ニンニク亭

 雨がひとしきり降り終わった、冬のある夜の事だった。仕事帰りの友人と落ち合い、安い酒を飲みに行こうと二丁目の通りを歩いていると、客引きの男が薄いメニューをばたばたと揺すりながら近寄って道を塞いだ。どうやら友人はその男と知り合いのようで、よう、もうかりまっか、などとハイタッチをしていたので、私はてっきり信用しきり、客引きの言うがままとある居酒屋へと入った。店の暖簾のれんをくぐり一番奥の畳に座った辺りで、彼の顔の広さを褒めると、友人は悪びれもせずに、客引きが知り合いでもなんでもない事を白状し、あわや大喧嘩となるすんでの所で、くだんの客引きが女を連れて来たものだから、悲しくも我々二人は鼻の下を伸ばして、行儀よく並んで座ったところから、この奇妙な夜は始まる。


 まず誤解のないよう言いたいのは、と女は妙にはきはきとした口調で話し出す。この店は前払い制だという事、料金以上の質を保証する事、産地や諸々については手前てめえの端末で調べればはっきりと書いてある事を一息で述べてから、こちらがかくかくと首を縦に振り聞いたフリをしていたのを見破っていたのか、小さな紙切れをそれぞれの掌に置き、女は早々に席を離れてしまった。

 友人と顔を見合わせ、それから紙片を改めて見てみると、そこには〈ニンニク亭〉と汚い文字で書かれていたもので、なんだ、案外普通の居酒屋だぞ、と顔を見合わせた。ニンニク亭の壁にはやはり汚い文字で、『❤︎肉は飲み物❤︎』『これ以上は生きた肉にかぶりつけ!』『バニカ・コンチータの名の下に』と書き殴られていて随分と乱暴な印象は有ったが、文字を除けば座布団も机も綺麗なもので、どことなくモダンな雰囲気である。次に来た筋骨隆々の男にコースを訊かれ、松竹梅のうちの〈竹〉を頼み代金を払う。こちらの男は見た目の割に物腰が穏やかで、それに支払った代金も、一晩飲む事を考えれば寧ろ少し安いくらいであったので、なんだ、怯えて損をした。いやいやこれから酷い料理が出てくるかもしれない。もしかしたら店員が呼んでもこないかもしれない。等とあれこれ考えていた。


 しかし、いい意味で期待は裏切られた。店員は呼ばれればすぐに何処からともなく現れ、丁寧にオーダーを聞いてから、まあ威勢良く復唱するのは少し我々には合わなかったが、それを補って余りあるほどに、どの料理も大変に美味であった。カリッと香ばしいベーコンの散らされたサラダから始まり、コクのある肉すいと麦飯(これだけは少し不味かった気がする。土のような味がした)。青色のツマに乗せられた癖のない刺身肉は添えられた甘辛いタレによく合っていた。黄金色の唐揚げは揚げたてでざくざくとした厚めの衣に包まれ、噛むほどに脂がじゅわりと滴り落ちた。合間に出された酒はしゃりしゃりと程よく凍った茘枝リーチィが氷の代わりに4つばかり沈んでいた。光くらぶというカクテルらしい。他にもイノシシのハツを炭火で炙ったものだとか、変わったものだと、缶詰にバターを乗せそのまま火にかけただけのあんまりな見た目の料理まで出てきたが、これも中々に美味い。側面には15年ものの赤、と華奢な字で書かれていたので、後で探して真似ようと思う。


 〆に出された少し薄味のバニラアイスを匙でつつき、これは穴場を見付けた、と二人でいい気分になっていたが、どちらも酔い潰れるほどは飲まなかったもので、金額に見合わない満足感にやや警戒をしていた。恐々と手を挙げ呼んだ店員がよりにもよって筋肉だったので、震える声でぉぁぃソと言うと、ニッと笑い、先に払ったじゃあないですか!と背中をばしんと叩かれた。掛けておいたコートを丁寧に着せられたので、随分と拍子抜けして店を後にした。狐につままれたような気分であった。


 後日、本当に化かされたのではないかと不安になって、まだ明るいうちに一人その店の前まで歩いて行った。眉に唾を付けたが、あの汚い文字で〈ニンニク亭〉と書かれた看板は確かに存在していた。

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