありながら、大きな鼻の醜さに悩む天才詩人の恋を描いたエドモン・ロスタンの傑作である。

 自らの醜さに恋を諦め、その相手を美形の親友に譲ったシラノは、2人を結婚させるために妨害者の足止めを図る。

 そのときに変装して名乗ったのが、「月から落ちてきた男」である。

妹にそこまで説いて聞かせた冬彦の頭を、しなやかな指で突然つかんだ。

「よく勉強したわね、偉いわ」

 文字通りの上から目線でそう言いながら、髪をくしゃくしゃかき回した。

 褒められているはずなのに、冬彦は長身の背中を丸めて小さくなった。

 玉三郎はそれを見ながら、面白くもなさそうに告げた。

「正解で~す」

 わざとらしく拍手してみせる玉三郎に、亜矢はおどけてみせた。

「じゃあ、聞いてもムダか」

 それを見て、ネタを出した張本人は、ふくれっ面をしている無教養な女子中学生に八つ当たりする。

「勉強しろよな」 

 大きなお世話よ、と瑞希はそっぽを向く。

 今度は亜矢が、冬彦の頭から手を引っ込めて笑いかけた。

「気、悪くしちゃった?」

 いいえ、と瑞希は真顔で返す。

 冬彦はさっき亜矢の指で髪をかき乱された頭を掻きながら妹に謝った。

「ごめんよ」

「何で謝るのよ」

 瑞希の機嫌は治らない。

 一度和んだ空気が1人のワガママで、再び重く沈みそうになった。

 それを打開しようとするかのように、玉三郎は亜矢に矛先を向けた。

 トゲのある口調で尋ねる。

「帰り大丈夫ですか、センパイ」

 う~ん、と亜矢は考える。

 冬彦がおずおずと立ち上がった。

「あの、よければ僕たちが……」

 複数形で言ったのは、もちろん玉三郎も勘定に入っているからである。

 迦哩衆の女忍者をエスコートするという、余り意味のない割に危険な話を突然振られた鳩摩羅衆の少年忍者は、自分を指さしたまま冬彦を見上げている。

 倫堂学園の上級生は、中等部の下級生の意思を高い位置から確かめた。

「いいだろ?」

 冬彦には珍しい、体育会並みのダメ押しに瑞希は叫んだ。

「それはダメ! お兄ちゃん!」

「そう! そうですよ、そう!」

 我に返った玉三郎も、せわしなく頷いて同意した。

 そうかなあ、と冬彦は黒縁眼鏡の上の眉を寄せて考え込む。

「お兄ちゃん、ほらだって、夜は暗いし」

 瑞希の反論は墓穴を掘った。

 淡々とした正論が返ってくる。

「いや、だからこそ、男2人で送らないと」 

 そこで玉三郎も止めにかかった。

「もし、先輩が誰かに襲われたら……」 

 これには冬彦も慌てた。

 亜矢の顔色をうかがいながら、声をひそめて言い返す。

「僕よりも、葛城先輩の心配を……」

 これも正論であった。

 3人の議論を黙って聞いていた亜矢は、嬉しそうに微笑んで言った。

「ありがとう、男の子2人で送ってくれるなんて」

 ああ、いやその、と照れる冬彦だったが、亜矢は笑顔で「でも」と付け加えた。

 顔を伏せたまま固まった冬彦の表情は、怪訝そうである。 

 倫堂学園中等部の男子1名女子1名は、息を呑んで高等部女子の発言を待っている。

「それだと、近所の目もあるし……」

 男2人で夜中に連れだって帰ると、不特定多数の相手と不純異性交遊していると誤解されるという意味である。

 その程度に人家が密集している所には住んでいるらしい。

 ウソか真かわからないが、亜矢はそこで悪戯っぽく言った。

「泊まっていっていい?」

 確かに、17歳の美少女を夜中に帰すよりは安全で合理的な判断であった。

 持ち上げてみせた足元のボストンバッグには、ちゃっかり洗面用具と着替えも入っているらしい。

 菅藤兄妹と白堂玉三郎は一斉に、濁点つきで短く「え」とだけ声を挙げた。


 ――イメージ的に、暗転――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る