第19話 手折れぬ花

  8  手折れぬ花


「エルミィ。何か聞こえるか」


「……よく聞き取れないけど、話し声がするみたい」


「ルピニア、アトリ。お前さんたちはどうだ」


「通路二つ分向こう。少しやけど、曲がり角から明かりが漏れとるな。動いとる感じはせん」


 補足することがないのか、アトリは静かにうなずいた。


「油の燃える匂いもする。ランタンかな」


「二階で行き倒れかよ。しかも一人じゃねえだと。どこのバカだ」


 エドワードが毒づき、右方を指す。


「迂回するぞ。悪いが構っちゃいられねえ」


 アトリは目を見開いた。


「助けないんですか?」


「普段なら助ける。だが今は話が別だ。お前らを余計な危険にさらすわけにいかねえ。話し声がするってことは、そいつら生きてるんだろ? 俺らは入り口に戻って救援要請を出せばいい」


「それは……そうですけど。でもこのまま直進すれば階段への近道です。どのみち近くを通ることになります」


 エドワードは訝しげにアトリを見た。


「この通路はまだ半分も歩いてねえぞ。地図を暗記でもしたのか?」


「ここはD4交差点。階段はあちらですね」


 アトリが静かに進み出て、杖で斜め前を指した。一行が歩いている通路の先から大きく右へ外れた方向だ。杖が指す先には壁があるだけで、ルピニアの目にも何の変哲もない通路の壁としか見えなかった。


「階段を左上としたら、縦の通路に文字。横の通路に数字が割り振られています。ここは縦のD通路と、横の4番通路の交差点。このまま直進すれば左端のA通路に突き当たります。右に折れれば階段に着くはずです」


「……アトリ、そんなことどうやって」


 ジャスパーは唖然とした。


 いくら地図に沿って移動しているとはいえ、地下で何時間も歩き回ったのだ。人間より鋭いはずの自分の方向感覚ですら、もはやあてにならない。だというのに、なぜアトリは正確に自分たちの位置を把握しているのか。そもそも通路の文字や記号とは何だ? そんなものは地図のどこにも描かれていない。


「曲がり角の壁に記号が彫ってあります。今まで通ってきた交差点すべてにです」


「え、そんなものがあったの?」


 エルムはたいまつを持つ腕を一杯に伸ばし、曲がり角の壁を照らし上げた。


 彼らの頭の高さより上に、小さな金属のプレートが打ちつけられていた。コケに覆われて見づらいものの、彼らが進んできた通路側のプレートには「4」の数字が刻まれている。交差している通路側には同様に「D」のプレート。


 ジャスパーらは言葉を失った。自分の目線より高い位置にあるものは死角になりがちだが、彼らとてあらゆる知覚を駆使して周囲を警戒していた。その中で一人、アトリだけが死角の目印に気づいていた。


「そろそろ教えるつもりだったが、先に種明かしされちまったな」


 エドワードは渋い顔で腕組みした。


「おっしゃるとおり、一番の近道はこのまま直進だ。行き倒れ連中がいる曲がり角の前も通ることになるな」


「行きがけの駄賃、という言葉がありましたよね」


「だが怪我人なんざ抱えてみろ、余計なリスクが増えることは間違いねえぞ。ただでさえ俺を護衛に雇うほど危ねえってのに、わざわざ厄介ごとを背負う気か?」


 アトリはエドワードから視線を外し、静かに三人を見やった。


 深緑の瞳に強い意志の光が宿っている。

 一人でも行きます。

 そんな声が聞こえてくるようだった。


 ――それがあんたの素顔なんやな。


 ルピニアは感嘆の念を抑えられなかった。


 アトリは危なっかしいと何度も思った。すぐ茎が折れそうな儚い花だと思っていた。大きな勘違いだ。本当のアトリは芯が強い。格上のエドワードを相手に一歩も譲らないほどに。


「冒険者やしな。多少の危険は仕方ないわ」


 ルピニアは爽快な気分で片目をつぶった。


「怪我人じゃ放っておけないだろ。なあエルム」


「やっと出番だね♪」


「すまんなセンパイ。四対一や」


 エドワードは苦虫を噛み潰したような顔でうなった。


「これだから子守はいやなんだ」




 警戒しつつ進んだ先には、壁にもたれて座り込んだ五人の少年たちがいた。いずれも大小の傷を負い、傷口に巻かれた包帯や布は赤く染まっている。床に置かれたランタンは油が切れかけ、弱々しく光を放っていた。


「昼間の坊主どもか。救援だ、安心しろ」


「あ……」


 皮鎧の少年が何か話そうとし、咳き込んだ。鋭利な刃物で切られたのか、鎧には何条かの傷が刻まれている。


「しゃべるのはあとだ。エルミィ、こいつの傷が一番深え。鎧を脱がせて治療してやれ。ジャス公はランタンに油を足せ。残りの俺らは周囲の警戒だ」


 エルムは咳き込む少年の前にかがみ込んだ。少年は鎧の隙間から強引に布を差し込んでいたが、止血の効果はほとんどなかった。血に濡れた手では鎧の留め具を外せなかったのだろう。


 エルムが鎧の前側の装甲を剥がすと、少年はうめきを上げて身じろぎした。


「ゆっくり息をして。――我らが父は杯を満たし賜う」


 聖句の詠唱とともに、エルムの手が淡い光を放った。少年の血まみれのシャツの下で傷がふさがっていく。しかし全身の傷を完治させるには、術を数回かけなおす必要がありそうだった。


「ごめんね、先に他のひとたちを治してくるから」


「助かったよ。ありがとう」


 やや生気が戻った少年が瞳を輝かせた。


「あーあ。また犠牲者を増やしとる」


 ルピニアは小さくため息をついた。


 少年の目は仲間の治療にあたるエルムの横顔を追い続けている。彼の目にエルムがどう映っているかは明らかだ。真実とは残酷なものだと思わざるを得なかった。

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