素晴らしきベタな日

 僕は、部室棟のとある扉の前に立ち尽くしていた。扉の前に張られている見慣れた巨大ポスターには、豪快な筆字でこう書かれている。

『H高校王道研究部、愛称ベタ研。王道な人生を君とエンジョイ!』

 活動内容がさっぱり想像つかないのは今更のことだ。実際、ベタ研の実態を完璧に知っている人間なんてベタ研部員以外にはいないはずで、活動内容を知らなくても人生で損はしない。

 しかし僕は紛れもないベタ研の部員であった。認めたくはないが。

「部長、いますか?」

 最近めっきり開きが悪くなった戸をノックする。すると、「はいよ」と野太い声が聞こえて、すぐに甲高い擦れた音を響かせてゆっくりと扉が開く。その少しだけ開いた隙間から、ぬっと顔を出したのは坊主頭のマッチョ男……彼こそがベタ研の部長であり、僕以外の唯一の部員だ。

 部長はどこからどう見ても体育会系だというのに何故かいつも可愛いフレームのオシャレ眼鏡をかけていて、それがとことん似合っていない。

「突っ立ってないで、入れよ」

「失礼します。今日は野球部は?」

「今日は自主練だから問題ない。どうだ、お前はきちんと『活動』にはげんでるか?」

 部長としては微笑みかけてるつもりなのだろうが、僕には人喰い熊が牙を剥いているようにしか見えない。いつ見ても怖い笑顔に後じさりそうになるのを自制し、部長の目……は怖かったから眼鏡のフレームの辺りに視線を彷徨わせる。

「その、『活動』についての話なんスけど」

「おう」

 ああ、本当に。僕は今日の朝の出来事を思い返しながら、もう腹の底から深々と、溜息をつくしかなかった。

「あるんスね、『ベタな出会い』って」


 そもそも。

 僕らベタ研とは、本来その名の通り、漫画や小説やドラマに語られるような「王道」――ベタな展開を実践するというバカ極まりない部活だ。他でもない部員の僕がバカというのだから間違いない。

 何しろ朝は「遅刻寸前の時刻に家を出て、曲がり角でパンを咥えた女の子とぶつかる準備をする」。放課後は「子猫がトラックに轢かれかけていないかをチェック。轢かれかけていたら、命を賭して助けること」。

 これをバカと言わずして、何と言おうか。

 こんな部活を承認している学校も学校だが、名義上の顧問によれば「元々はただの漫画・アニメ研究部だったのだが、今の部長が来てからこうなった」。世も末だと思う。

 だが僕は何故かこのベタ研にいる。その原因はもちろんこの部長にある。忘れもしない、一年前の新入生部活勧誘の日。一年生だった僕は、こともあろうにピンクの眼鏡をかけた熊だか海坊主だかよくわからない人物に捕まってしまった。捕まったその瞬間は、間違いなく運動部の勧誘だと思った。

 だが、海坊主もとい部長は僕をキラキラした瞳――僕には「草食動物を狙う肉食動物の目つき」にしか見えなかったが――で見つめて言い出した。

「フレッシュな新入生クンよ、君は『王道展開』に燃えないか! 草かんむりの『萌え』でもいい!」

「は、はあ?」

「む、君は王道の何たるかを知らないのか。王道展開とは、長らく同じ道を貫きながらもなお人の間で愛され続ける展開のことだ。例えば、某時代劇で必ず四十五分に登場する印籠のように! ガキ大将に苛められた少年に泣きつかれ、ついつい未来の不思議な力を持つ道具を貸し与えてしまう猫型ロボットのように!」

「それは、何となくわかりますが」

「もちろん、それをベタと批判する者が多いことも否定しない。ベタと王道が同じものでないという批判も受け入れよう。しかしベタが必ずしも王道ではないが、王道とは必ずベタなものだ。それを否定はできないはず! そうだろう!」

「ええと、つまりベタな展開から王道が始まる、って言いたいんスか」

「そう! その通りだ! 素晴らしいぞ、君からは王道展開を貫く才能を感じる! そうか、これぞ運命というものかもしれんな……そう、都合のよすぎる『運命の出会い』もベタにして王道のうち」

「あ、あの、俺は」

「よし、今日から君は王道研究会、愛称『ベタ研』の一員だ! 俺と共に充実したベタな高校生活を送り、やがては王道に至るのだ!」

「人の話を聞いてくださーい!」

 と、あれよあれよといううちに、僕はベタ研の一員にされてしまったのである。

 その日から、毎日毎日、不毛だとわかっていながら言われるがままに「部長が考えるベタな展開」を実践してきた。正直、あの海坊主だかトロールだかよくわからない部長に逆らう勇気は、僕にはなかった。

 頭の片隅では「王道」や「ベタ」というのはあくまでフィクションの世界の話であって、漫画やドラマの「王道」が、現実に通用するとは……と思っていたのだが、今日、思わぬ事態が起こってしまった。

 ついに「パンを咥えて『ちこくちこく~』と言いながら走ってきた女の子」に、曲がり角でぶつかってしまったのだ。

 それを聞いた部長は、目を丸くした。そんな漫画のような女の子が実在するとは思ってもいなかったのだろう。存在すると思っていなければ何故そんな活動させるんだと訴えたいところだが、それとこれとは部長の中では別だ。いつものことである。

「その少女は、この学校の生徒だったのか?」

「間違いなく、ウチの制服でして……それで、話はまだ続くんスよ」

 ほう、とパイプ椅子ごとじりじりとこちらに近寄ってくる部長。ただでさえ顔が怖いのだから、それ以上近づかないでもらいたいものだ。僕は煤けた部室の天井の隅っこに視線を移して、ぼそぼそと言う。

「その子、実は二年の転校生で、俺の隣の席なんス」

「な、何だと!」

 部長は立ち上がり様、派手な音を立ててパイプ椅子をひっくり返した。階下の将棋部はきっと迷惑な顔をしているだろう。

「それは至高のベタにして王道『恋愛フラグ』! ついに俺を差し置きその領域に達したというのか!」

「偶然です! 単なる偶然っスよ! フラグとか言わないで下さい!」

 ちなみに、「フラグ」というのは元々はゲーム、特にアドベンチャーゲームに使われていた用語だが、現在は小説とか漫画にもよく使われる一種のスラングだ。僕は一言で言えば「こうすればこうなるという定石」……「お約束」というやつだと認識している。

 例えば「俺、この戦いが終わったら結婚するんだ」と言って戦いに挑む人物は、大体悲惨な運命を辿ることが簡単に想像できる。これが所謂「死亡フラグ」である。類型に「故郷に妻と子供が」とか、「悪役が急にいい奴になる」とかがある。

 もちろん、「お約束」である以上部長はフラグも大好物だ。「死ぬ時には見事な死亡フラグを立てて死にたいものだ」とキラキラした目で語っている姿はすっかり見慣れてしまった。

「それで、君はこのフラグをどうするつもりだ? まさか、ベタ研の精鋭である君がフラグを折るとは言わないだろうな」

 部長はクソ真面目な表情で僕に迫る。ただ、僕は複雑な表情を浮かべることしかできない。何しろ。

「その子……俺の好みじゃないんスよね」

 転校生は確かに可愛いかった。ちっちゃくて、ぽわんとした顔立ちの、どこからどう見ても天然っぽい女の子だ。そういうのが好きな奴にとっては、女神にも等しいのではないかと思う。

 けれど、僕の好みじゃない。僕の理想はすらりとして、ハイヒールが似合う大人のお姉さん。ハイヒールで踏みつけられることを想像するとゾクゾクして……って僕の嗜好は横に置く。

 部長は「む」と小さく唸った後、深い溜息と共に首を横に振った。

「仕方ないな。好みは人それぞれだ、人がどうこう言うことじゃない」

 そういうところは物分かりのよい人で助かった。部長は強面で微妙に人の話を聞かない熱血単純バカだが、聞いてもらえさえすれば主張も通る。とは言っても。

「今こそベタ研の本領を発揮する時だと思ったのだが」

 と、ぶつぶつ呟くのはやめていただきたい。僕はそんな本領、発揮したくない。

「とにかく、そういうことがあったんで報告しました。それじゃ、俺は帰りますよ」

「ああ、俺も帰ろう。途中までは一緒だったな」

 こうして僕と部長は家路に着くことになった。部長と僕が並んでいる姿は、きっと熊と兎ほどの違いがあっただろう。

「しかし、最近は意外性を求める余りに王道の素晴らしさを見失ってしまっている。王道は決して受け入れる人間に対する媚びではない、媚びすらも超越した普遍性、それこそが王道の王道たる所以。ベタもまた然り。ベタを守っていればいつかは王道への道筋が見えるに違いない! 違うか!」

 歩きながら部長は一方的に自らの「王道」論を展開している。これも普段通りのことだったので「はいはいそーですねー」と軽く受け流しつつ、ふと道路の方に視線を向け、

 凍りついた。

 白線の引かれたアスファルトの真ん中に、一人の女の子が無造作に歩みだしていた。この辺ではちょっとばかり人気がある、紺色の襟とスカートを持つ可愛らしいデザインのセーラー服。紛れもない、ウチの学校の生徒だ。

 その後姿は、何処かで見たような……

「って転校生! おい、何やってんだ!」

「何っ!」

 部長の声が背後から聞こえた。背後から、というのも僕が無意識に声を上げてその子に向かって走り出していたからだ。

 道路の真ん中に屈みこんだ転校生は僕の声に気づいたのか、ぱっとこちらを向く。手の中には小さく丸まった子猫がいた。きっとこの子は道路に出てしまった猫を助けようとしていたのだ……ってそれこそ部長の考えるベタ展開そのものじゃないか!

 耳を劈くクラクションにちらりと横を見れば、やっぱりな、マジで来てるよトラック!

「どけ、轢かれるぞ!」

 僕は駆け寄りざま、呆然とした表情の転校生を突き飛ばした。ごめん、と思いながらも命の方が優先だ。僕はアスファルトに倒れこむが、猫を抱きしめたままの転校生が歩道まで転がっていくのが目の端に映った。これで、何とか転校生と猫の命は守られた。

 やばいな、キテるじゃないか僕。今日は凄く真面目に部活動やっている気分だ……って爽やかに現実逃避している場合じゃない。

 立ち上がらなくては、と思ったが足に力が入らなくて愕然とする。どうやら今倒れたことで足を挫いてしまったらしい。運動嫌いで体育をサボっていたツケがこんな所で回ってくるとは。

 急ブレーキの音が響くものの車は急には止まれない、トラックは無常にも僕の元へ真っ直ぐに向かってくる。

 何故飛び出してしまったのか。地面に手をついた姿勢で呆然としてしまう。こんなベタすぎて笑えない展開、僕は望んでなんかいないのに……。

「諦めるな!」

 その瞬間、誰かががっしと僕の肩を支えた。誰かなんてわかりきっている。部長だ。

 このバカ部長、アンタまで来てどうするんだ、一緒に轢かれたいのか! 僕がきっと睨みつけると、部長はあまりにいつも通り過ぎる表情できっぱりはっきり言い切った。

「まだお前も俺も死亡フラグを立てていないのだ、ここで死ぬわけがないだろう!」

 いや、その台詞自体死亡フラグ臭いし!

 人喰い熊のごとき笑顔で部長が歯を輝かせた瞬間。

 僕と部長は思いっきり、トラックに跳ね飛ばされた。

 遠くから転校生の悲鳴が聞こえて、視界には部長のピンクの眼鏡が壊れて飛んでいくのが見える。それだけを理解して、僕の意識は綺麗に吹っ飛んだのであった。


 ――そして、目を覚ませば、病院のベッドの上だった。

 何でも、あの時にはトラックもかなり減速していて、僕も部長も全身を軽く打って掠り傷を負った程度でそれ以上の怪我はなかった。骨折すらしていなかったのだ。本気で死を覚悟しただけに、ちょっと拍子抜けした。

 すると、隣のベッドの部長は、傷の痛みなど知ったことはないとばかりに獰猛に、豪快に笑う。ただ、あのアンバランスな眼鏡がない分、その不気味さは多少和らいではいた。

「何、どんな状況下でも死なないのが王道だろう」

「それはギャグ漫画だけの話でしょうが」

「ははは、その通りだな」

「笑ってる場合スか。これから聴取とか何やら、絶対に面倒臭いスよ。親も色々煩いだろうし」

 僕が指摘すると、部長は熊の笑顔のまま「うっ」と固まってしまった。珍しく、額からはたらーりと汗を垂らしている。

 やっぱりこの人、何も考えていなかったよ。

 部長は坊主頭をがりがりと掻き、本気で眉根を寄せて言う。

「くそっ、現実というのは何とも面倒くさいことだ。漫画やドラマならカットできる場所だろ、そこは!」

「まあ、部長は大人しくしててくださいよ。俺が何とか言い訳しますから」

 部長に喋られるときっと色々こんがらがるばかりだろうし。僕は溜息をつき……でも、そうじゃないと部長じゃないかなとも頭の片隅で思う。

 ベタにして王道な部分以外は目に入らない、僕が知っているのはそういう部長だ。それ以上でも以下でもないし、それ以外である部長は想像することもできない。想像することが嫌なのかもしれない。

「そういえば、あの女の子はどうしました?」

「ああ、掠り傷で済んだそうだ。しかし……」

 眉を寄せていた部長は不意に表情を緩めた。いや、緩めたのではない。僕が新入生勧誘の時に見た「獲物を狙う肉食動物」のような目つきになっただけだ。

「あの少女、見所がある。あの少女は意識的にか無意識にか、俺の理想のベタを体現している。そう、彼女こそ我らベタ研に降臨したベタの女神!」

「あーはいはい、今度はきちんと勧誘してくださいね、俺ン時みたいに強引にはダメっスよ」

 とことん間違った方向にポジティブな部長に、僕はもう一度大げさに溜息をつく。何を言ったところで、こうなってしまった部長には聞こえないのだから問題ないだろう。

 ただ、今のうちに一つだけ部長に聞いておきたいことがあった。僕はあえて声を低くして、部長を呼ぶ。

「部長」

「ん、何だ」

「部長、何であン時俺の所に来たんスか。助けてくれるならともかく、一緒にはねられちゃ世話ないですよ」

「む、すまん、無意識に飛び出していた。だが、お前もそうだろう?」

 言われて、僕はぐっと言いかけていた言葉を飲み込んでしまう。そうだ、転校生が轢かれると思った瞬間に、先に道路に飛び出したのは自分だ。本当にあの時の自分はどうかしていたが……別に後悔していない自分にも気づく。

 助けようって思うのは当然のことだ。やり方はともかくとしても、実現できないとしても。転校生だって死にたくて飛び出したわけじゃない、子猫を助けたかっただけだ。結果的に、所謂ベタな展開になっただけで。

 ……ああ、そうか。

「ベタって、ほんとは普通のことなんスかね」

「今更気づいたのか。ベタは人が『当然こうなるはず』と考える中でも最も理想の展開。だからこそ王道と呼ばれることもあれば、使い古され客観的に色あせることもある。だが、どんなに客観的に色あせていても、理想は理想。それが叶うならば、どれだけ素晴らしい人生か。そうは思わんか?」

 部長は、子供が見たら恐怖で泣き出しそうな顔で笑うが、僕はもう知っている。これが部長なりの精一杯の爽やかな笑顔なのだと。

 ああ、ほんとにバカな奴。漫画みたいな台詞を何の衒いもなく言い放つような奴に、何を言ったところで無駄に決まっているじゃないか。

「ったく、それでこうやって死に掛けてちゃ世話ないスよ」

 けれど、と僕は口の中で小さく呟く。

「ま、怪我しない範囲でなら付き合いますよ、部長」

 別に僕は部長のようにベタで王道な毎日が送りたいわけじゃない。部長と同じことをしていたら、今日のように命がいくつあっても足りない。ただ、この救いようのないバカ部長の行く先には興味があった。

 そんな僕も、やっぱり救いようのないバカなのかもしれない。

「あのぅ」

 僕らが話していると不意に声が聞こえて、僕はそちらに視線をやる。すると、そこには転校生のあの子がちょこんと立っていた。部長は大きく手を広げて歓喜の表情で転校生を迎える。

「おお、我が女神! よく来てくれた、ベタ研の救世主!」

 ――バカ部長、それじゃあ意味不明だ。

 僕は頭を抱えながらも、口元が自然と笑むのを堪え切れなかった。きょとんとする転校生に感極まって涙すら流しだしそうな部長。訝しげな他の患者や看護婦たちの視線なんて、部長には関係ない。

 それでいい、それでこそ部長。

 僕は笑顔で……とりあえず転校生にベタ研の何たるかを説明することにした。説明してわかってもらえるかは、はなはだ怪しかったけれど。

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