シーン4 美少女忍者の秘術伝授「まがって・ゆっくり」

 冬彦は、我に返るやその手を掴まれ、有無を言わさず立たされる。

きょくじゅう……『れい』!」

 ゆっくり、しかし力いっぱい、左右に足を踏み込む。

牛馬の代りに巨大な臼につながれた奴隷が粉を引かされているといった歩き方になった。

冬彦は疲れ切って、妹に手を引かれるまま、ふらふらと歩く。

「もうだめ」

 へたり込むと、瑞希が背中から羽交い絞めにして無理やりに立たせる。

 ふらふらと歩きだすが、左右にカーブを描いて歩くその有様は、全身をよじってもがき苦しんでいるようにも見える。


 あとちょっと、と励まして、瑞希は最後の型を伝授する。

きょくけい……『ひょう』!」

 左右に足を踏み込んではゆっくり止まる。それだけで、雲の上を歩いているかのような頼りない動きになる。

 実際、冬彦は既に『漂』の型を使うまでもなくなっていた。立っていることも歩くことも、真っ直ぐにはできない。

 体力の限界であった。


 そこで瑞希は手を叩く。

「以上!」

 稽古終了を宣告された冬彦は、畳の上にばったりと倒れた。

 とことこと瑞希が歩み寄る。

偉そうに腰に手など当てて、横たわる兄を見下ろした。

「疲れた、は禁句だからね、この程度のことで」

 だが、その顔は満足げに微笑んでいる。

 一方、白い素足の前で体を横たえる冬彦の目は、虚空を泳いでいた。

「どこ見てるコラ」

 冬彦の視線の先には、覆いかぶさる瑞希の上半身しかない。

 だが、そのどこにも目の焦点は合っていなかった。

 口元だけが微かに動いている。

「2の3乗で8だから、8の8乗は2の24乗、ってことは……2の10乗に2の10乗をかけて2の4乗をかける……」

 瑞希の口がぽかんと開いた。

「まさか8パターン全部使う組み合わせ計算してんじゃないでしょうね!」

 まさか、と返して、冬彦は畳の上をごろんと転がった。

 億劫そうに立ち上がる。

「10兆通りを超すんだよ」

 天井を仰いで、瑞希はつぶやく。

「せいぜい2つか3つ組み合わせればいいんだから」

 冬彦の視線は再び宙を泳ぎだす。

「すると……」

「計算はもういいの!」

 肩を怒らせて突っ込む瑞希を尻目に、冬彦はもたもた歩き出す。

「どこ行くの?」

「それより、何で?」

 毎度のことだが、話がかみ合っていない。

 え、と聞きかえす瑞希に背中を向けたまま、冬彦は核心を突いた質問をぶつけてきた。

「何でそんなことに詳しいの?」

 え、えと、と返答に迷った末、瑞希は目をそらして適当な答えをでっち上げた。

「……中等部で習ったの、体育の……創作ダンスで」

 いくら私立とはいえ、それはない。

「ふーん、僕らの頃とはずいぶん違うね」

 違うというより、すでに異次元の世界である。

 だが、冬彦がそんなことを気にする性分ではないというのは、瑞希も9歳のときから経験済みである。

 そうね、と何事もなかったかのように冬彦を見ると、畳の上から何か拾い上げていた。

「何、それ?」

「りんご」

「え」

「取ったよ」

 冬彦が突き出した掌には、何もない。

「だって、ないって」

「あることにするって言っただろ」

 冬彦はふすまを開けて出ていく。

「あ、それ、なし!」

 そのふすまを、追いかけて出ていく瑞希が足で閉めた。見かけの割に横着な娘である。

 それからしばらくして母の一葉が帰ってくるまで、冬彦と瑞希は無人の家の中で、架空のリンゴを奪い合って過ごした。

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