シーン4 女二人のありふれた雑談に耳をそばだてる少年の物語

 ところで、菅藤冬彦が玉三郎とお好み焼き屋に入る数時間前のこと。

 町内のファミレスに、1人の若者がやってきて、入り口から最も遠い席に座った。

 年齢としては高校生くらいである。

 ファミレスというところはランチタイムにどっとやってくるママ友が2時間ぐらいしてどっと去ると、あとは空の椅子とやたらに大きな机だけが夕食時を待つ閑散とした空間になる。

 便利なもので、客さえ少なければドリンクバー1つ頼んだだけで割と長時間居座ることができるのだった。

 ここも例外ではなく、こんな時間にファミレスで時間を潰すところを見ると、今日は代休なのか、それとも辞めたのか。

 長身に、逞しい身体。

 だが、表情はいささか疲れている。

 ラフなTシャツに色あせたジーンズ。

 肩掛けのカバンだけが新品である。

 そこから取り出したのは、かなりマイナーな演劇雑誌だった。

 パラパラとページをめくっていくが、ときどき手を止めてじっと見つめる。 

 その辺りは、常に広告だった。

 劇団、プロダクション、養成所。

 どうやら役者志望らしい。

 だが、彼は雑誌を途中で閉じて、カバンにしまった。

 代わりに取り出したのは、スマートフォンである。

 指で撫でながら目で追う画面には、横書きの文字が1行ずつ、たまに空白を挟んでダダっと塊のように並んでいる。

 どうやらネットに上げられた台本らしい。

 最初はゆっくり動いていた指がせわしなく動き出し、画面が動かなくなるまで画面を跳ね上げる。

 滑る画面は台本から掲示板に変わっていく。

 やがてスクロールが尽きた画面にはコメント欄が表れたが、若者はそこに何も書き込むことはせず、スマートフォンを机の上に置いた。

 再びカバンの中から取り出したのは、小さな冊子だった。

 表紙には『外郎売』と書いてある。

 さっきの雑誌と同じようにパラパラとめくり始めた彼は、ふと手を止めた。

 彼と同い年くらいの少女が入ってくるのに慌てて顔をそらす。

 可憐な少女が、ドリンクバーのある辺りから「STAFF ONLY」と書かれたドアのある方へ曲がって、彼から少し離れた壁際の席に座った。

 若者はおそるおそるその顔を確かめるように見やると、再び『外郎売』の冊子を見つめて、口の中で何やら繰り返し始めた。

 やがて、もう1人やってきた。

 40代前後の、どこにでもいそうな中年の女性である。

 さっきの少女がそこにいるのを知っていたかのように壁際の席に座ると、バイトのお兄ちゃんが注文を取りに来た。

 少女と中年女性はドリンクバーだけ頼み、バイトがその場を離れるとひそひそ話し始めた。

「この間はありがとう」

「まあ、上手くいってよかったわ」

 親しげではあるが、なれなれしくはない。

 親子ではないのだろう。

 若者は小冊子からふと目を離し、そんな二人を焦点の合わないまなざしで眺めた。

「で、相談したい事があるんだけど」

 そう言うのは、少女の方である。

 年長者に対して、ずいぶんと遠慮のない口の利き方をする。

「分かってたわ」

 答える中年女性は、まるで同年代の友人のように話しかける。

「え?」

 少女がきょとんとするのも構わず、話は続いた。

「頑張ってるんだってね、彼」

「ええ、まあ」

 誰のことだかようやく分かったというふうに、少女は答える。

 彼と言うからには、恋人か何かであろうか。

「練習してる?」

「セリフぶつぶつ口の中で」

 少女がそう言った瞬間、若者は自分の口を押えて再び小冊子に目をやる。

 おそらくは若者と同じような、役者志望の恋人がいるのだろう。

 あわてふためく若者には目もくれず、少女はくすくす笑った。

 だが、中年女性は重々しい声でたしなめる。

「気がついてると思うけど、ほら、1年上のあの子」

 横からちょっかいを出してくる女の子でもいるのだろうか。

 それとも、この少女に思いを寄せる男の子のことだろうか。

 そのどちらかは明らかでなかったが、とにかく少女はわざとらしく横を向いた。

「聞かなかったことにするわ」

「またまたあ、いい子ぶっちゃって」

 中年女性も顔をしかめた。

 少女は立ち上がって、ドリンクバーに歩いてゆく。

 やがて冷茶の入ったグラスを2つ持って戻ってくると、1つをストローと共に中年女性の前に置いて言った。

「そこはほら、男って」

「男って?」

 聞き返されたところで自分の席につき、自分のストローをグラスに挿して口をつける。

 ついと吸ってから、ぼそりとぼやいた。

「自分から言わないじゃない」

 その物言いは、ずいぶんと不満そうである。

 年上の女性は、眉根を寄せてその様子をじっと見つめる。

「何を?」

「だからその……あれ」

 問い返されても言葉を濁す少女に、目を伏せた女は、何度もうなずいてから答えた。

「ああ、あれね。そうでもないわよ、うちのなんか」

 この女のダンナの話か、それとも息子か。

 そのいずれにせよ、少女はその顔に似合わない低くドスの利いた声で、テーブルにかじりつかんばかりの勢いで女に迫った。

「ええ?」

 思わずたじろいで、女は遠く真横を見た。

 その方向には、あの若者がいる。

「まあ、彼ならねえ」

 若者の年齢からして、息子の話であろうか。

 いささか熱いそのまなざしに気づいた若者は、さりげなく視線をそらす。

 少女が机を平手で叩いて凄んだ。

「タイプ違う」

「いい勝負だと思うんだけど」

 しれっと答える女に、少女は冷ややかに突っ込んだ。

「その趣味どうにかならない?」

 ショタコンだと言いたいらしい。

「そっちだって」

 からかうように言い返す女。

 少女もムッとして答えた。

「私が?」

「ああいう、線が細いっていうか」

 図星を突かれたように、少女は一瞬だけ押し黙ったが、すぐさま笑顔で切り返した。

「そうなのよね、彼もそう思ってるのは分かるんだけど」

 恋人とどうしたいのか少女ははっきり言わないが、女には察してほしいようである。

 一方、女のほうは一瞬だけ首をかしげたが、すぐに相槌を打ってみせる。「あ? あ、ああ、男の子だもんねえ」

 なんとか話はかみ合ったようだ。

 自分のことが話題に上っているからだろう、若者もちらちらと様子をうかがい、それとなく耳をそばだてているようだった。

 だが、今度は少女が眉を曇らせる。

「何の話?」

「あの話だけど」

 当然でしょ、という口調で答える女に、少女は念を押す。

「男の子の?」

「うん」

 頷く女の口調には、戸惑いがあった。

 男の子の「あの話」とは何なのかは判然としないが、当事者同士は分かっているのだろう。

 若者は小冊子を見ているようで、その瞳は2人の女が話している真横に向いている。


 ――さて。

 固有名詞を外すとかえってまどろっこしくなる。

 とりあえず若者のほうの名を明かすと、三好藍みよしらんという。

 つい最近まで倫道学園高等部3年生で、演劇部のエースだった美少年だ――。


 親子ほども年齢の違うであろう2人の女はそんな事情を知るはずもない。

 彼のことを言っているかのような、非常に遠まわしな会話は続く。

「そうなのよ、やっぱり女からってのはね」

 年齢の割に悟りすましたようなことを言う女子高生である。

 三好は小さく首を振った。

 いやあ、そんなこともないぞ、と。

 だが女のほうも、まるでお互いすれっからしているかのように応じる。

「それはやっぱり、その場の雰囲気っていうか」

 何やら目が燃えている。

 年齢にこだわらないのは、この少女だけではないらしい。

 この意見には三好も頷いたが、少女は納得しなかった。

「だからさ、なかなか会えないじゃない?」

 なかなか同意が得られないのをじれったそうにゴネてみせる少女。

 女はそんなことは気にも留めず、当たり障りのないアドバイスをする。

「そこはさあ、可愛く」

 編み上げた黒髪に、ライトグリーンのワンピースが似合う少女。

 少女の容姿には、三好もそれとなくチェックを入れている。

 身長160㎝前後。

 スリーサイズは上から84・58・86。

 と、そこまで細かくはないが、人目を引く少女であることは間違いない。

 だが、彼は小冊子で自分の両頬に往復ビンタを食らわすや、再びページに目を戻した。

 そんな青少年の葛藤など知らぬげに、年の離れて見える女2人は議論をある意味では深めていく。

 さて、可愛さを要求された少女はふくれっ面をした。

「私いくつだと思ってるの?」

 どんなに多く見積もっても20歳過ぎているようには見えない。

 だが、女の回答は、ひがみを差っ引いても充分に皮肉がこもっていた。

「自分でわかってるくせに」

「まあ」

 少女は反論しない。

 黙ってストローに口をつける。

 白熱した議論はそこで一旦、クールダウンの時期を迎えた。

 女は咳払いして、結論をつける。

「そこは、男だから」

「そんなもんかなあ」

 グラスを揺すって冷茶の緑の中で氷をくるくるやりながらぶつくさいう少女を、女は上から諭すようにたしなめる。

「そこが曲者なのよ、コロッとひっかかるのよね、気を付けないと」

 三好の身体が、びくっと震えた。 

 横から聞こえてくる話題は、まさに彼が経験したことであった。

 まさに、葛城亜矢に「コロっと引っかかった」のである。

 その「コロッと引っかかった話」の内容を、ライトグリーンのワンピースをまとう美少女は怪訝そうな顔で再び確かめる。

「何の話?」

「あの話よね?」

 質問を質問で返す中年女性の言葉は、慌て気味の声で遮られた。

「ちょっと! 声が大きい」

「隠すような話?」

 ここで初めて、女はストローも使わずに冷茶をグラスから飲んだ。

 何をいまさら焦ってんの、とでも言いたげである。

「だって」 

 口ごもる少女を、女は人生の先輩ぶってたしなめた。

「初めて知って分かるのよ、ああいうのって」

「いや、初めてじゃないでしょ」

 その場で突っ込んだ少女に、女は素っ頓狂な声を上げた。

「嘘! いつの間に? だってまだそんな年じゃ」

 途中で大声を上げたことに気づいたのか、声はトーンダウンする。

 少女は目をぱちくりさせる女に顔を寄せて真剣な表情で言った。

「いやいやもう充分」

 女は目を見開く。

「ええ! うわあ……」

 額に手を当てて考え込む女の目の前で、少女は手をひらひらさせて尋ねる。

「何の話?」

「だからあの話よね?」

 いささかうんざりしたように、同じ問いに同じ答えを返した女に、少女はいらだたしげに言った。

「遠まわしに言ってるんだから察してよ」

 女はひらつく手を払いのけて突慳貪に言葉を返したが、続けてため息をついた。

「分かってるわよ。そっかあ……彼も隅に置けない……」

 少女は低い声で、同じ質問を三度、不機嫌に投げかけた。

「誰の話?」

「だからお宅の」

 女は手の甲を突き出し、お兄さん指と呼ばれる中指をひくひく動かしてみせた。

 少女は目をそらして照れる。

「そういう手つきは」

「そうやって大人になっていくのよ」

 遮る言葉をどう取ったのか、少女は縮み上がった。

 今度は女が、少女に向かって身を乗り出した。

「だから気をつけて、あの子は」

「どの子?」

 話題が大きく戻ったので、少女はついていけないようだった。

 女はふう、と息をついて、さっき説明したことを繰り返す。

「1年上の」

 こういうことであろうか。

 恋人にちょっかいを出している女の子がいる。

 だから、彼ともっと踏み込んだ親密な関係になってしまいたい。

 そこで最後の決断をするために、大人の女性に相談をした。

 この話ができるのは、母親ではない。

 おそらくは、親も知らないような、しかし少女と深い信頼で結ばれた大人の女性ということになるであろう。

「だから聞かなかったことにしたってそれは」 

 話を皆まで聞こうとしない少女に、様々な意味で豊富な経験を積んできたと思われる女は、とことん遠回りさせられた結論をつきつけた。

「だって後釜なのよ」

「あ……」

 誰が、誰の「後釜」であるのか。

 その意味することが、少女には分かったらしい。

 それは、ちょっかいを出している女の子に、恋人の心がすでに傾いているということか。

 もちろん、この少女と女の会話の背景など、聞いている三好には分かるはずもない。

 ただ、同じ言葉をつぶやいたばかりである。

 後釜か、と。

 三好は、手にしたスマートフォンの画面に何度か触って、過去に届いたメールを見た。

 そこには、まだ変えていないアドレスに何度となく送られてきた部長のメッセージが並んでいる。

 退学への驚き、詰問、返事がないことへの諦め、配役の交代、現状報告。

 そこには当然、彼がほとんど関わることのなかった、おそらく名前を聞いても顔も思い出せないような1年生の急激な成長ぶりが淡々とつづられている。

 主役がいなくなっても、後釜は滞りなく役目を果たしている、と。

「菅藤冬彦……」

 代役の顔を思い出そうとしているのだろう、その名をつぶやいて三好は頭を掻く。

 だが、それは疲れたように重い口調で尋ねる女の声で妨げられた。

「何の話してたの?」

 だが、女はいらだたしげに睨みつける三好に気づきもしない。

 一方、少女のほうは真っ赤になってうつむき、ぼそりとつぶやいた。

「……子ども」

 まさか恋人の子どもが欲しいというのでもあるまい。

 その証拠に、女は驚きもしないで、指でテーブルをとんとん叩きながら追及する。

「だから彼のことでしょ?」

 少女の願いは、この女も承知のことだというのだろうか。

 その問いかけに、微かに動く可愛らしい唇から、ますます消え入りそうな声が漏れる。

「いや、ダンナの……」

 がたん、とけたたましい音がして2人の女性がその辺りを見やると、1人の若者がテーブルに頭を叩きつけていた。

 まるで、居眠りでもしていたかのように。

 彼は荷物を持って立ち上がり、勘定を払ってふらふらと店を出て行った。

 そのときつぶやいた言葉が、2人の女忍者に聞こえたかどうか。


 ……女は、魔物だ……。

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