第18話  クララ、四十七士の墓参りをするのこと

 本日分の主な話題は、隅田川の川開きの日の模様、横浜のヘップバン博士(ヘボン式ローマ字の発案者)宅訪問、四十七士の墓参りと中原氏とのデート、そしてお逸との楽しい日々、となります。


明治9年7月14日 金曜日

今日、小野氏の泊まっている旅館に招待されたのだけれど、真夏の酷暑を避けるため、夕方の四時になってから出かけることにした。目的地は比較的近くの蛎殻町で、一行は母、父、アディ、富田夫人と私だった。

 見つけるのに少し苦労したのだけれど、無事に辿り着くと、小野氏と英語のとても上手な二、三人の若いサムライが歓迎してくれた。

 お土産として私が作ったケーキと庭で摘んだ綺麗な花を差し出すと、日本人はケーキに大喜び。

「これはお嬢さんが作られたのですか?」

 私が頷くと「ナルホド。お上手ですね!」とお世辞なのだろうけれど、人好きのする笑顔で答えてくれた。若いサムライたちは段々私に興味を持ちだしたようで「お嬢さんは何歳ですか?」とまで聞いてきた! 話しているうちに、この青年たちは開成学校の学生で、ヴィーダー氏に教わっていることが分かった。

 招待された旅館は大きな茶屋も兼ねていて、以前はある大名の邸のものであった庭園の真ん中に建てられていた。堂々たる古木や、蔦や池や小川など、古い時代を物語るものが沢山あった。

 私たちは二階の部屋に案内された。一方が端から端まで低い窓になっていて、その窓敷居は他の人たちのように床に坐ることの出来ない父の腰掛けに丁度都合がよかった。

 部屋の壁には、有名な人、王様、貴族、僧侶、教師、お城、庭園、都会などの絵が沢山掛かっていて、各々謂われがあるものらしいのだけれど、それを見せて貰っているうちに正直ちょっと飽きてきた。説明文がついていたらいいのに。

それから夕食をご馳走になったけれど、勿論和食で、その後も絵を見たり話をしたりした。

 間もなく一人の少女が琴、つまり日本のハープを持って入って来て弾き始めた。私たちは皆床にぺたんと坐っていたけれど、このように日本風に坐っている私たちの様子を本国の友達が見たら、さぞ奇妙に思うことだろう。

少女はとても上手に弾いてから、歌を歌い始めたが、日本の歌だけは勘弁して貰いたい! 少女の歌は、時には金切り声や叫び声になり、また口籠もったり、ひどく鼻にかかったりした。

 しかし、と私は思い直す。ひょっとしたら……私たちの歌も日本人には変に聞こえるのではないのだろうか? 何故かというと、日本人の歌は単調であって、悲しげに鼻にかかるのに対し、私たちの歌はまったく荒々しく、高い音になるとわめき声になるのだから。

 教会で日本人が、Eフラットの音を出そうと額に皺を寄せて懸命に努力してもできなかったのを見たことがある。それでも今日の女の子の歌は、普段よく耳にする日本人のそれよりはいい音楽だったと思うし、母も同意見だった。八時に帰ったが、小野氏は明日隅田川の川開きに付き合って下さると約束なさった。


明治9年7月15日 土曜日

「申し訳ありません、急用が出来て本日はどうしてもおつき合い出来ないことになってしまいました」

 今日は隅田川の川開き。昨日、一緒に行って下さると約束した小野氏が、急遽そんなことを云ってきたので、本当にがっかりした。

「ウィリイさん、クララ。私たちと一緒に舟に乗らない?」

 お逸にそう誘われたのだけれど、夜、特にそんな人込みの中で川に出るのには母が反対した。母の心配ももっともなので、残念ながら勝家の人たちと一緒に舟に乗ることは諦めざるを得なかった。

 だけど、花火自体は見たかったので、母と私は人力車で花火見物に行くことにした。九時にセイキチを連れて出かけたのだけれど、花火大会が行われている両国橋に近づくにつれ、凄い人だかりとなり、結局私たちは降りて歩かざるを得なくなってしまった。それでも提灯や群衆や人力車の迷路を巧みに縫って案内するセイキチのお陰で、私たちがよく行く茶屋ナカムラに無事に到着することができた。

「申し訳ありませんが、本日は予約のお客様だけとなっております」

 最初はそう断られたのだけれど、私たちが以前からよく訪れる外国人だと分かると、喜んで二階に案内してくれた。

 そこには数人の人が坐っていて、だけど男性の半分は裸だった。私はそんな裸の人たちを見るのは御免だ。勿論腰巻きはしているのだけれど、肌を見るのは嫌い。それは男女を問わずにだ。女の裸はうんざりするし、男は野蛮な感じがしてしまう。

 笑ったり、喋ったり、酒を飲んだりしている彼らのそばに坐らされた時、私は些か怖かった。しかし私たちは勇敢にもアメリカの旗を露台に吊して、その陰に坐ることにした。

 隅田川は目の前にあり、上流下流一マイルの間に、不格好な運河用の舟から派手な小さなゴンドラまで、いろいろな種類の舟が無数に浮かび、さざなみに貝殻のように揺れていた。

 どの舟にも晴れ着を着た人々が乗って、色を染め分けた綺麗な紙の提灯を持っていた。きっとお逸たち勝家の人たちを乗せた舟もあの中にあるのだろう。

 目の前の幻想的な趣は、書き表すより想像して貰った方がいいだろう。何百万もの提灯が、眼の届く限り川を埋め尽くし、普段は穏やかな隅田川が輝く火の海のように見えた。赤、青、黄、白といった色が圧倒的に目立つ。

 花火の数はあまり多くなく、豪華でもなかったけれど、人々の熱気は大変なものだった。打ち上げ花火が上がるたびに歓喜が湧き、頭上で砕けて美しい星になるとやみ、次の花火が上がるのを待つのだ。

 土手や橋には大勢の人がいて、茶屋もまさに「すし詰め」状態。それでも、明るく火の灯った家々、照らされた川、華やかな花火、消えないように高く掲げた提灯の波――本当に綺麗な光景だった。

 だけど、その美しい光景も十時頃になって降り出した雨によって突如終わりを告げた。群衆は整然と散っていく。通り過ぎていくその人間の流れを見ながら、母と私は悲しげに、この人たちの精神的に希望のない状態について語り合った。

 主よ、魂の救済も知らぬまま、日々を漫然と楽しみと共に過ごす彼らの魂を導きたまえ。


明治9年7月25日 火曜日

 いよいよ母たちが日光旅行に行く日となった。これで母たちは「結構」と云う資格を得ることになるのだ。

 今朝は本当に大騒ぎだった。昨夜母と同行するトルー夫人とアニーが来て泊まっていき、今朝は四時起き。十人の外国人と荷物を運ぶために十台の人力車が待ち受け、母はヤスの引く我が家の人力車で出かけることになった。

 昨日、母はすっかり弱っていたから、今朝出発できないのではないかと思ったのだけれど、一晩ぐっすり眠ったお陰で元気になり、朝から散々どたばたした挙げ句、アディとウィリイも伴い出発して行った。

 みんなの姿が見えなくなると、少しだけ郷愁のような感情に襲われた。けれど、勇気を出して家に入ると、一つ気合いを入れることにした。

「母がいない以上、さて私はどうしたらいいだろう?」

 まずは富田夫人とヒロと一緒にお祈りをし、朝食を済ましててから、仕事に取りかかることにした。今日はウメの娘が母の身の回りを世話すべく同行したテイの代わりに来ている。十五歳六ヶ月で、おサクという。

 まずは片付けだ。教室用の長い部屋も、中の物をみんな持ち出し、箱や引き出しも完全に綺麗にし、客間を掃いて埃を拭き取り、花瓶の花を全部取り替えた。気合いを入れすぎたため八時前には何もかも整頓し終えてしまった。

 一休みしていると、高木氏が「母からの贈り物です」と着物を持って来て下さった。次に、ペンをとってケイツ・ハミルトンに手紙の返事を書いていると、深沢氏というアメリカ帰りの新しい友達がみえて、父と長話を始めた。話に加わった富田夫人は私たちの苦労話をなさった。

 深沢氏が帰られた後、富田夫人とお喋りをしていると、カローザス夫人から「病気だから来て欲しい」との伝言が。

 出向くと夫人は持病の神経痛が出たようで、寝ていらっしゃった。体中が痛いらしく、夫のカローザス氏もどうしたらいいかよく分からない始末。私は夫人の頭に包帯を巻いてあげて、お話をして、手紙や書類を読んであげてから、お食事の世話をすることにした。

 精の付く物を、と鶏肉のスープを召し上がったのだけれど、すぐに皿を置いてしまわれた。料理人がキャベツを入れたので、鶏肉の味がすっかり奪われてしまっていたのだ。実際に鶏肉はとても小さくて鳩みたいだった。カローザス夫人はそれを手にとって笑いながら云われた。

「この鶏は一度だって鳴いたことはなかったでしょうね」

 だけど、情けないことにこの時の私はお腹が空いて倒れそうで、そんなものでも美味しそうに見えてしまった。今日は朝食がとても早かったからだ。恥ずかしながら夫人からこの後、パンを少し分けて頂かなくてはならなかった。


 午後の一時頃に帰宅することにしたのだけれど、おサクは私とずっと歩いて帰る羽目になった。何故かというと、お昼なので人力車の車夫は皆眠っていたからだ。起きている者もいるのだけれど、とても高い値段を要求してくる。しかも築地の周辺は何処も低地で木も生えておらず、木陰もないので歩くのはとても暑かった。

 午後、富田夫人と私はベッドに横になって、長い間お喋りをした。それから読書をし、富田夫人と身体を洗いに行った。丁度その時、ウィリイから手紙が来たのだけれど、それは最初の宿場、千住から午前八時に出したもので、うちには午後三時に着いた。

 手紙の内容は至ってシンプルだけど、同時に深刻な物でもあった。皆元気だけれど、母がお金を十分に持って出るのを忘れたというのだ。

「宛先も分からないですし、日光はとても広い所ですから、お金を送るとなくなってしまうかも知れません。ですから今すぐセイキチをやって、夜泊まる所まで追いつかせて手渡してはどうでしょうか?」

 富田夫人はそう妥当な提案をされたのだけれど、何故か父はそれを渋った。

 仕方がないので父の好きなようにさせることにして、私たちは外出した。人力車に乗って駿河台へ行き、少し探してからヴァーベック家に着いたが、エマは横浜へ行って留守だった。それからコクラン家を訪ねたら、皆芝居に出かけ、コクラン氏だけご在宅だったので、スージーの本をおいて家に帰った。

 すると、まだ父がどうすべきかを悩んでいた。


明治9年7月28日 金曜日

 昨日の夕方、ヘップバン夫人がメアリ・ビンガムの結婚式にこちらへいらっしゃった時、一緒に先生のお宅へ行くことになった。

 ヘップバン氏の横浜のお宅では、夫人はいつも私に軽い綺麗な仕事をさせて下さったので、私はエデンの園にいるように気持ちになっていた。

 ヘップバン邸の朝はまず冷水浴から始まる。朝食後、夫人が銀やガラスの食器をお洗いになるのを手伝い、花瓶に花を活け、夫人が原田氏から日本語を習っている間、オルガンの練習をした。

 それから、キーキーと鳴る小さなオルガンでハツに音楽を教え、お昼まで読書をして過ごした。昼食後、夫人は来客にお会いになり、四時に私たちは夫人の馬車で外出した。そして夕方は「サムズ」でクローケーを。それから、とても音楽がお好きで、素晴らしいテノールの持ち主でいらっしゃるヘップバン先生と歌ったり、オルガンを弾いたりした。夫人は縫い物も教えて下さって、私はエプロンを作った。手紙を書き写す仕事も手伝わせて貰った。コールズ夫人には縁かがりと型染めを教えて頂いた。

 横浜では同じ年の少女何人かとも知り合いになった。アニー・ブラウンのところでルース・クラークとメーベル・ブルックに会った。私はメーベルが気に入ったが、丁度私と同じくらいの年の、とても陽気な少女である。

 今日になってウィリイから手紙が来たので、明日の朝、父と横浜を発つことになるだろう。私はヘップバン夫人と美しい邸宅が大好きなので名残惜しい気分だ。


明治9年7月31日 月曜日

 母とみんなは土曜の夜十時に帰って来て、トルー夫人は二日間うちに泊まっていかれた。

そして今日、新しき我が家「宝石荘」に引っ越したのだけれど、まだすっかり落ち着いてはいない。「宝石荘」は大変狭いけれどと綺麗で、とても好きになりそうだ。


明治9年8月19日 土曜日

「四十七士の墓所へ行ってみませんか?」

 木曜日にみえた中原氏が突然そんな提案をされた。何か歴史上の、とても興味深い人物たちらしい。

 午後になって中原氏がみえたので、四十七士の墓所である高輪へ出かけることにした。行ったのは富田夫人と母と私だけだった。

 シンプソン夫人の新居に立ち寄ったのだけれど、それは芝の大きなお寺の敷地で、おうちの中を案内して頂いた。この辺は約一フィートもある百足がでることもあるし、また蛇も一杯いるというけれど、まあまあ、いい家だと思った。

 そこから目的地に向かうべく東海道を行き、みすぼらしい入口で車を降りて小道を歩いていると、進むにつれて段々いい道になった。私たちと同じような観光客が沢山いるのだろう。

 仏像のある寺を通り過ぎてどんどん行くと、首を洗ったという井戸に出た。井戸の上に「これは首を洗った井戸につき、手足を洗うべからず」と書いた立て札があるところを見ると、そのように使う人たちが少なからずいるのだろう。

 もう少し先に進むと、ここへ来た記念になる本や絵や茶碗などを売っている老人がいた。私たちは、内側にロウニンの絵が描いてある杯と、絵と歴史の載っている本と、薄荷入りの飴を買った。

 更に木陰の道を進んで墓地に入ると、大きく茂った緑の木々が投げかける影の中央に、四十七士の墓があった。数を数え、一番大きいクラノスケの墓の前にある箱にお賽銭を入れた。

 私たちの他にも三人の人がやって来て、それぞれの小さい墓石の前に線香を一本ずつ、クラノスケの墓前には一束を立てた。どの墓石も前方に抉って作った穴があり、穴の底には魂が疲れを癒せるように水が入っていて、竹の花筒には花が沢山挿してあった。

隊長、大石内蔵助の墓は他の墓より装飾が多く、社が上に建っており、前に寄進箱が置いてあった。息子、チカラの墓にも同じような装飾が施してあった。

 隣の囲いには、主人浅野内匠頭の丈の高い御影石のお墓があった。コウズケノスケという偉い人に主人の仇討ちをした後で、彼らはハラハリをしたのである。

 このことについては本を今読んでいるところなのだけれど、あまりにも長くて、ここで書き写すわけにはいかない。近くのお寺でこの勇敢な四十七士の像を見たが、かなり遅く、暗くなってきたので、またいつか来てみんな見ることにした。


「茶屋で食事をしていきましょう」

 中原氏の誘いで向かったのは綺麗で涼しい店だった。川の土手を下りたところにあって、周りは松や杉に囲まれ、そよ風が涼しく、往き来する船の櫂の立てる水音がとても快かった。

 夕食が来るのを待っている間に、中原氏と私は手を組んで、笑ったり、お喋りをしたりしながら、綺麗な庭を歩き回ることにした。

 女給仕たちが、日本のサムライと外国人の少女と腕を組んで散歩しているのを見て、吃驚仰天するのを見るのは正直とても面白い。もっとも、もうかなり暗く、星だけしか出ていなかったので、私たちはそれほど人目につかなかっただろう。

 中原氏と一緒にいると、中原氏が日本人だということをいつも忘れてしまう。一緒にいて、そんなに気楽に感じる日本人は他にいない。気持ちよく、紳士的で、人を寛いだ気分にさせてくれる。

 中原氏は一体何処でその外国式礼儀と、洗練された紳士的態度を身につけたのかしら? アメリカ人に聞くより本人に聞いた方が早いだろう、その聞くきっかけがなかなか掴めないのだけれど。

 九時に帰宅して、縁側で涼しい夜風に当たりながら楽しく時を過ごした。


明治9年8月23日 水曜日

 母と富田夫人と父は、今日江ノ島に行った。

 朝の七時に神奈川に向かって出発し、土曜か月曜に帰ってくる予定だ。


明治9年8月24日 木曜日

 勝家のお逸が今日十二時に来た。素晴らしい着物を着て、口紅をこってりと塗り、顔にお化粧をしていたけれど、けばけばしさはなく、より一層美少女っぷりが際だっている。

本当に日本人にしては大きな悪戯っぽい黒い目がとても魅力的だ。

 昼食の後で二人でアイスクリームを作ることにしたのだけれど、お逸は大きなエプロンを掛けて手伝ってくれた。

 可愛くて優しい少女で、私は同国人の友達のように大好きだ。

 お逸が英語を喋れるか、私が日本語を喋れるかしたらいいのにとつくづく思う。でも私たちは片言同士でなんとか上手くやっているのだ。

 私と同い年の十六歳なのだけれど、日本ではもう立派な若い淑女と見なされる年齢なので、結婚の申し込みが沢山あるらしい。

「結婚などしてはいけない!」

 私は思わず叫んでいた。もし出来ることならアメリカに「お持ち帰り♪」したい。

 近いうちに泊まりに来ることになっているけれど、本当に大好きだ!


 お逸が授業を受けて、私がオルガンの練習をしていた時、扉を叩く音が聞こえたので振り向くと中原氏だった。私たちは長い間陽気にお喋りをして、二人で作ったアイスクリームを食べた。中原氏は私の可愛い友達であるお逸を全然見ないで、ウィリイか私だけを見ていた。

 中原氏が帰られた後、ウィリイは肩を竦めて云った。

「日本人には感心したよ。日本の女の子をちっともちやほやせず、こちらから追いかけずに、女の子に追わせるようにし向けるのだから!」

 日本人は、女の子の前では威厳のある冷たい態度を取る一方、何故か既婚婦人には結構ぺらぺら喋っている。

 もし万一中原氏が、私に対するように日本の少女に注意を払ったとしたら、町中によからぬ噂が広がってしまうだろう。

 同じ年の日本の少女の慎み深さに較べると、自分があまりにも自由なので、恥ずかしいような気がすることがある。

 この国では、私たちとは違い、男女の若者は全く隔てられていて交際することがない。道徳や作法などが我々の国とは非常に異なるから、そんなことはあまりできないのだろう。

少女は両親の決めた相手と結婚しなくてはならない。そして、他の男の人のことは殆ど知らないから、愛とは何か分からずに結婚する。

 男性は既婚婦人とは平気で話をするので、妻は夫の友人の中に恋人を見つけて、揉め事を起こすことがよくあるそうだ。これも皆、女の人が男性社会からすっかり閉め出されていて、その結果、男性について何も知らないことから生じるのである。

 一方、アメリカの少女たちは、全ての点で対等に男性と交際し、男性の人格を見抜く目を持っているから、自分で選ぶことができるのだ。

 私はアメリカ人に生まれたことを心から有り難いと思う。

 キリスト教の上に築かれた栄光ある我が国よ、万歳!


【クララの明治日記 超訳版第18回解説】

「さて本日分で解説すべき点はクララが訪れたヘップバン夫人についてですわね。

 ご主人のヘップバン博士はヘボン式ローマ字の発案者として有名ですけれど、恐らく明治維新期に日本を訪れた外国人が一番世話になった方がこの御夫妻ですわね。本当に当時の記録を読むと頻繁に登場しますもの」

「日本の政府は幕府も、そして明治政府も危険人物扱いして、邸宅の使用人として密偵を送り込んでいたことが今日の資料で分かってるけどねー。

 あと幕末、博士を暗殺しようと邸宅に潜り込んだ攘夷派のサムライが、博士の医師としての日本人への献身ぶりを見て改心したとか、博士が後年アメリカで亡くなった日に創設した明治学院のヘボン館が焼失した、なんて伝説もあったり」

「前者はよくある伝説とも云えますけれど、後者は怪談の類の話ではありませんの?」

「でも間違いなく真実なんだなー、これが。夫妻は今後も何度も登場しますので宜しく」

「さて、長くなりましたので、本日分はこれくらいに致しますけれど、クララの指摘している日本人の音程の外れっぷり。実はこの改善に最初に手をつけ、今日にも多大な影響をもたらす人物と関わりが非常に強い人間がここにいますわ」

「えっ? 何処!? 何処に!?」

「……はぁ、本当に仕方ありませんわね。本当にこの娘が父親である勝提督の十分の一でも記録を残していれば、貴重な資料が残ったでしょうに。これに関しては記録をもう少しまとめましたら取り上げさせて頂く予定ですわ」

「なに? どういうこと!? どうしてそんな哀れんだような眼で私を!?」

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