第7話 クララ、後の大親友に初めて出会うのこと

 本日分は、クララの周りにいる男性、小野氏と中原氏の話題、そしてクララが日本で初めて迎えるクリスマスの光景を。後に大親友となる勝逸子(勝海舟三女)との初めての邂逅でもありますが。。。


明治8年12月11日 土曜日

 今朝、朝食の支度をしに下に降りたら、小野氏がいつもの威厳あるサムライの着物とは違う格好で、何かお手伝いをしようと現れた。今日は十一日だから「イチロク」の公休日にあたるのだそうだ。つまり日本では「一と六のつく日、但し三十一日は除く」が、我々でいう日曜日になるらしい。

「今日は暇ですので、是非ケーキを焼く手伝いをしたいのです」

 朝食を満足げに並べた後、小野氏がそう提案されてきた。確かに食後はつまらなさそうに台所を彷徨いておられたので、私は少し思案した後「それではバターとお砂糖を掻き混ぜて頂けませんか?」と頼んでみた。

 重々しく頷かれてから早速作業にかかった小野氏を、横目でチラチラ確認してみる。

 宮内庁の役人であり、報知新聞の論説委員である人が、紋章のついた役人の服を脱ぎ捨てて、刺繍した帯の上に古手拭をピンで留め、新聞に出すとても重要な論説を書いているときのように、真面目くさってケーキの材料を、更に引き続いて南瓜パイの材料を掻き混ぜる姿は、とても奇妙だった。そして更に驚くべき事は、非常に厳かで几帳面に行う小野氏の仕事がパーフェクトだったことだ。程よく掻き混ぜられたケーキの、そして南瓜パイの材料は、竈で焼く前から成功が約束されているようだった。

 ついでながら、小野氏は報知新聞に商法講習所に好意的な素晴らしい記事を書いているが、筆者が誰なのか知らぬまま、それに注目している人が何人もいる。

 さて午前中小野氏は一言の文句もなく立ったまま手伝って下さったわけだけれど、ケーキとパイとビスケットを竈から取り出したら、予想通りまったく端麗に出来あがっていた。

 小野氏は本当の紳士であり、信頼できる友人である。子供の時から女の人や女の子とよく遊んだので、女の社会が楽しいと云われる。歌人のお祖母様から教育を受け、物静かな性質なので、十四歳まで女子の学校に通われたそうだ。アメリカにだって、そんなに楽しげに台所のことを品も落とさずやってくれる男性は多くないだろう。そんな小野氏は、夕食後、病気のお友達のお見舞いに、自分で作ったパイとプディングを持っていかれた。


 彼が帰宅したのは二時間ほど経って後だった。

「友達からのお返しの贈り物です」

 貰ってきた御菓子とお茶を用意された後、小野氏はよいしょとばかり、大きな箱を持ってこられた。

「中に入っているのは一体何なのですか?」

「これは祖母の歌です」

 私はその作品の多さに吃驚した。よく見えるようにと小野氏がわざわざ持ってきてくれた行灯をかざすと、山や森などの景色の輪郭の描かれた色紙が多くあった。更に細長い紙で壁に掛けるようになっているものもあれば、古代の巻物のように巻いたものもあり、また畳んだだけのものもあった。それを全部読めたらいいのにと、どんなに思ったことだろう!

 ざっと目を通して、わからないながらもできるだけの批評をしてから、小野氏が特に感心しているらしい作品を手にとって、英語で説明して下さいとお願いした。

 小野氏はしばらく躊躇い、戸惑っているようだった。

「辞書はないかな」

 そう溜息をつきながら仰って、最後には諦めたように頭をぴしゃっと叩いてから、解説して下さった。

『秋の美しい月が空から、海と、波が静かに寄せては返す緑の小島を照らしていて、海は銀のように輝きながらうねっている』

 なんて美しい光景を想像させる歌なのだろう!

 しばらくしんとして、小野氏は考え込み、私の手元の作品をじっと見ていた。行灯の火は薄暗く、私たち二人は箱を差し挟んで坐っているという絵のような場面となった。

「日本の歌はとてもやさしいように見えますが、大変深い意味を持っていて、それを読むと考えなくてはなりません。私の祖母は物を沢山書いたし、勉強もしました。漢文も理解しました。私は時々祖母のことを考えて眠れないことがあります。そういう時この箱を取り出して悲しみに暮れるのです」

 小野氏はこの美しい沈黙が乱されぬ事のないよう、静かに仰った。

「……お祖母様はいつお亡くなりになったのですか?

「十年前のことです。私は祖母が亡くなるとすぐ、生地の仙台から東京に出てきたのです。その時、たいていのものは置いてきたのに、何よりも好きなこの箱だけは手放すことが出来ませんでした」

 私は重々しく頷いてから、次のように告げた。

「そういうものは金や銀より尊いから大事にする値打ちのあるものです」

ただ心の底では、神様のお言葉の方がもっともっと価値があるという気がして、あの永遠の世界のことを小野氏にも教えてあげたいと思った。その世界には人間の中の善良で高貴な賢い人々が住み、そこでは現世的な物がいくら輝いているように見えても、皆つまらなく思われるのだ。今ここにその生涯の作品が置かれているお祖母様のことを考えて、お祖母様は「道、真、生命」についてお聞きになったことがおありだったかしらと思った。

いつもの私ならはっきりとそう口に出していたかもしれない。だけど、何故かこの場では遂に最後まで言い出すことはできなかった。

 その後、二人で月光のもとで富士山を見た。本当に美しい眺めだった。

 月の光に輝く空に燦めく星が、夜の王冠の宝石のように富士山の頂上を取り囲み、雪に覆われた富士山は「大日本」の大山脈の王者に相応しく、白く堂々と聳えていた。

私は我が友小野氏と玄関先を歩いたが、小野氏は月を見上げながら怪しげな英語で云った。

「I lofe it.I lofe it!」と。


明治8年12月12日 日曜日

 吉原で大火災が発生し、一日中燃え続けた。四〇六戸の家が焼失したということだ。


明治8年12月16日 木曜日

 昨日、夕方五時に中原国三郎氏がみえて、十時過ぎまでおられた。一ヶ月大阪に行っていて少し前に帰って来られたのだ。

 中原氏はアメリカの青年のような感じの方だ。しかしアメリカでは教会に行っていたのに、今はもうあまり積極的でないことがよく分かる。安息日に人を訪ねたり、来客と会ったり、歓楽地に出かけたりしている。海外で主キリストに誓いを立てた人たちのほとんど全部がそうなのだ。

 この国に帰って来ても初めのうちは教会に行ったり、安息日を守ったりするのだけれど、間もなく周りの外国人も日本人も無関心なのを見て自分も右に倣い、すぐに神への誓いを忘れ、世俗的なものだけに溺れてしまう。精霊のお力によって、この人たちを目覚めさせてあげなくてはならない。

 善なる主よ、この放蕩息子たちを、どうやって教会に連れ戻したらいいか教えて下さい。

 そんな中原氏も来られた今日の昼食後、みんな食堂に坐って、母と私がクリスマスツリーの装飾品を作っていた時、中原氏が突然仰った。

「気持ちの良い日だから午後お浜御殿に行きませんか」。

 母は賛成し、私も午前中望郷の念にとりつかれていて、何か気分転換が必要だったので行くことにした。支度をして、母と小野氏とアディ、盛と富田夫人、中原氏と私がそれぞれ一組になって出かけ、勿体ぶって歩いて行った。しかし、とてもむうららかな日だったので、庭園に近づくにつれ元気が出てきて、間もなくすっかり楽しくなった。

「……えっ?」

 でも、お浜御殿の入口で私たちは途方に暮れる事になった。一般公開日を間違えていることを今に至るまで誰も気が付かなかったのだ。

「こんなに遠くまで無駄足を踏ませて、なんとお詫びしたらよいか」

 男の人たちはひどく恐縮して繰り返し謝られた。誰かが「それでは愛宕山に行きませんか?」と言い出さなかったら、日が暮れるまでそうされていたかもしれない。

 かなりの道のりだったが、途中母は幾度か退屈しのぎにみすぼらしい日本の店や家を覗き、小野氏も同じように時々礼儀作法の道からそれて、富田夫人に愛想を尽かされていた。


 愛宕山は江戸の街中で一番高い山だけれど、標高は僅か25.7メートルに過ぎない。

 頂上へ向かう石段は二つあった。一つは小さな段が曲がりくねっている一方、もう一方は一フィートずつの段がついており、ほとんど垂直だった。

「婦人の着物はぴったりとしていて大股では上がれないので低い螺旋状の石段は婦人用で、もう一方の殆ど垂直の石段はどんな歩幅でも上れるから男子用なのです」

富田夫人と母とアディは当然婦人用の「女坂」を選択したのだけれど、私は「男坂」に挑戦する事にした。

 それでも改めて坂を見上げてみると、殆ど垂直で恐ろしいほど高く見えるので、私は不安になった。

「大丈夫ですよ、私は三年前にある武士が、この殆ど垂直の石段を馬に乗って駆け上ったのを見た事があるくらいですから」

 中原氏の言葉に、私はパットナム将軍の向こう見ずな跳躍を思い出した。その武士の行動は、のろのろとゆっくりした日本人的というよりは、むしろ行動的、衝動的で、アメリカ的というか、ヤンキー的な行動のように思われた。命知らずのようでありながら、気概が現れているからだ。

 差し伸べられた中原氏の手を握り、私は勇気を出してみんなと一緒に競争で上ることにした。

「俺たちは、まだ登りはじめたばかりだからな! この果てしなく遠い男坂をよ!」

 そう勢い込んで登り始めた我が護衛者(エスコート)たる中原氏は、でも背が低く、痩せているからすぐにへばってしまい、止まっては息をつくことになった。それでも色々な超人的な努力をした挙げ句、私は両手を取ってもらって、他の人たちがまだなかなか着かないうちに無事てっぺんに着いた。

 中原氏はすっかり息切れがして、今にも倒れてしまいそうだった。私も最初気が遠くなりそうだったが、それも収まると相当烈しい運動をしたためにかえって気分が良くなった。

頂上からは東京と湾の眺めが素晴らしく、至るところに美しい白い帆船が点在する湾は空と同じくらい青かった。この山から見える有名な場所をいくつか指して下さったが、なんと一マイル先の我が家の一部が見えたのである。そして頂上の反対側では、富士山が青と淡い紅色の靄の上に堂々と聳えているのが見えた。

 帰宅後、本当に素晴らしかったこの一日に、ベツドの脇に跪いて、神様に感謝の祈りを捧げた。


明治8年12月25日 土曜日

 いよいよクリスマスがやってきた。昨年、あんなに頭を絞った問題、つまり「来年のクリスマスを何処で祝うのだろうか?」。この問題が無事に解決したわけだ。

私たちは準備のため、とても忙しかった。確かに今回のそれは今までとは違うクリスマスだった。昨年ツリーの飾り付けをしながら、来年は何処にいるのだろうかと思ったのを覚えている。

 客間に大きな木を立てて、部屋の両端に緑の枝と大きな星を二つ飾り付けた。緑の枝が日本ではとても安いので、アメリカにいた時よりも美しくできるのが嬉しい。広間の鴨居の上を松で飾り、中央に提灯と日本の旗を吊した。

しかしやはり客人を最初に迎える玄関が一番人目に付くところだ。

「この国には新年に祖先が洞穴で暮らしていた時代を記念し、同時に神道の祝い事として、また悪霊を近づけないために、橙を真ん中から吊した藁縄にしだの束を結びつけたものを家の正面に掛ける習慣があるのです」

 本当なのか法螺なのか。正直私には判断しかねることを云われた高木氏は、この家の玄関を日本風に飾ろうとして、しだと藁縄を玄関に掛けた。

 ……うーん、どう贔屓目に見ても、このままだとクリスマスには見えない。異教の暗黒儀式だ。そこで兄のウィリイが額縁を緑の枝で囲んだら、美しい星のようなものが出来上がったので、それをこの古い異教的迷信の象徴の真上に飾った。

「暗黒の国にさし昇るベツレヘムの星を象徴しているわね」

母がそう云ったのはその姿形からの発想だったのか、それともこの国におけるキリスト教の布教の度合いを示すものだったのか。

 さて、高木氏とウィリイと他の何人かが外部の飾り付けをしている間に、中原氏がみえて、ツリーの飾りつけをお手伝いしましょう、と大切親切に申し出て下さった。小野氏も燕尾服にシルクハットという完全な洋式の正装で現れた。小野氏は最近昇進したので有頂天になり、新しい活躍の舞台で着て出るための夜会服を一揃い買ったのだ。

 ツリーの飾り付けを手伝って下さったが、特に一番高い枝<六.五フィート>に届こうとしていて、窓敷居だの椅子の背だの、まったく無茶苦茶にあらゆる危険な所に乗ってバランスを取りながら努力したが、結局無駄だった。背が低いというのは本当に不便なものである。

 杉田氏の令息が贈り物として、大きな衝立を二枚持ってきて下さったので、私たちはそれを客間に入れ、ツリーの前に立てた。こうして準備をするのはとても愉快だった。我が三人の騎士たちの行動は実に立派で、間もなくクリスマスを祝うツリーは見事に飾られた。


 とかくするうちに、本日のお客様がどっとやって来られた。大小、老若を問わず、遂に三十二人<!>の地位も実力も高い日本人が、もてなしのよい我が家に集まった。

 私たちは楽屋裏で浮き浮きとしていた。中原氏は最上機嫌で冗談を飛ばした。大鳥圭介氏は一家揃って、生後二ヶ月の赤ちゃんまで連れていらっしゃった。

 勝海舟氏の二人のお嬢さんと令息一人を連れて来られた。男の子は如何にも腕白そうな顔をしていた一方、二人のお嬢さんは借りてきた猫みたいに慎ましくおしとやかだった。

 私たちは、その「勝」という名前が“cats(猫)”と発音されるのをとても面白がって、そのお子さんたちを“kittens(子猫)”と呼ぶことにした。

 楽屋裏の紳士達はそれぞれ出て行って「子猫たち」に紹介され、笑いこけながら戻ってきた。小野氏は大鳥氏が紹介なさったのであまり幸せとは云えなかった。大鳥氏は小野氏を婦人たちの長い列の方へ連れて行き、列から少し離れたところに椅子を置いて「左側のは皆私の家族で、後は勝さんのご家族です」と云われた。

 要するに、母はこの方々を全部紹介したのだったが、こんなに大勢がクリスマスツリーに関心があろうとは思っていなかった。しかし、ツリーのことを耳にした方々が、つまり欠席だった福沢諭吉氏以外は、箕作、杉田、大鳥、阿部の各氏が家族連れで、それから未婚の紳士淑女がみんな来たので、こんなに沢山のお客になったのである。

 分かっていたら用意したのだが、こんなこととは予期しなかったから、母はそれほど沢山食事の準備をしていなかった。私たちは折り畳み式テーブルや、ありったけの椅子を客間以外の部屋から持ち込んだ。

 しかし、そのぎゅう詰めの中を縫って、富田夫人、ウィリイ、高木氏、小野氏、中原氏、そして私はお客様の接待をしなくてはならなかった。初めて洋式の食卓に坐って、ナイフとフォークで食事をした人もいれば、その様式にすっかり慣れきっている人たちもいた。食事の間に、何人かが客間へ行って蝋燭と提灯に火を灯した。


 食後、お客様は皆、見事に輝いているツリーの置いてある客間に移った。

「おおっ、これは凄い」

 全員の口から異口同音に、そして同時に感嘆の叫びが漏れた。このようなものは今まで見たことのない人々が多かったのだ。

 皆十分に見飽きた時、私たちは歌を歌った。

「若い紳士諸君に、淑女たちを紹介すべきではないのかね?」

父は最初からずっと気を揉んでいたけれど、一座の誰もそうさせることはできなかった。日本ではアメリカと違って、淑女と紳士が社交界で会うことがなく、男子に結婚の意志がない限り、両性が社交界で交際することは作法に適わないことなのだ。それゆえ、いくら アメリカの習慣を振りかざしても、この古い偏見を改めさせるまでには至らなかった。

高木氏が中原氏を「子猫たち」に紹介して口火を切ろうとつとめたけれど「子猫たち」は中原氏に殆ど口を利こうともしなかった。一座の中で日本の少女たちはどう振る舞っていいのか分からず、紳士とか外国人の社会ではとても不利に見えるので、長い間外国にいたことのある中原氏は、日本の少女達に興味がなくなってしまっている。

 しかし、今日の集いは日本の女性にとって新時代の夜明けである。女子が紳士と同じ食卓に着き、今までのように女子がするのではなく、紳士達に礼儀正しく気を遣って貰うのだから。私たちの、この日本で最初のクリスマスパーティーが何かいいことのきっかけになって欲しい!

 子供達におもちゃが配られ、家族事にキャンディーやナッツなどの一杯入ったレース編みの小さな靴下が贈られた。ゲームをしたが、笑い声は随分起こったにもかかわらず、ゲームの様式があまり皆さんのお気に召さないようだった。やがて子供連れの人たちは家に帰っていき、お客の接待係だった私たちは二次会をやったが、とても楽しく、日本人の言葉で言うとこれがイチバンよかった。その後客間に戻ってクラッカーボンボンを鳴らし、カードを<勿論キャンデーも>回した。

 中原氏はアメリカの切手が貼ってあって「あなたはなんとお優しいのでしょう」と書いてあるカードを貰った。小野氏は「チーズはお好き?」と刻んだハート形の砂糖菓子を貰って嬉しそうだったけれど、皮肉な事に彼は何よりチーズ料理が嫌いで、匂いさえ耐えられないぐらいなのである。

 アディは贈り物として、日本の羽子板二枚と羽を一ダース貰ったので、私たちは夕方の残りを羽根つきで楽しく遊ぶことにした。

 中原氏はこのかなり難しい遊びの達人で、ダンスをしている時と同様、とても優美に冷静に、少しも慌てたり興奮したりせずにする。

「まだまだだね」

 また中原氏の打ち込みが決まった。その様子は見ていてとても楽しい。

 一方、対戦相手となった小野氏は大変だった。あっちへ行ったりこっちに行ったりしていて、どんなに謹厳な人でも吹き出したくなるような格好で打ち返すのだ。

中原氏が落ち着いて優雅にすいすいと打っているのに、小野氏はまるで命がけで戦っているかのように、何やら訳の分からない台詞を叫びながら、あらゆる方向に絶望的に打ちまくる。

「百錬自得の極み!」

 派手に膝をつき、羽子板を劇的に振り回すけれど、あっさり中原氏に打ち返される。

「才気煥発の極み!」

 小野氏は突然前に突っ込んで羽根を撃ち込む。するとそのゆるやかな服は後ろに跳ねた。

目は興奮のために輝き、黒い髪はもじゃもじゃに変化していく。

「天衣無縫の極み!」

 何事につけ小野氏の行動を見ると「なんでもやる時は全力を尽くしてやれ」というのが信条かと思われるほどだ。だけど、とうとう小野氏は力尽きて床にぺたりと倒れ込んでしまった。「無我の境地」も遂に尽きたらしい。

「報知新聞の編集主幹が、その有能な記者がこんな格好をされているのを見たらなんと言うかしら!」

 私が的確に突っ込むと、彼は横たわったまま少し考えて、それから飛び起き、髪をとかして服を直し、真面目くさって羽根つきをやめた。

 それから中原氏は小さなバンジョー、つまりサミセンを取り上げて、小野氏と盛と私に、歌姫のしなをつくり真似て見せた。

「キラッ♪☆」

 それは真に迫っていたが、とても滑稽で仕方なかった。中原氏はお祈りが済んでから帰って行ったが、もう十二時だった。

 これ以外にも数多くの綺麗な贈り物を頂き、今までとはまったく違っていながら、とても楽しいクリスマスは終わりを告げた。神様のお恵みが与えられますよう、そしてベツレヘムの星がいよいよ輝き増しながら、「昼の正午」に向かってこの家の屋根の下に集まった人々の心に昇っていきますように。


明治8年12月27日 月曜日

 ある日本の新聞に、うちのパーティーの記事が載っていた。こんなことが日本で行われたのは殆ど初めてだというが、好感を持たれるといいと思う。著名なお客様方の名前も皆載っていた。


【クララの明治日記 超訳版第7回解説】

「ということで、逸子初登場となった第7回のクララの明治日記超訳版をお送りさせて頂きましたわ。お逸、初出演の感想は?」

「……な、な、なんなのよーっ、コレは!? 折角出番が来たのに台詞なしなのっ!?」

「借りてきた猫を演じていたのは貴女でしょうが」

「し、仕方ないじゃない! 父様と一緒のお出掛けなって滅多にないんだし、ましてや父様の昔からの知り合いがあんなにいる場所で、ぶっちゃけるわけにはいかないでしょ!」

「フン、負け猫の遠吠えなんて、はしたないですわよ」

「なによ、負け猫って!? だいたいこんなのに勝ちも負けもないでしょ!?」

「勿論ですわ。今のは貴女をからかってみただけです」

「ユウメイ、アンタね。。。」

「……出番があるだけいいじゃありませんか。わたくしなどまだ当分先ですのよ。しかも一度登場した後、アメリカに暫く出掛けてしまいますし」

「……ゴメン、ちょっと私、反省した。コホン。では、気を取り直して、本日の解説を」

「今回は特に解説すべき点などはありませんわね。ただ、クリスマスのお話の冒頭“来年のクリスマスを何処で祝うのだろうか?”の件から、クララ一家がこの前年のクリスマス時点で深刻な経済何にあった事が推察されますわね」

「第1回の解説で書いたとおり、実質アメリカで経営していた学校が破産寸前になったので、渡りに舟とばかりに日本に来た、というのが実態に近いみたいだからね」

「順風満帆にいっていたら、布教に身命を賭す宣教師なら兎も角、好き好んで極東の島国に来るものですか! もっとも、それは父親の方の事情で、母親のアンナさんに関しては真剣に布教活動を目指しておられたようですけど」

「……なるほど、森氏が心配になって契約を躊躇ったのも満更間違いじゃないのね。

 それにしてもクララのお父さんって影薄いよねー。今まで紹介した7回中、登場したのはたったの3回だもん。意図的に削除してるんじゃないの?」

「いいえ、相対的に見るとかえってこの超訳日記の方が出番が多いようよ。年頃の娘の常と云えば常かも知れないけれど、こと父親に関しては何かマズイことが起こった時にしか触れていませんわ」

「……同情はするけれど、ちょっとその気持ち、分かって上げられないかなー」

「貴女のところの父親を基準にしては、何処の親も頼りなく見えてしまいますものね。

 さて話変わって、今回の準主役と云うべき、中原氏と小野氏のことですけれど。お二人とも“良い人”ではいらっしゃるのだけれど、中原氏が典型的な努力・根性型の日本人なのに対して、一方の中原氏は立ち回りがよくて目端の利く日本人、といった評価で宜しいのでしょうか?」

「う~~~ん、難しいところだよね」

「? 何を悩む事がありますの?」

「当然! ジャ○プ腐女子的には、どちらが攻めで、どちらが受けかで!」

「痛すぎるから折角敢えて触れないでスルーしようと思いましたのに、貴女はなんで自爆しますの!?」

「いやー、やっぱり一回に一度はネタを振らずにはいられなくって」

「そんなネタは振らなくて結構です! この馬鹿は放っておいて、愛宕山の話を少し。

 愛宕山は江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社だという経緯から、何故か“天下取りの神”“勝利の神”として武士からの信仰対象になっていたようですわ」

「桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達もここで成功を祈願してから江戸城へ向かったって云われてるよね。それからここの“男坂”の急な石段は“出世の石段”と呼ばれていて、これは家光公が山上にある梅が咲いているのを見て“梅の枝を馬で取ってくる者はいないか”と言ったところ、讃岐丸亀藩の武士が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ています」

「中原氏が成功例を見たと証言していることから、武士にとっての“力試しの場”になっていたのでしょうね。それから妙な勘ぐりをする外国人記述者もいて“男用と女用に別れているのは差別だ”のような趣旨を書き記しているのを見た事がありますわ。まったく、この手の“勝手な見方”での“勝手な差別”を作り出す輩は古今東西、昔からいるようですわね」

「……“勝手な見方”と云えば、クララも随分困ったところがあるけれどね」

「ああ、遠慮するかと思ったのに、やっぱり取り上げますのね」

「うん、いくら親友相手でも書いておかないと、流石にこれは片手落ちだしね。クリスマスプレゼント交換した際の一節に以下のような文面があるんです。

『数多くの綺麗な贈り物のことを書くのを忘れていた。母は金ペン、絵、茶器一式、台所用品、日本の箱、五種類の絹地、茶箱を貰い、(使用人の)セイキチとウメから、仏壇の前に置く習慣になっている真鍮の装飾品一揃いを貰った。セイキチたちは、クリスマスとはどういうものかということを、そして母が朝夕神様にお祈りしているのを知っている。それで神様に礼拝するのに何か必要だろうと思ったのだ! 哀れな異教徒だ。栄光の神を崇めるのに偶像崇拝と迷信の象徴で手伝おうとするなんて!』

 こういう無知に対するあからさまな態度が、日本でキリスト教が広まらなかった事情なんじゃないかな? 私たち日本人なら、誰がどう見てもセイキチとウメさんの行為は『精一杯考えた末の善意』だって分かるのに」

「……わたくしの亡くなった実の父と母も宣教師だったようですけれど、確かにその点は否定致しませんわ」

「でも同時に親友としてフォローしておくけれど、こんな態度のクララも歳を重ねるに連れて、段々“日本式”に染まっていくから」

「その辺りの経緯は、引き続き当超訳日記をご覧になって確認して頂けますと幸いですわ」

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