いまどきのファウスト博士

 ある日、うちに帰ると一匹の黒い犬がいた。

 そいつはどこぞの有名な悪魔の名前を名乗り、今日から私の下僕となってどんな望みでも叶えてやると言い出した。

 もちろん、悪魔なのだからただ都合よく願いを叶えてくれるってわけじゃない。私が満足したその時には、私の魂を地獄に連れて行って自分の下僕にするとか、何とか。

 とりあえず、喋る犬が珍しかったのと、悪魔の申し出が面白かったこともあり、私は悪魔の提案を呑むことにした。

 これを友人に話したところ、夢でも見ているんじゃないのか、と私の正気を疑って笑ったが、元より私がまともでないことも重々承知の友人だ。愉快そうに笑いながら「ま、お前なら地獄でも案外飄々とやってくかもな」と言っていたことを思い出す。

 こうして、今日も悪魔は台所に立って器用な手つきでジャガイモを剥いている。どうやら今日のご飯はカレーらしい。近くのスーパーの袋からはカレールーが覗き、いくつかの野菜、それに隠し味になるのだろう林檎が机の上に転がっていた。

「……おそようさん」

 悪魔は起きてきた私に挨拶を投げかけた。ものすごく不機嫌そうなツラだ。人の姿をしている時は綺麗な顔なのにもったいない、とまだぼんやりとする頭で考えながら椅子に座る。

「大学はどうした」

 悪魔は私に背中を向けたまま、ぶすっとした声で言った。私はテーブルの上のパンに手を伸ばしながら、答える。

「自主休講ー」

 頭の中のカレンダーが正しければ今日はゼミの筈だ。が、別段発表があるわけでもなく、しばらくは出なくとも何も言われないだろう。何か聞かれたら「具合悪くて」とでも言っておけばいい。

 思いながら、パンにピーナッツバターをつけてもそもそやっていると、悪魔がこっちを睨んでいた。上手くやれば人一人の心臓を止められるくらいの凶悪な睨みっぷりだが、あいにく私はすっかり見慣れてしまっている。

 そして、次に悪魔が言うであろう言葉も、既に想像はついていた。

「貴様は、何のために大学行ってんだ!」

 一言一句、きっちり予想通り。これもまた、いつもの台詞だ。

 私は黙ってパンをもそもそやる。最後の一枚だったということもあるのだろう、少し硬くてぱさついている。そんな私の反応をどう捉えたのか、悪魔はだん、と包丁を叩き下ろした。ただし、きっちりまな板の上に。哀れジャガイモ一刀両断。

「くそっ、何で、俺様は、貴様みてえな、奴のためにっ」

 言葉を切るのと同じ速度で、だん、だん、だん、と包丁が綺麗にジャガイモを切り刻んでいく。このままみじん切りになりかねない勢いだ。

「……ジャガイモは大きい方が好きなんだけど」

「黙らっしゃい!」

 振り向かずに悪魔は叫んだ。

「ああもう、全部奴のせいだファウストのせいだ、あれがケチの付き始めだったんだ」

 悪魔がぶつぶつと呟き始めるが、その声は大きい。明らかに、私に聞かせるための呟きだ。これで何十回目の愚痴だろうかと思いつつも、一応耳を傾けておいてやる。

「そもそも、俺様は奴との契約を履行した、そして確かに聞いたぞ、『時間よ止まれ、お前は美しい』という言葉を! なのにあの神の野郎、横から奴の魂を掻っ攫っていきやがった! その地点でまず何か間違ってんじゃねえか、そう思わねえか!」

 まあ、それは、確かに私も不思議には思っていた。

 ゲーテの『ファウスト』――私は手塚治虫の漫画でしか知らないが(『ネオ・ファウスト』が未完であることが残念でならない)、元は戯曲だったはずだ。劇場で役者たちが演じるもの、というよりは読み物的なものだったと聞くが、詳しいことはウィキペディアさんにでも聞いた方が間違いない。

 頭でっかちのファウスト博士を地獄に落とせるかどうか賭けをした、変な名前の悪魔と神さん。悪魔は博士と契約して、すったもんだあった末に博士は全てに満足し悪魔に魂を売り渡す言葉を放つ。だが、その魂は横から現れた天使たちによって天上に運ばれていく……といったものだったと思う。

 正直、さっぱり理解出来ない。

 ただ、あれは自分とは違う国の違う時代の話。当然考え方が違ってしかるべきで、故に私は悪魔の言葉に賛成も反対も出来ないでいる。その代わり、今日は前々から疑問に思っていたことを聞いてみる。

「あれはゲーテの作り話じゃないの? 一応モデルはいるって聞いたけど」

 「はっ」と悪魔は彼には珍しく愉快そうに笑った。

「悪魔なんてのはな、お前ら人間の見方一つで見え方が変わるもんさ。ただ、俺様の場合、ゲーテっつう野郎が明確な『俺様』のイメージを人間に植え付けちまった。台本の中に描かれる『俺様』として、劇場で演じられる『俺様』として、な」

「まあた、しち面倒くさいことを言い出した」

「む」

 悪魔は眉を寄せて私を見た。それでも料理する手を止めないのは、あっぱれな悪魔精神という奴だ。

「物分りの悪い奴だな」

「悪かったね、物分りの悪い奴で。ただ、そんなこと言ったら悪魔なんて人の想像の存在でしかない、って意味にならない?」

「卵が先か、鶏が先か。神や悪魔は『実在』するのか。そんな下らんことを考えるのは人間だけってこと。本当に、理性とやらを無駄遣いすることしか知らん連中だ」

 悪魔はそう言い切って、深々と溜息をついた。話を逸らしたつもりだったのだが、彼の言葉は再び愚痴に戻っていく。

「そう、何で俺様がいちいち人間なんぞにへいこらしなきゃならねえんだよ意味わかんねえ。神も神だ、今度はこいつを堕落させるなんてわけわからん賭けを仕掛けてきやがって!」

 びしいっ、と片手にニンジンを持ったままものすごい形相で悪魔は私を指差す。

 私は、テーブルの隅に置かれていた紙パックの野菜ジュースに手を伸ばしたまま固まった。別段、悪魔に恐れをなしたわけじゃない、ピーナッツバターに野菜ジュースは合わないと気づいて手を止めたまでだ。

「欲も無く、向上心も無く、目的も無く、毎日をぐだぐだ過ごしてる奴をどうやってこれ以上堕落させろってんだ! 何だこの無茶振り、これならわがまま三昧のファウストの方がよっぽどマシだ!」

「言われても、なあ。私が堕落させて欲しいって望んだわけじゃなし」

 この悪魔と契約をしたのだって、単に面白そうだったから、というだけであり。それを知らぬ悪魔でもあるまい。

「契約破棄したければすればいいじゃないか。別に私は構わないよ」

 何しろ、この悪魔との契約内容は『私が健康で文化的な最低限度の生活を営めるように家事を全てお任せする』ということだ。ここで悪魔に去られれば、元の冷凍食品とカップ麺に栄養価を全て頼った生活に逆戻りだが、「元に戻るだけ」といえばそれまでの話。

 だが、悪魔は私を睨んだまま、きっぱりはっきりと言い放つ。

「俺様は、諦めねえからな!」

 そんなに強く宣言されるとは思わず、きょとんとする私に対し、悪魔は鼻息荒く言葉を続ける。

「神にコケにされたまま、尻尾を巻けるか! 見てろ、今度は天使も逃げ出すような堕落をもたらしてみせる。もうファウストん時みてえな道化役は真っ平だ!」

「……そりゃまた、とんでもなく難しい目標だねー」

 私が笑うと、悪魔は「他人事じゃねえええええ!」と叫んで足を踏み鳴らす。

「そのためにも、まずは貴様が『更生』しなきゃ話にならん! 貴様が己の理性を有効利用できる『立派な人間』になってから、全力で堕落させてやるから覚悟しろ!」

「はは、精々楽しみにさせてもらうよっと」

 あくまでへらへらしている私に、悪魔は顔を真っ赤にして何か言おうと口をぱくぱくさせたが、やがて「知るか、貴様なんか!」と言って犬の姿に変じて部屋の隅にまで逃げた。まな板の上に、真っ赤なニンジンがころころ転がる。

 とはいえ、機嫌が戻ったらすぐにでもカレーの続きに取り掛かってくれるはずだ。契約に縛られている以上、悪魔は契約を破棄しない限りはその行動を完遂しなくてはならないのだそうで。何とも不便なものだが、彼が好きでやっているのだから私がどうこう言う筋合いも無い。

 それにしても、だ。

 私はニヤニヤ笑いながら、ふん、と私から視線を外して丸まっている黒い犬を見つめる。

 誘惑して人を堕落させるのが目的の悪魔が、私を更生させるなんて、それだけでおかしい。そもそも、こいつと賭けをしたという神さんってのは、本気で私を更生させるつもりなぞないののではないか。

 そうだ、神さんは、こいつをからかっているに違いない。

 人間を創った神さんが人の持つ「ユーモア」を解さぬはずもないし、悪魔のくせにやけに生真面目なこいつのプライドをくすぐる術だって、完全に心得ているに違いない。そして、そんなこいつの煩悶を見て、今の私のようにニヤニヤわらっているのではなかろうか。

 神も仏も信じぬ私だが、こいつの言う神さんって奴は、信仰の対象としての「信じる」でないにしろ、信じてもよいかもしれないとは思う。

 それに――

「メフィストフェレス」

「あん?」

 名を呼ばれた悪魔が、不機嫌そうな声を上げてこちらを向く。黒いふわふわの毛並みに埋まったまん丸の瞳が、こちらをぱちくりと見つめ返す。

「……いーや、何でもないよ」

 なら呼ぶなよ、とふてくされた様子で再び黒い犬は背を向ける。そんなふてくされた姿も、何だか愛らしい。

 だから私は笑う。だって、面白いじゃないか。

 無味無臭の冷凍食品を噛み締めているよりも、周りについていくことも出来ぬままただだらだらとベッドの上に転がっているよりも、ずっと、ずっと。

 舞台の上のファウスト博士には程遠く、決して物語にもならないささやかな日常。けれど、これが今の私と悪魔の毎日で……私は、こんな日々を、確かに楽しんでいる。

 そう、「あれ」はきっと、こんな瞬間に言うべきなのだろう。

 尻尾をぱたぱたさせる悪魔には聞こえないように――聞こえたとしても、きっと「まだ早すぎる」とむきになるだけだろうけれど――ピーナッツバターのついた指をぺろりと舐めて、小さく呟く。


 ――時よ止まれ、お前は美しい。

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