嵐を殺した話

「これは、俺がある旅人から聞いた話だ。

 かの土地には、かつて巨大な樹が聳えていたという。

 山のような大きさの幹に、天にまで届かんとする梢。大樹そのものが一つの都市であり、人は樹の恵みを受けて暮らしていたという。

 だが、ある時、大樹の町の上空を鈍色の雲が覆い、嵐が到来した。それも、ただの嵐じゃあない。三日三晩を過ぎても衰えることなく、枝葉をもぎ取り、人の命をも奪う強烈な嵐だった。

 物語は、そんな嵐の日に始まった」


  *   *   *


 絶えることのない騒音が鼓膜を震わせる。大樹の梢が風に煽られる音、雨が葉を打つ音、そして轟く雷鳴。それらが渾然一体となって町を包み込んでいるのを、大樹の頂点に限りなく近い場所で聞き届ける者がいた。

 大樹の高みに位置する洞。町中からかき集められた供物を積み上げた祭壇に、ただ一人、娘が祈りを捧げていた。樹に住まう虫の糸を紡ぎ織り上げた、つややかな白の衣の輝きも、今にも消えてしまいそうな灯火にぼんやりと浮かび上がるのみ。

 祈りを終え、娘は顔を上げて振り返る。木の葉の緑を映しこんだ瞳で、じっと、壁に穿たれた穴の外――荒れ狂う空を見やる。その、白い面に、何の感情を映しこむこともなく。

 娘は、生贄であった。

 大樹の町には、百年に一度、嵐が訪れる。きっかり、百年に一度だ。

 町の人間は、それを『大樹神の空腹期』と呼んでいた。すなわち、この町の神が飢えに苦しむあまりに狂い暴れる期間である、と。

 神の腹を満たし、狂気を鎮めるためには、生贄が必要であり――娘は、生まれながらにして神の食物として定められた存在だった。

 身を清め、神のために生き、そして神に食われる。聖なる供物は神の飢えを癒し、安らかな眠りに誘う、と伝承は語る。

 故に、神の供物となることは、とても名誉あることなのだ。

 何度も、何度も、繰り返し投げかけられた言葉が頭の中に蘇る。生まれた時から生贄として育てられた娘にとって、時が来れば神に喰らわれるというのは当然であった。

 それでも、娘の親を含め、今まで娘が顔を合わせた神官たちは、まるで、目の前の娘ではなく、自分自身に言い聞かせるように、その言葉を繰り返していたのだと思い出す。

 雷の音色が近づいてくる。それは、飢えた神の咆哮でもあった。娘は洞の外を見るのをやめ、瞼を閉ざす。二度とこの瞼を開くことはないだろう、と長く息をついて――。

 次の瞬間、嵐のそれとは違う、ばさばさという激しい音が外から聞こえてきた。

 娘は、はっと目を開けた。神、ではないだろう。何かが洞のすぐ側に落ちた、そんな音。神の訪れまで洞から出るなと命じられていた娘は、一瞬だけ逡巡してから、裸足で立ち上がる。一歩、また一歩。恐る恐る、洞の入り口に近づいていく、と。

 水気を含んだ音と共に、入り口の縁を掴むものがあった。無骨な、人間の手。驚きと恐怖で娘が立ちすくんでいると、縁にかけられた手に力が篭められ、這いずるように、何者かが洞の中に入り込んできた。

 それは、一人の男だった。

 知らない男だ。人生のほとんどをこの洞でごしてきた娘は、町の人間すら知らずに育ったが、それでも、男がこの町に住む者でないことくらいは、わかる。

 祭壇に灯された弱々しい明かりに照らされた男は、日に焼けた引き締まった体に、革のようでいて妙につややかな素材でできている、頭巾つきの外套を羽織り、ゆったりとした下穿きに、外套と同じ素材の長靴を履いている。どれも、この町では見られない装束だ。

 何より、娘の目を引いたのは、髪一本残さず剃り上げた頭のてっぺんから、襟の間から見え隠れする喉元までの――もしかすると、外套に隠された内側もかもしれないが――左半分をびっしりと覆う紋様だった。

 見る者が見れば『恐ろしい』『禍々しい』とすら感じさせる、のたうつ曲線を組み合わせた紋様だったが、娘にとってはただ『珍しい』ものとしか思われなかった。

 じっと娘が見つめていることに気づいていないのか、男は身を引きずり、完全に洞の中に入り込むと、ごろり、床に転がった。

「あー……、くっそ」

 その唇から漏れる声は、呟きのようで。それでいて、洞の中にやけによく響いた。

「こんなとこで力尽きるなんて、ついてねえなあ……。腹減った……」

 と、意味のわからない文句を吐き出して、つい、と顔を上げる。

 そこで、初めて、娘と男の目が合った。

 男の瞳の色は、揺らめく炎をそのまま映しこんだような、明るい緋色であった。この暗がりの中でも、淡く輝いて映るそれから娘が目を離せずにいると、男はにっと白い歯を見せて笑いかけてきた。

「おっと、お邪魔してるぜ、お嬢さん」

 娘はしばし、口をぱくぱくさせていた。何しろ、しばらく誰かと喋ったこともなかったのだから、何を言っていいものか、すぐには判断できなかったのだ。

 けれど、かろうじて、これだけは言えた。

「あなたは、誰……?」

「あ? 俺様は、えーと……、旅人?」

 旅人。この町の外に広がる場所からやってきたということか。娘は町の外を知らないため、「外」という漠然とした概念としてしか受け止めることはできない。

 それにしても、この男は、何故町の人間も近づかない祭壇の洞に転がり込んできたのか。今すぐ、誰かに知らせるべきだろうか。その屈託のない笑い方から、娘を害する意志はなさそうではあるが。

 娘の混乱をよそに、男は重たそうに上体を起こし、洞の奥へと視線をやって……、俄然、目を輝かせた。

「おっ、美味そうじゃねえか!」

「だ、だめ! それは、神様への捧げものだから……っ」

 今にも祭壇に飛びつかんとした男の腰に、慌てて娘がしがみつく。すると男は伸ばしかけていた手を止めて、かみさま、と不思議そうに首を傾げる。

「神様って、誰だ?」

 ――そんな質問は、初めてだった。

 当然だ。この町の人間なら知らない者などいない。神は神。大樹の町を守る神。百年に一度の飢えに苦しみ悶えることはあれど、百年の間この町に平穏をもたらす、偉大なる神。

 なのに。

(神様って、誰だ?)

 男の言葉が、娘の中でもう一度繰り返される。嵐の音、雷の轟き。それは今、確かに大樹を包み込んでいて、娘は今日この日のために生きてきた。そのはず、なのに。

 一瞬、胸の中に生まれた、言葉にならないちいさな感情を飲み込んで。娘は、男に向き直って、今まで言い聞かされてきたことを、生まれて初めて、自分の口から人に語る。

「か、神様は神様なの。この町を守ってくれる、大切な神様。いつもは大樹の根元で、わたしたちを見守ってくださっている」

 男は、たどたどしい娘の言葉を、小さく頷きながら聞いていた。余計な口を挟むことなく、娘から目を逸らすこともなく。娘は、そんな男の、炎の色に煌めく視線を受け止めて、ぽつり、ぽつりと言葉を落としていく。

「でも、百年に一度、酷い飢えに襲われて暴れ出してしまう。だから、神様のお腹を満たしてさしあげる必要があるの」

「それが、この祭壇のご馳走、ってわけか」

 まだ未練があるのか、男が唾を呑み込む音が聞こえる。腹の虫が鳴く音も。本当に、腹を空かせているようだ。せめて、何か分けられるものがあればよかったが、娘の最後の食事は既に済んでいて。

 ここには、神への捧げものだけが、残されている。

 祭壇に意識を向けた男の、どこか現実離れした横顔に向けて、娘はそっと口を開く。

「わたしも」

「あ?」

「わたしも、捧げものなの」

 男が、弾かれるように娘を見た。驚きと――それ以上の、娘にはわからない強い感情をこめて。ただ、わからない以上、娘はただ、言葉を続けることしかできない。

「神様は、人の食べるものだけでは、満たされないから。清められた、生きた人間の肉は、何よりも神様の空腹を満たす」

 淡々と。淡々と。絶えず聞かされてきた言葉を繰り返していく。それは娘も全て了解してきたことで、今更、何を感じることもない。

 なのに、男の、眉間に刻まれた深い皺と。先ほどまでの明るい煌きとは打って変わって、激しく燃え上がるように色を変えた瞳を認識して、胸が一際大きく鼓動する。

 くしゃりと顔をゆがめた男は、獣が唸るような声で呟く。

「ってえことは、神様ってのは、やっぱり、外で暴れてるアレのことだよな」

 こくりと、頷く。

 娘は神の姿を見てはいないが、外で荒れ狂う嵐は神の怒りであると聞かされていたから。

 男は、紋様の刻まれていない右のこめかみ辺りを指先で掻き、「言いづれえんだが」と前置いた上で、はっきりと言った。

「ありゃあ、お前らを守ってくれるようなもんじゃねえよ」

「……え?」

 娘には、理解ができない。

 大樹神が、この町を守るものではない?

 跳ね上がった胸の鼓動が、激しさを増す。

 違う違う違う。そんなことはありえない。ここには神がいる。神は町を守る。百年に一度だけの空腹を供物によって満たしながら。

 疑いなど抱く理由もない。外から来たこの男は知らないだけだ。

 ――なのに、どうして、こんなに、胸が苦しくなるのだろう?

「そ、そんなわけない! だって、今までずっと平和だった。それは、神様が守ってくれてたからじゃ……」

「守ってんじゃねえ。奴は、お前らで――この町で、遊んでんだよ」

 刹那、稲光が洞の中に深く陰影を刻む。それと同時に、激しく揺れる枝の隙間から、何かが垣間見えた。雷雲を背に浮かぶ、巨大な影。翼持つ獣。伝承の通りの姿をした神の姿に娘は息を呑む。

 だが、男はそんな娘に向かって、押し殺した声で言う。

「奴は、神なんかじゃない。――『竜』だ」

 りゅう。その言葉を、娘は知らない。

 男は、娘の困惑を悟ったのか、立ち上がりながら低い声で言葉を続ける。

「嵐を自在に操る、永遠にも近い命と高い知恵を持つ獣だ。本来は、東の果て、雲よりも高い山の上、竜の砦と呼ばれる場所に生きる獣だが、そのうちのいくらかは、時々人間の住む領域に姿を現す。そして、長らく人間の敵として君臨し続けてんだ」

 人間の、敵。

 娘は、その言葉を自然と繰り返していた。意味もわからぬまま。

「奴らは、本来飯なんてなくても生きていける。だが、一部の竜は『遊び』として人間を狩り、喰らうことで味を占めちまう。矮小な人間が、必死に生き延びようとする姿に舌鼓を打つ、悪趣味な連中さ。外の奴も、そんな馬鹿の一匹だ」

 男の視線は、娘から、洞穴の外で嵐を纏う獣に移っていた。その視線は鋭く、男自身をも獣のように見せていた。

「奴は『人間が自分に跪くところを見たい』とか、その程度のどうでもいい理由で貢ぎもんを求めてんだろ。人を生贄に捧げさせてんのだって、本来同胞である人間を、人間の手で差し出させるのを楽しんでるだけだ」

 百年に一度、と定めているのも、口約束だけにすぎない『契約』に大人しく従う人間をあざ笑うためだろう、と男は言葉を重ねる。

 一つ、また一つ。娘の中に築かれていたはずのものが崩されていく。神様とは何か。百年に一度の嵐の理由。供物として選ばれること。生まれてからずっと信じてきた何もかも、何もかもが、嘘だったというのか。

 違う、そんなわけはない!

 娘はきっと男を睨みつけ、わななく唇を一度引き締めてから、声を上げる。

「そんなの、嘘! 神様は神様だよ。そんな、化け物なんかじゃ……。どうして、どうしてあなたにそんなことがわかるの!」

 娘の叫びに、男はほんの少しだけ、唇の端を歪めて。

「俺も、そうだったから」

 そう、言い切った。

 言葉を失った娘に対して、男は、いたって穏やかな声で続ける。

「俺様が昔住んでた村も、ここと同じだった。村を守る竜に、定期的に生贄を捧げるのが当たり前だと思っていた。だが」

 娘は口をつぐんだまま、瞬き一つで男の話を促した。男はちいさく頷きを返して、言葉を続けてゆく。

「そいつは俺様がガキん頃、突然本性を表して、人間の馬鹿さ加減をあざ笑いながら、激しい嵐を連れて村を襲った。俺の目の前で、何人も食い殺された。近所の力自慢のおっさんも、秘密基地で一緒に遊んでたダチも、心配するなって笑いかけてくれたお袋も。唯一、竜の真意を疑ってかかっていた親父だけが、伝承に残る竜殺しの術で抵抗したが……、結局のところ返り討ちだ」

 外でごうごうと鳴る嵐の音すらも、優しく包み込む声。声の調子に似合わない凄惨な過去の情景を、娘は正しく想像することはできない。できないけれど、もし、男の話が正しければ、この町もいつかは神の気まぐれで滅ぼされるということくらいは、わかる。

 加えてもう一つ、不思議に思うことがある。

「なら、どうしてあなたは生きているの?」

「親父が庇ってくれたからさ。お前だけは逃げろって。逃げて、竜の脅威を広めろってさ。だから、今も生きている」

 生きている。

 言葉の通り、男は、確かにそこにいる。よく見れば、紋様に覆い隠された左の額から頬にかけて、深い傷痕が見て取れる。下手をすれば男の命を奪っていただろう、傷痕。

 それでも、男は、生きている。

「生きて、お嬢さんみたいな目に遭う奴を、一人でも減らすために旅をしている」

 娘は何も知らない。竜のことも、目の前に立つ男のことも。娘は神のために生きて死ぬ、ただそのためだけにあったから。

 恐れなどない。恐れる理由など、何もない。

 そんなもの、ない、はずだったのに。

「なあ、お嬢さん」

 男は、娘に向かって、あくまで穏やかながら、真摯な声音で語りかけてくる。

「このまま、お嬢さんが生贄の役目を果たそうってんなら、俺様はすぐにここを出て行く。この町の、お嬢さんのやり方を否定できる理由もねえからな。だが、もしも、俺様の話を信じてくれるなら」

 赤い瞳が映しこむ娘は――何故だろう、今にも、泣き出しそうな顔をしていて。

「俺様は、お嬢さんを死なせない。神様気取りの化け物に、町を滅ぼさせたりしない」

 くしゃり、と。男の、大きく温かな手が、娘の頭を撫でたその瞬間。娘の中で、何かがふつりと切れた感触と共に。

「死にたくない。死にたく、ないよ……!」

 声が、飛び出していた。

 娘の目には、いつしか涙が溢れていた。何故、涙が出るのかも、それどころか目から溢れるこれが「涙」であることも知らなかった娘だ。胸の中に燃え上がる熱いものの名前も知らず、ただ、思いのままに、声を上げる。

 死ぬことなど、怖くはなかった。男の言葉を聞くまでは。しかし、娘は今、この瞬間に、恐怖を知ってしまった。一度知ってしまったものを、知らなかったことにはできない。

 何よりも、男の言葉を嘘とは思えなかった。

 見たこともない、聞いたこともない、何者かもわからない男の言葉を信じるなど、どうかしていると、理性が囁く。それでも、娘は男を信じたいと願った。それは、娘の初めての願いでもあった。

 男は、娘を「生贄」としてではなく、ただ一人の「娘」として――対等な人間として扱ってくれた、初めての人間だったから。

 だから、娘は、一人の人間として、己の胸が訴える望みをぶつける。

「お願いします。わたしと、この町を、助けて!」

 にぃ、と。白い歯を剥いた男が、楽しげに笑う。酷く無邪気な笑顔で。

「確かに、その願い、聞き届けた」

 男は羽織っていた外套を脱ぎ捨てると、娘に投げてよこした。雨の匂いを纏ったそれは、見た目よりもずっと軽い。

「それ、やるよ。嵐を避ける竜の鱗だ。雨避けにはちょうどいい」

 上半身を晒した男は、祭壇の上に供えられた果物を一つ手に取り、大きく口を開いて食らいつく。果汁が口の周りを汚すのも構わず、種や芯すらもごりごりと噛み砕いて飲みこむ。

 娘が自分の体より大きな外套を羽織る間に、男は驚くほどの食欲で果物と燻製肉をいくつか胃の中に収めると、「よし、準備万端」と口の周りを拭って、娘を振り返る。

「折角だ。お嬢さんも、一緒に来るか?」

「え?」

「あの馬鹿に文句の一つや二つ、言いたいんじゃねえの?」

 確かに、この町の神として君臨していたものの姿を、ひと目、はっきりと見たいとは思った。もし目の前にしたら、何か言いたくなることもあるかもしれない、と思った。

 けれど、行っても、よいのだろうか。足手まといでは、ないのだろうか。

 そんな娘の躊躇いを、男の緋色の目は見抜いていたに違いない。大きく、骨ばった右手を、娘の前に差し出す。

「大丈夫。今の俺様は最強だからな。あの馬鹿には指一つ触れさせねえって、約束する」

 この、何もかもを吹き飛ばさんとする嵐の只中で、男の笑顔はまるで、澄み渡った青空のように晴れやかで。

 娘は、恐る恐る、けれどしっかりと、男の右手を握り締めた。男は、にぃと笑みを深めて、娘の体を軽々と抱き上げる。

「よっしゃ、行くぜ!」

 高らかに声を上げると、男は洞の入り口を蹴って、嵐の中に跳んだ。

「ひっ」

 娘の喉から、悲鳴にもならない声が漏れ、ぎゅっと目を閉じる。

 ほとんど祭壇の洞から出ることのない娘でも、この洞の外には、頼りない階段が幹に沿って築かれていることくらいは、知っている。当然、それ以外にこの洞の入り口に繋がる道はないことも。

 つまり、男は、娘を抱きかかえたまま、足場のない空中に向かって飛び出したのだ。

 いくらこの町が無数の枝を持つ大樹とはいえ、大樹の最も高い位置にある洞から落下して、無事枝に受け止めてもらえるとも限らない。この嵐の中では尚更だ。

 ――しかし、娘の恐れた、落下の感覚は訪れることなく。

 ばさり、と。耳元で何かが広がる音色と共に、落下どころか上昇する気配。しかも、不思議なことに、娘の体に雨が降りかかる様子はない。

 固く閉じていた目を開くと、嵐に揺れる大樹の町は遥か下にあった。

「わ、あ……! 飛んでる!」

 そう、男は飛んでいた。いつの間にか、その背中には、一対の真っ赤な翼が生えていた。骨を覆う皮膜で形作られた翼は、男が見据える嵐の中心、雲間に見え隠れする鈍色の鱗の獣が持つ翼と、形だけはよく似ていた。

 男が一つ羽ばたくと、そのたびに巻き起こる風が雨を遠ざける。どうやら、翼には風を操る力があるようだ。

 ぐん、と加速をかけて、男は娘を抱えたまま竜に迫る。徐々に、雨や雲に隠されていた竜の姿がはっきりとしてくる。捩れた四本の角、突き出た無数の牙を持つ顎、ごつごつとした四本の脚、そして刺を生やした尻尾。伝承の通りの『神』の姿が、そこにあった。

「おい、神様気取りのクソ野郎! 手前のご馳走は俺様が預かった!」

 ごうごうと鳴り続ける嵐すらも貫いて響く、男の声。それに応えたのは、娘の頭の中に直接鳴り響く、音ではない「声」。

『貴様か、我らに歯向かう、愚かな人間は』

 獣の唸り声のようにも聞こえるそれは、おそらく、目の前に立ちはだかる鈍色の竜のもの。その証拠に、男は、獰猛な笑みを浮かべて竜に返す。

「おうよ! 俺様も随分有名になったってこったな、嬉しいぜ」

 周囲の大気が唸りを増す。娘にもはっきりと伝わってくるそれは――目の前に立ちはだかる獣の、激しい「怒り」。

『その翼、その体……、我が同胞をどれだけ喰らってきた』

「さあなあ? 俺様、馬鹿だから覚えてねえや」

 挑発的に言い放ち、男は左の拳を突き出す。

「ま、化け物を殺すのは化け物の力ってこった。死んでもらうぜ、クソ野郎」

『ふん、もう少し人間相手の茶番を続けてやろうと思っていたが、貴様に嗅ぎ付けられた以上、場所を変えるしかなさそうだな』

 茶番。かつて大樹神を名乗っていた存在は、生贄たる娘の前でそう言い切って。

『全てを、喰らい尽くしてから』

 無数の牙に覆われた口を薄く開いて、嗤う。

 娘は、背筋を駆け抜ける怖気に身を震わせる。自分は、こんな化け物に、喰らわれようとしていたのだ。それを自覚した途端、今までとは比べ物にならないくらいの恐怖が、娘の身を抱きすくめようとして――。

「させねえよ」

 優しく、けれど強く抱きとめる腕の感触を思い出して、我に返る。

 男は、低く呟いて、空気を蹴った。風を纏い、竜に向かって一直線に空を滑っていく。だが、それを見た竜が大きく口を開き、大きく息を吸い込んで。

「頭ぁ、引っ込めとけ!」

 男の指示に従って、頭巾を被った頭を縮ませた瞬間、強烈な衝撃波が襲い掛かってきて、男の体が大きく吹き飛ばされる。ただ、衝撃そのものは男の腕と、纏った外套のお陰だろうか、娘が衝撃を受け止めることはなかった。

「悪い、ちょっと揺れたな。大丈夫か?」

 うん、と。娘は男の腕の中で頷く。頷いて、顔を上げると……、男の左腕から、真っ赤な血が滴っていた。

「あなたこそ、大丈夫? 血が……」

 今の衝撃を受け止めた反動だろうか。その瞬間を見ていない娘にはわからないが、その血の赤さに、怪我をしたわけでもない娘の方がその痛みを想像して、眉を寄せる。

 だが、男は「ははは」と愉快そうに笑って、娘の顔を覗き込む。

「こんなの、唾つけときゃ治る」

 男は全く意にも介した様子はなく、指先にまで流れていた血をひと舐めして、翼を翻して方向転換する。

「ちょーっと加速するぜ。きちんと口閉じてろ、舌噛むんじゃねえぞ」

 娘は言われたとおり、しっかりと口を閉ざす。それを確かめて満足げに頷いた男は、風を纏う翼を、大きく羽ばたかせる。

 全身にかかる、強烈な負荷。それでも、娘は声一つ上げずに耐える。何故か、男は竜のいる方向から遠ざかるように飛んでいく。視界の端に映るのは、男よりも速度を上げて追いすがってくる竜。

『逃げる気か?』

「まさか」

 竜がこちらを追いかけてきているのを確認した男は、分厚い雲の中に飛び込む。あちこちに走る雷に、娘は身を竦ませるけれど、雷が娘の体を貫くことはなかった。どうやら、男が着せてくれた鱗の外套には、雨や風だけでなく、雷をも遠ざける力があるようだ。

 次々に、雲から雲へと渡ることで、竜の目を眩ませようというのか。けれど、それにも限界がある。竜の方が速い以上、必ず竜が男の姿を捉える時が来る。

『くっ……、ちょこまかと!』

 苛立ちの声と共に、竜は口を開く。

 男の影が映りこんだ、雲に向けて。

 次の瞬間、強烈な音を立てて衝撃波が放たれた。目には見えない空気の波が、黒雲を跡形もなく消し飛ばし――。

「ははっ、どっちに撃ってんだ?」

 高らかな男の声は、竜の背中にかけられる。

 そう、男は、竜が衝撃波を繰り出したのとは全く違う方向にいた。雷が生み出した影が、別の雲に男の姿を映したことで、男の位置を錯覚させたのだ。己の失態に気づき、竜が慌てて首を廻らせようとするも、その時には男は既に竜の背中に降り立っていた。

「捉えたぜ!」

 男は左の拳を握り締める。すると、男の左半身に刻まれていた紋様が、赤く燃え上がるような煌きを発する。娘の肌に触れた光は、優しい温もりに満ちている。

「貫けええええっ!」

 気迫の声と共に、拳を叩き込む。男の拳は、竜の巨体に比してあまりにも小さく、その鱗一枚に傷を穿つことも難しそうに見えた。だが、男の半身に纏われた赤い光は、拳を中心に太く鋭い槍となって、竜の背中から胴体までを、一直線に刺し貫いていた。

 竜の口から、苦悶の声が漏れ、澱んだ色の目が見開かれる。そして、激しく身をよじって、男の体を空中に弾き飛ばす。

「きゃっ」

「おっと、意外としぶてえな」

 娘の体を抱きなおしながら、男は背中の翼を上手く使って勢いを殺す。だが、その時には、竜の顎は目前にまで迫っていた。鋼の輝きを宿す無数の牙が、娘の眼前に晒される。

『せめて、生贄もろとも喰らって――』

「悪ぃな、指一本触れさせねえって、約束したんだ」

 不敵な笑みを浮かべる男は、迫る顎から目を逸らさないまま、ぎりぎりのところで翼の向きを変え、急降下する。勢いづいた竜の巨体は、男の突然の動作に対応できず、虚空を噛み付いて。

 その直後、顎の下に潜り込んだ男の左腕が、否、左の半身にびっしりと刻まれた紋様がもう一度、真紅に煌いた。激しくも不思議と娘には温かく感じられる、奇跡の光。

「手前は、これでも喰らっとけよ!」

 握り締められた真紅の拳が、竜の顎を砕き割る。きらきらと輝く鋼の牙が空中に舞い、そのうちの一つが娘の手の中に落ちる。竜は、風の音にも似た悲鳴を上げて体勢を崩し、がくんと頭を落とす。

 男は、もう一発、止めとばかりにその眉間に拳を突きこむ。紅の輝きが竜の頭を貫通し、今度こそ、墜落を始める。男を呪う、強烈な断末魔の尾を引きながら。

 けれど、それも一瞬のことで。竜の思念が途絶えると同時に、大樹の枝を折る激しい音と共に、鈍色の巨体は地面に打ち付けられ、二度と動かなくなった。

 娘は、唯一、手の中に残された竜の欠片を掌でそっと握り締めて。

「さよなら、神様」

 ちいさく、囁くように、言葉を落とす。

 嵐はいつの間にか止んでいて、今まで広がっていた鈍色の雲も、夢か幻であったかのように消え去っていた。

 頭上に広がるのは、雲一つない空。嵐の到来以来、二度とこの目で見ることはないだろうと思っていた、青空。

 そんな晴れやかな空を背景に、竜の翼を持つ竜殺しの男は、日に焼けた精悍な顔を子供っぽい笑顔で彩る。真っ赤な輝きを灯していた左半身は、既に単なる紋様に戻っていた。

「さて、と」

 大樹のてっぺんに降り立った男は、同じく枝の上に立った娘に向き直る。

「俺様はもう行くけど、これから、お嬢さんはどうすんだ?」

 眼下は大騒ぎだ。町を守る神が殺されたのだから当然だ。男がこの町に残ることはできない。事情を知らない大樹の町の住民は、男を「神を殺した罪人」として糾弾するだろう。

 そして、それは、町にとっての「生贄」であった娘にとっても、同じこと。神を騙った獣が死んだ以上、娘の居場所も、この町にはないのだと気づく。

 けれど、娘は生きている。娘の命を奪う運命だった、牙の欠片をその手に握ったまま。

 だから。

 運命の残骸を強く握り締めて。

 逃れられなかったはずの運命を、拳一つで壊した男を見上げて。

 その、温かな色の瞳に映る自分が、満面の笑みを浮かべていることを確かめて――。


「あなたと、一緒に行きたい」


  *   *   *


「大樹の町がその後どうなったのか? 竜殺しと生贄だった娘がその後どうなったのか? 何故、竜の牙だけが残されたのか? そんなの俺の知ったことじゃあない。

 だが、旅をしていりゃ、時々面白い話を耳にする。目前まで迫っていた嵐が、ふっと、影も形もなく消えてしまう話さ。

 だから、そんな話を聞いたときには、俺は必ずこう答えるのさ。


 ――そりゃあ、竜殺しが悪い竜を仕留めたのさ、ってな」

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