夕星☆えとらんぜ

 チャイムが鳴って、放課後が始まった瞬間、彼を追って教室を飛び出す。

 廊下の人混みの中でもすぐにわかる。人目をひかずにはいられない美青年。輝くような、という形容詞は、きっと彼のためにある。

 加賀瀬修。

 出席番号十番、生物部。文武両道超絶美形、更に言うなら人格者。学内の誰もがその名を知る、完璧超人。

 彼を追って昇降口から出ると、外は暗くなり始めていて、一番星がほとんど隠れてしまった太陽に寄り添っているのが見えた。

 思ったとおり、加賀瀬くんは中庭のビオトープに入っていく。枯れた草木に満ちたその場所は、彼のお気に入りだ。

 少し待っていると、後輩らしき女の子が息を切らせて走ってきた。木立の後ろに隠れる私には気づかない様子で、ビオトープの奥に立つ加賀瀬くんに手を振る。

「加賀瀬先輩、お待たせしてすみません」

「全然、待ってないよ。用って何かな」

「先輩、あたし、先輩のこと」

 頬を真っ赤にして加賀瀬くんを見上げる女の子を見ていると、私までドキドキしてくる。加賀瀬くんは、そんな女の子に笑いかけ、ゆっくりと顔を寄せて……。

「好き」

 本当に、女の子がそう言ったかどうかは、わからない。

 女の子が口を開いた瞬間、加賀瀬くんが、自分の唇を女の子の唇に押し付けていたから。

 相思相愛の、キス。何も知らなければ、私もそう思ってたはず。

 でも、その間、加賀瀬くんの喉は何かを飲みこむように動き、顔を離せば、唇の端に金色の火がちらちら揺れる。

 そう、それは確かに「火」に見えた。

 加賀瀬くんは、真っ赤な舌でぺろりと火をなめ取り、味を確かめるように口を動かす。

 その間、女の子はねじの切れた人形みたいで、頬の赤みも、いつの間にかすっかり消えていた。

 満足げにうなずいた加賀瀬くんは、女の子の肩をぽんとたたく。すると、女の子は目をぱちくりさせて加賀瀬くんを見上げた。

「あれ、加賀瀬、先輩?」

 女の子は、今、加賀瀬くんがそこにいたことに気づいたみたいに、首を傾げる。加賀瀬くんは、とびっきりの微笑みを女の子に向けた。

「やあ。どうしたの、こんなところで」

「えっと……」

「見学? この季節は華やかさには欠けるけど、冬を越すための生き物の工夫が面白いよ」

 どこかずれたことを言いながら、加賀瀬くんは女の子から、立ち並ぶ木の一つに視線を移して、明るい声で言う。

「真っ暗になる前に帰りなよ」

 はい、と答えた女の子は、首を捻りながらも、加賀瀬くんを振り返ることすらしないで、校門の方へ歩いていってしまった。

 きっと、あの子はもう、加賀瀬くんに恋していたことを忘れてる。

 今まで、加賀瀬くんに告白を試みた子たちと、同じように。

 加賀瀬くんは、女の子を見送ることもせずにビオトープの草木を見渡して、突然、こっちを振り向いた。切れ長の目が、私の目とばっちり合ってしまう。

 私は、慌てて駆け出した。加賀瀬くん、私が見ていたことに絶対に気づいた。まずい。

 ばくばく鳴る心音が、耳元で聞こえる気がする。校門を出たところで加賀瀬くんが追ってきていないことを確かめて、ほっ、と息をついた。

 ごめん、加賀瀬くん。

 でも、どうしても、知りたいの。加賀瀬くんがキスをする理由。あの金色の火の正体。

 振り向いても加賀瀬くんの姿は見えなくて、ただ、暮れゆく空に輝く星がまぶしかった。


 

 初めて加賀瀬くんのキスを目撃したのは、ただの偶然。

 生物部の友達を探して、ビオトープに足を踏み入れて。そこで、友達が加賀瀬くんと向き合っているところを見つけた。

 元々、友達が加賀瀬くんのことを好きなのは知ってた。加賀瀬くんに告白したいってその子が言った時には、頑張ってねって応援した。

 でも、のぞき見したかったわけじゃない。見かけてしまったのは、本当に偶然。

 加賀瀬くんは、いつもの爽やかな笑顔を友達に向けていて、とってもいい雰囲気だったと思う。だけど、加賀瀬くんが友達の顎に触れて、深いキスをした瞬間、目が離せなくなった。

 息継ぎをするように、一瞬顔を離した友達の唇から、金色の火が漏れて。その金色のものを、加賀瀬くんが長い舌でなめ取って、飲みこむ。

 これが、キス?

 だけど、加賀瀬くんの顔に浮かぶのは友達が加賀瀬くんに向けていたような、熱っぽい感情じゃない。金色の火に照らされた顔は、さながら、おいしい食べ物を前にした子供。

 私は、いけないものを見てしまった気がして、慌ててその場から逃げ出した。

 それでも、どうしても気になって、翌日、友達に聞いてみた。昨日、加賀瀬くんと一緒ではなかったか、と。

 そうしたら、友達はなんにも覚えていなかった。ビオトープで加賀瀬くんと会ってたことも、加賀瀬くんと何をしていたのかも、全部。

 それどころか、信じられない言葉を聞いてしまった。

「どうして、加賀瀬と一緒にいると思ったの?」

「えっ、この前、加賀瀬くんに告白するって」

「聞き間違いじゃない? 加賀瀬っていい奴だけど、彼氏って感じじゃないよ」

 その時ほど、自分の耳を疑ったことはなかった。

 あんなに加賀瀬くんのことを見つめてたのに。加賀瀬くんと一緒の部活でうれしいって、話していたのに。髪にかわいいヘアピンを飾るようになったのだって、加賀瀬くんのためだったはず。

 なのに、どうして、忘れちゃったんだろう。

 加賀瀬くんは、一体、友達に何をしたのだろう。


 

 その日から、私は加賀瀬くんを見張ることにした。

 何度か、加賀瀬くんが女の子と一緒にいるところを目撃したけれど、その時も同じ。加賀瀬くんが女の子にキスをして、金色の火を飲みこんで。翌日には、キスされた女の子は、加賀瀬くんへの思いを忘れてしまう。

 でも、わかったことはそれだけ。加賀瀬くんがキスをする理由も、金色の火が何なのかも、わからないまま。

 そうやって観察していることは、加賀瀬くんには内緒だったけど、友達の間ではバレバレだった。そんなに見つめて、加賀瀬くんに気があるんじゃないかってからかわれたけど、そうじゃない。

 納得できなかった。加賀瀬くんが好き、って気持ちを記憶ごと失うなんて、どう考えたって納得できない。

 本当は、直接聞くのが一番だってことはわかってた。だけど、人目を避けてキスする二人のことを、どうして加賀瀬くんに聞けるだろう。

 もう一歩踏み込むだけの勇気が足らないまま、私は、のぞきの毎日を送るしかなかった。


 

 翌日、加賀瀬くんの周りに女の子はいなかった。

 私は、本を読むふりをしながら、他の男子と話している加賀瀬くんを横目で窺う。加賀瀬くんは、もちろん、爽やかな微笑みを絶やさない。

 放課後のチャイムが鳴って、一人、また一人と人が減っていって。気づいたら、教室には、加賀瀬くんと私だけが取り残されていた。

 人もいなくなった教室で本を読んでいるのも不自然すぎる。仕方なく、机の横にかけた鞄を持って立ち上がったところで、突然、声をかけられた。

「ねえ、森さん」

「は、はい?」

 いつの間にか、加賀瀬くんは私の隣に立っていた。加賀瀬くんごしに広がる窓の外の風景は、昨日と同じ色の空と、きらめく一番星。

「昨日の放課後、見てたよね。ビオトープで」

 心臓が跳ねる。やっぱり、見られてたんだ。

「ご、ごめん。のぞき見なんて失礼だと思ったけど、つい気になって」

「昨日だけじゃない。森さん、ずっと、僕のこと見てたよね」

 ―気づかれてる。

 汗が背中に流れる。教室は、こんなに冷え込んでいるのに。

「どうして?」

 加賀瀬くんの目が、きらり、ときらめいた。女の子の唇から漏れる火と同じ色で。

 その時初めて、加賀瀬くんが「怖い」と思った。だって、顔は笑ってるのに、目が、人とは明らかに違う金色の目が、刺すように私を見つめていたから。

 怖くなって、鞄を抱きしめて逃げ出そうとした。でも、私が動く前に、加賀瀬くんは壁に手をついて、私の動きを縫い止める。私は、壁に背中をつけて、更に近づいた加賀瀬くんの顔を、見つめることしかできない。

「ねえ、どうして?」

 こうなったら、もうどうにでもなれ、という思いで口を開く。

「どうして、って言いたいのは、こっちだよ」

 一度腹を決めてしまえば、言葉が、自然と唇からあふれてくる。

「のぞき見していたのはごめん。でも、どうしても気になっちゃうの。加賀瀬くんは何者なの? 女の子たちに何をしてるの? あのキスはどういうこと? 口から出る金色の火は何で、どうして大切なことを忘れちゃうの?」

 そこまで言って、加賀瀬くんをうかがう。

「それを知られちゃ生かしてはおけない」なんて言い出したらどうしよう、と不安を募らせていると、加賀瀬くんは、悪魔じみた表情から一転して、目を真ん丸くした。

「それだけ?」

「は?」

「てっきり、君も僕のことが好きなのかと思ったんだけど。なんだ、違うんだ」

 私が、加賀瀬くんのことを?

 そうやってからかわれていたのは事実だけど、まさか、加賀瀬くん当人もそう思っていたとは。加賀瀬くんには悪いけれど、ここはきちんと断っておかなきゃならない。

「それはないよ。私、おじさま好みだし」

「失礼。でも、それなら当然、気になるよね」

 加賀瀬くんは壁についていた手を引き、くすりと笑う。

「森さんが見たとおり、僕は、君と同じ人間じゃないんだ」

「人間じゃ……、ない?」

 加賀瀬くんが普通じゃないのはわかってたけど、まさか「人間じゃない」とは思わなくて、ぽかんとしてしまう。

 加賀瀬くんは、私の途惑いを力強いうなずきで受け止める。

「僕は、あの星から来た」

 窓を振り返った加賀瀬くんが、空と町並みの狭間に輝くそれを指差す。

 宵の明星。金星。

 地球から一番近くを巡る惑星、全天のどの星よりも強く輝く、金色の星。

「人の住める星じゃないって聞いたけど」

「君たちのような人間ばかりが『人』じゃないってことさ」

 加賀瀬くんは、いたずらっぽく笑う。それは、一度も見たことのない表情だった。

「僕は、お隣さんのことをもっとよく知るために、地球人に擬態してる調査隊員なんだ。ただ、体のつくりが君たちと違うから、食べるものも違う。普段は一緒のものを食べてるけど、主食はあくまで人の心でね」

「心が主食って、どういうこと?」

 まず、人の心臓を引き抜く加賀瀬くんが脳裏に浮かんだけど、加賀瀬くんにもそれがわかったのか「言い方が悪かったかな」と苦笑する。

「人が抱く強い思い、心が生む力を食べてる、って言うべきかもしれない」

 その言葉でひらめいたのは、加賀瀬くんが女の子の唇からなめ取った、金色の火。

「それが、あの、金色の?」

「うん。この星には僕たちの主食と同じものは存在しない。一番近いのが、地球人の心の力なんだ。心をいっぱいに占める思いであるほど、おいしいし元気も出る」

 加賀瀬くんは、味を思い出したのか、唇をぺろりと舐める。その舌の赤さにどきりとしながらも、長らく疑問だったことを尋ねてみる。

「でも、食べると、なくなっちゃうんだよね?」

「もちろん。だから、不自然にならない程度に記憶をいじるんだ」

 加賀瀬くんは、ぼう然とする私の顔を覗き込んで、「そうそう」とにっこりする。

「この見た目も、おいしいものを効率よく摂取するために、地球人好みに調整したんだ。僕は地球人の美的感覚がわからないんだけど、上手くできてるよね?」

 それには、いくらなんでもショックを隠せなかった。まさかみんなの憧れの完璧超人が、作られたものだったなんて。自然と頭の中に浮かんでくるのは、疑似餌を駆使する深海魚。

「なんというチョウチンアンコウ……」

「そう、それ! チョウチンアンコウ!」

 私の思いつきの何が面白かったのか。どんな時でも爽やかな微笑みを崩さなかった加賀瀬くんが、突然げらげら笑い出したものだから、びっくりしてしまう。

 でも、確かに今、加賀瀬くんは子供みたいに笑っていて、まばゆく燃える故郷を背に、大きく腕を広げる。

「地球は面白いものがいっぱいあるよね! 僕の故郷は殺風景な場所でね、こんなにたくさんの生き物が、様々な生き方で生きてるなんて、物語の世界だけだと思ってた」

 その目の中にも、きらきら燃える明星。

「だから、調査隊に選ばれた時には、本当にうれしかった。知らない世界をこの目で見て、肌で感じられるんだって」

 どうしてだろう。

 冗談みたいなことを言ってるのに、私、加賀瀬くんの言葉が嘘だなんて思えなかった。

 だって。

「加賀瀬くんは、本当に、この星が好きなんだね」

「もちろん!」

 そう言った加賀瀬くんは、喜びでいっぱいの笑顔だったから。そんな顔されたら、嘘だなんて思えないよ。

「っと、しゃべりすぎちゃったな」

 きらり、と輝く瞳が私に向けられる。もしかして、私も記憶を消されちゃうのか。背筋を強張らせて加賀瀬くんを見上げると、加賀瀬くんは、ゆがめた唇の前に指を立てる。

「森さん、今日のことは内緒ね」

「うん。絶対、誰にもしゃべらないよ」

「よかった」

 言って胸をなで下ろす加賀瀬くんの鼻先に、びしっと指を突きつける。

「でも、女の子の気持ちをただの『食事』として扱うのは、気に入らない」

「え?」

「君を好きだって思いは、きちんと受け止めてあげないと、かわいそうだよ」

「かわいそう?」

 加賀瀬くんは首を傾げた。もしかすると、金星人は、地球人とは心に対する考え方も違うのか。そんな加賀瀬くんに上手く伝わるかはわからないけど、それでも。

「君が言う心の力は、大切に、大切に、胸の中で育ててきたもので、そう簡単に飲みこんでいいものじゃない。少しでいいから、受けとめてあげてよ」

 私は、恋がよくわからない。

 だけど、加賀瀬くんを好きだった友達が、一つ一つ、加賀瀬くんに近づけるように努力してきたのは知ってるから。その思いが既に加賀瀬くんのおなかの中に消えていたとしても、言わずにはいられなかった。

 加賀瀬くんは、私がつきつけた指先を見つめて、二、三回瞬きをして、やがて重々しく頷いた。

「わかった。食べることはやめられないけど、考えてみるよ」

「うん、地球人理解の一歩だと思ってさ」

「地球人理解! それなら頑張らなきゃな。ありがと、森さん」

 感謝の言葉と共に、加賀瀬くんが私の額にキスしたのだと気づいたのは、加賀瀬くんの顔が離れてからだった。

「それじゃあ、また明日」

「また、明日……」

 いつもの、爽やかな微笑みに戻った加賀瀬くんの言葉をオウム返しにして、そのまま去っていく彼を見送ってしまう。

 ふと我に返ってみれば、おかしな話だった。加賀瀬くんが金星人で、人の心のエネルギーを食べてるなんて、信じる方が馬鹿みたいだ。

 でも、なんでだろう。加賀瀬くんの無邪気な笑顔を思い出すと、体が熱くなってくる。

 空に引っかかって光る金色の星を見つめて、唇の跡を、指でそっとなぞる。


 ……この胸のドキドキは、何?

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