シーン3 男と女と吉祥蓮の秘密
その日の夕食は、冬彦の分だけお茶漬けだった。
きょとんとする冬彦に、一葉は悪戯っぽく笑ったものである。
「ご飯食べてきたんでしょ?」
照れくさそうに頭を掻く冬彦とは逆に、瑞希は額に手を当てて顔を覆った。
吉祥蓮のネットワークでバレたのなら、店で瑞希が起こしたひと悶着も耳に入っているはずである。目立たない、人の記憶に残らないのが忍術の基本なのだから、あまりにも初歩的なミスと言わざるを得ない。
だが、一葉の情報源はそこではなかった。
「玉三郎くんが宜しくって」
「白堂君?」
そう反応したのは冬彦である。テーブルに身を乗り出すようにして聞いた。
「どこで会ったの?」
「スーパー出たとこで」
こともなげに答える一葉だったが、そのやりとりのせいで瑞希の反応は一瞬遅れた。
「獣志郎じゃなくて?」
娘の口にした名前に、一葉はしばし首をかしげた。
やがて、ふふ、と笑う。
「面白い友達ね、魂の名前があるなんて」
へえ、と驚いたのは冬彦である。
「そんなのがあるんだ、白堂君」
中二なだけよ、とぼやきながら、瑞希は一葉が得意とする里芋の煮っ転がしを口に運んだ。その手がはたと止まる。
「お兄ちゃんには玉三郎って?」
こくんとうなずく兄から目をそらして、瑞希は唸った。
「獣志郎と呼べって、何が……」
一葉は眼を細めた。
「いいお友達ね」
「誰が!」
頬を赤らめて、瑞希はもくもくと夕食を口に運んだ。
その日の特訓はまるで本番のようにテンポよく進み、夕食の後始末を終えた一葉も途中から見物にやってきた。
冬彦は台詞の記憶が早く、部活で稽古した分は既に頭に入っている。
瑞希に台本を持たせて進める稽古のやりとりは、一葉を爆笑させた。
だが、当の娘は必ずしも稽古を楽しんでいたわけではなかった。
冬彦が風呂に行った隙に、その日のことを愚痴ったのである。
「ねえ、早く帰ってきてくれない? でないと……」
瑞希は4月からずっと伏せていた玉三郎の話を、ようやく口にした。
吉祥蓮の一員としては報告して然るべき情報であったが、一葉はそれについて責めることはしなかった。
ただ、笑顔で相槌を打っていたばかりである。
やがて、玉三郎と冬彦が仲良くなったことを瑞希が心配すると、一葉は笑った。
「鳩摩羅衆は大丈夫よ。内乱や政争を煽りはするけど、自ら人を傷つけたりはしないわ。ただ、見殺しにすることはあるから、注意してね。むしろ……」
一葉の表情は険しくなる。
「むしろ、いちばん警戒しなくちゃいけないのは、
「迦哩衆?」
その名は、瑞希が初めて聞かされる名前であった。
母の口調は、それまでとは一転して厳しいものだった。
「私たち吉祥蓮が、1000年の間ずっと闘ってきた相手」
一葉は、その恐ろしい相手の所業を語り始めた。
冷たく微笑みながら。
淡々と。
しかし、静かな声の中にも怒りを込めて……。
長い戦いの歴史を語り終えた母は、静かに目を閉じる。
瑞希は母の元へ、膝でにじり寄った。
「知らなかった。どうして教えてくれなかったの?」
答えが返ってくるまでには、重苦しい間を要した。
やがて、言葉を選び選び、一葉は答えた。
「まだ瑞希には分からないことだから、その、ちゃんと知るまでは」
その説明は、少し歯切れが悪かった。
「何を?」
当然返ってくる質問に、しばしば瑞希の姉と間違われる母親は真っ赤になった。
「だから、あのね、男と女の」
「何?」
額に縦ジワを寄せる娘の問いを、一葉は真顔ではねつけた。
「まだ知らないでよろしい」
不満気に「は~い」と引き下がる瑞希を、同年代の友人のように若々しい母親はいきなり抱きしめた。
耳元で囁く。
「私たちは、あたりまえの男たちの縁を結ぶ女。そうすることが、世を安らかに保つの。それだけは忘れないで」
うん、と瑞希はうなずく。
だけど、と一葉は娘の肩を掴んで自分に向き直らせた。目をまっすぐに見つめる。
「迦哩衆は男性を誘惑し、資金源にしたり、世の中を陰で操るのに利用してきた。それがいつからかは分からないけど」
瑞希は母親の眼をじっと見つめていた。
一葉は、そのまなざしを受け止めて言った。
「でも、恐れることはないわ。迦哩衆は基本的に一人で動くけど、私たちには仲間がいる」
瑞希は頷いた。
それに微笑んだ母は、再び改まった面持ちで、はっきりと告げた。
「彼女たちは、鍼一つで人を傷つけることができる。それを何とも思っていないわ」
その真っ直ぐな視線を、瑞希は正面から受け止める。
一葉は重々しく声を低めた。
「
最後の一言に、瑞希は、首を傾げて聞いた。
「何、それ?」
一葉は口ごもって天井を仰いだ。
「それは、その、男と女が、その、夜に……知らないでよろしい」
はあ、と答えたなり、瑞希は再び尋ねる。
「どうして、今、それを?」
一葉は突然、少女のような胸に娘を抱きしめて答えた。
「見たらわかるわ、恋してるって。あ、冬彦くんには内緒ね……」
そこで瑞希は急に突き放される。
一葉は再び、天井を仰いでいる。
ただし、さっきまでのシリアスはどこへやら、顔は呆けている。
やがて、うっとりとつぶやいた。
「……私も頑張らなくちゃ」
「え?」
きょとんとする瑞希に、一葉は「ひとりごと」と悪戯っぽく微笑した。
その夜。
母が語った物語は、娘のいくつもの夢を紡いだ。
――平安朝の昔、都の外れに住まいながら、多くの公卿を誘い、意のままに操った没落貴族の娘がいた。十二単の色調の一つで、秋の枯れた風景の中に明るく映える花にたとえて、彼女は女郎花(おみえなし)と呼ばれた。
男たちは彼女の元に通ううちに、官位にも名誉にも興味を失い、やがて破滅していった。
だが、その中には他の女性との間に子を設け、家庭の中に帰って行った者もいた。彼らは宮中で名を成さないまでも、平穏に生涯を終えた――。
――中世の戦場で、敵味方の区別なく男たちを骨抜きにしていった遊び女(あそびめ)たちがいた。
戦場に出没しては野営の兵士を誘い、武者たちをも虜にした。
心正しい大将が探し出して斬ろうとしても、影か幻のように姿を消す。
何者かも、本当にいるのかいないのかも分からない。
そんな謎めいた、また、はかなげな有様から、その遊び女たちは「かげろう」と呼ばれた。
命がけの男たちが彼女たちに惑わされ、勝てる戦に敗れては命を落とし、終わるはずの戦も無駄に長びいた。
懐を肥やしたのは、その遊び女たちを連れ歩いた「みづち」と名乗る一人の狡猾な女であったという。
だが、その遊び女たちがひとり、またひとりと放浪をやめて自らの住みかを見出し、伴侶を定めていくと、「みずち」は何処へか姿を消したという――。
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