第21話 獣
10 獣
ジャスパーは地を蹴った。
剣を抜くことも、穴を迂回することも頭になかった。
あるのはただ一つ、最速で友のもとへたどり着かねばならないという認識だけだ。
迷わずに跳んだ。底なしの穴の上を。
「てめえぇぇぇぇっ」
ジャスパーは着地と同時に身をかがめ、灰色のモノに肩から体当たりした。
重い衝撃が全身に伝わる。
手応えは十分だ。この大きさのモノなら突き飛ばせる。
そのはずだった。
それはぐらりと揺らいだが、その場を動くことなく押し返してきた。
――受け止められた!?
ジャスパーは負けじと両足を踏ん張りながら、相手の感触を探った。
ごわごわした灰色の体毛。その下で分厚い筋肉が動く気配。
直感の告げるまま、ジャスパーは後ろへ転がった。
頭上を長い腕が横なぎに通り過ぎる。
獣めいた手だ。指の先端には鋭そうな爪。
ジャスパーは転がって距離をとり、立ち上がった。
敵を真正面に捉えた途端、ぞくりとする感覚が身体を貫く。
「……こいつ」
思わずうめきが漏れた。
敵の正体が分かる。身体に流れる血が敵の本質を告げている。
あれは獣だ。直立し、二足歩行する狼だ。ヒトの特徴を持った獣。自分たち獣人とは真逆の存在。
それ以上にふさわしい呼び名が思いつかなかった。
流れる汗が冷たく感じる。理屈抜きで敵の強さが感じ取れる。勝てる気がしない。
まずい。まずい。まずいまずいまずい――
ひゅっと風切音がした。
人狼の横腹に矢が当たり、弾かれて石床に落ちる。
「バケモノめ」
後方からルピニアの悪態が聞こえる。彼女の弓矢には人狼の肉を貫くだけの威力がなかった。
ルピニアを認識したのか、人狼はうなり声を上げた。狼の頭が横を向く。絡みついていた視線が逸れ、ジャスパーは身体が軽くなった気がした。
「……剣……だよ……スパー……」
前方から弱々しい声が聞こえる。
「エルム」
――そうだ。オレには武器があった。
ジャスパーは自らの腰に手をやった。
革を巻いた鉄の柄。その冷たい感触が頼もしい。
「エルミィさん、動けたら自分を治療してください。エドワード先輩が来るまで時間を稼ぎます」
アトリの声は震えているが冷静さを失っていない。
――そうだ、エドだ。エドが来ればきっと戦える。それまでエルムたちはオレが守る。
乱れていた思考がまとまり始める。友を傷つけられた怒りがよみがえってくる。
「おいバケモノ! こっちを見ろ!」
ショートソードを抜き、ジャスパーは大声を上げた。
人狼が首を回す。
再び両者の視線が交錯した。
湧き上がる恐怖をねじ伏せ、剣と盾を構える。怒りがジャスパーに闘志を与えていた。
人狼は動き出したジャスパーを見据えている。猛烈なタックルを仕掛けてきた彼に比べれば、他の三人は優先順位が低いのだろう。
「そうだ。オレを見ろ」
ジャスパーは横へ回りこむようにじりじりと移動し、空気穴を背にした。
穴を飛び越えることが人狼にできないとは思えない。ルピニアやアトリに飛びかかられたら、彼女たちに身を守るすべはない。たとえ穴に突き落とされる危険があろうと、この方向は死守しなければならない。
「〈来たれ。汝は炎。汝はつぶて――〉」
右後方からアトリの呪文詠唱が聞こえてくる。
「見とれ、バケモノ」
左後方からはルピニアが弦を引き絞る音。
人狼の向こう側で、倒れたエルムの手がかすかに輝いている。治療術だ。
――動けるのはオレだけだ。どうやって時間を稼ぐ?
「バカ野郎、そいつから離れろ!」
エドワードの大声が響いた。慌てふためく初心者たちのざわめきがそれに続く。
「邪魔だ! お前らはさっさと逃げろ、直進して左だ!」
人狼が騒ぎに気づき、首をめぐらせる。
――今だ!
「うおおおおっ」
ジャスパーは雄叫びを上げ、猛然と地を蹴った。
睨み合いはこれ以上続かない。先手を取れるチャンスは今しかない。一撃だけでいい。注意を引きつけておけばエドワードは間に合う。
人狼が即座に反応した。
灰色の右腕が風を切る。鋭利な爪がたいまつの明かりに輝いた。
――腰を落とせ。
ジャスパーは思いきりしゃがみ、爪に空を切らせた。
人狼の防御に穴が開いた。
――脇を締めろ。迷ったらど真ん中だ。
胴体の中心をめがけ、全力でショートソードを突き出す。
人狼が寸前で身体をひねる。刃はわずかに狙いを外し、右の脇腹に深く突き刺さった。
人狼は怒りに咆え、右腕を外へ振った。
至近距離からバックハンドの一撃が迫る。
――かわせない!
ジャスパーはとっさに剣を手放し、右腕を思いきり脇に引きつけた。
右肘と脇腹に重い衝撃。
「がっ」
ジャスパーは横へ跳ねのけられ、床に倒れながら転がった。
距離を稼ぎ、勢いを殺して素早く立ち上がる。
腕が少し痺れているが、深刻なダメージは受けていない。攻撃を受け止めたのが肘だったことと、懐に入っていたおかげで爪を使われなかったことが幸いした。
しかし、もうジャスパーの手に武器はない。
左手で盾を構え、あとは耐えるのみと覚悟した時だった。
つんざくような風切音が耳に刺さる。
人狼の腹に矢が突き刺さった。
人狼がよろめき、たたらを踏む。
「……な」
ジャスパーは目を疑った。今までの矢とは威力が段違いだ。
思わず後方に目をやると、人狼に杖を向けて決然と詠唱を続けるアトリが見えた。
「〈来たれ! 来たれ! 汝らは砕き焦がすもの!〉」
叫びにも似た力強い詠唱が終わるや否や、杖の先に拳大の火の玉が三つ出現した。
アトリが杖を振るう。三つの火の玉が猛烈な勢いで宙を駆け、次々と人狼を撃った。
人狼の上半身が激しく燃え上がる。苦悶の咆哮がとどろいた。
ジャスパーは目を見張った。
訓練で見た火弾の術だろう。一体の敵に火の玉をぶつけて燃やす、初歩的な火系の魔術。あの時は一つの標的に一つの火の玉を飛ばしただけだったが、一度に複数飛ばすこともできるとは――
「なんちゅう無茶を……」
ルピニアが険しい顔で次の矢に手を伸ばす。
人狼は薄煙を上げながら左右を見回した。立て続けに強力な攻撃を受け、倒すべき敵を決めかねているように見えた。
「下がれジャス公!」
障害を突破したエドワードが駆けてくる。
彼が空気穴の横、ルピニアと跳ね飛ばされたジャスパー側を通ると察した瞬間、人狼は反対側へ走った。
その先にいるのは倒れたエルムと、杖で身体を支え荒い息をつくアトリだ。
「くそっ」
ジャスパーは人狼を追って飛び出した。
素手で掴みかかって止めるしかない。しかし反応の遅れと距離が致命的だ。このままでは手が届く前に、人狼の爪が無防備なアトリを引き裂く。
人狼の過ちは動かないエルムを警戒せず、彼の近くを走り抜けようとしたことだった。
エルムは倒れたまま地面すれすれに蹴りを放った。
不意を突かれた人狼が足払いを避けそこね、転倒する。
「おおおっ」
ジャスパーは再びタックルを仕掛け、立ち上がりかけた人狼を壁に叩きつけた。
人狼がうなり声を上げ、組み付いたジャスパーを強引に押しのける。邪魔者を振りほどいた時には、短剣を抜いたエドワードがその眼前に迫っていた。
「なんでてめえまで二階にいやがる」
人狼の爪牙を避けながら、エドワードはめまぐるしく刃を振るった。
繰り出す一撃は浅いものの、手数が圧倒的だ。またたく間に人狼の全身が切り刻まれていく。
「……す、すごい」
人狼のそばからエルムを引きずり出しながら、ジャスパーはエドワードの動きに目を奪われていた。
攻撃をかわす体さばきは素早く滑らかだ。余裕を持って避けられるのは、敵の動きを予測しているからに違いない。速さと技術と、積み重ねた経験の成せる業だ。
「センパイ、左や!」
エドワードが躊躇なくサイドステップで左に避ける。
高速の矢が人狼の胸板に突き立った。
ごはっ。
人狼が血を吐き、あえぐ。
次の瞬間、短剣が人狼の喉を真横に切り裂いた。
ぴいっと鋭い音を立てて血が吹いた。
人狼が崩れ落ちるのを確認し、エドワードは鋭い視線を周囲に走らせた。
「ルピニア、新手はいねえか」
「なんもおらん。大丈夫や」
エドワードは短剣を振り、刃についた血糊を払うと鋭い目で四人を睨みつけた。
「お前ら。言いてえことは山ほどあるが――」
武器を鞘に収め、エドワードは深く息をついた。
「……褒めてやる。よく生き残った」
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