作られた明日

 薄もやの掛かったような視界が開けると、そこは見覚えのある場所だった。

 いや、正確に言えば『見覚えはあるが、もう存在しない』場所――つまり、既に取り壊されて跡形もなくなっている筈の、崇が高校を卒業するまで住んでいた実家のある公団住宅の一画であった。

「これは……夢か? それにしちゃリアルだ……ってか、暑い! まるで真夏のようじゃないか!」

 思わず、崇は着ていたコートと上着を脱ぎ、小脇に抱えてハンカチで汗を拭った。とてもではないが、冬服など着ていられる陽気ではない。真上から照り付ける太陽が、ジリジリと彼の地肌を焦がすかのような勢いで襲い掛かって来ているのだ。

 見渡せば、周りを行き交う人たちは皆、半袖のシャツやワンピースといった姿である。長袖の服を着ているのは自分一人だ。


 傍らの道路脇で、鼻歌交じりに洗車している若者が居る。が、その車は崇が高校生の頃に発売され、一世を風靡したスポーツモデルであり、彼にとっては『懐かしい』と称するに相応しい車種であった。

「い、良い車だねぇ?」

「え? あ、分かります!? こないだ、やっと納車されたんですよー!」

 どうやら、中古車をレストアしてピカピカに磨き上げたと云う訳では無さそうだ。正真正銘、彼の手元に届いたばかりの新車だそうだ。若者は、その車を愛おしげに眺めながら、ホースの水でカーシャンプーを洗い流していた。

(この車は、俺が免許を取る前に……そう、まだ高校生だった頃に雑誌で写真を見て……って事は、もしや!?)

 小走りに、記憶を辿って建物の間をすり抜けていく。側面に書かれたアルファベットが、建物の識別表示になっている。崇はその中から『F』の文字を見付けようとしていた。何故なら、そこには……

「……やはり、そうか……」

 ゴクリと生唾を呑み込む。興奮と周囲の気温で、喉がカラカラだったからだ。

 クリーム色に塗装し直されているが、既に地肌の老朽化は隠せない時期に達していた、旧式の集合住宅。その建物を崇は良く知っていた。然もありなん、そこは嘗て自分が住んでいた場所なのだから。


 と、いう事は……と思い、崇は出入り口となる階段まで駆け寄って、壁に据え付けてある郵便受けの表札を見た。すると……

 あった。『湯沢』とマジックペンで書かれた、簡素な表札が。


(仮に、此処が30年前の世界だとするなら……俺は病院に居る筈だ!)

 そう、崇は高校3年の時に肺の病を患い、3か月間に亘って入院生活を送っていたのだ。

 進級して一か月、ゴールデンウィークに差し掛かろうかと云う時期に突然左の胸に激痛が走り、彼はその場で意識を失った。折りしも、1500メートル走のタイムを計る体力測定の真っ最中に起きた出来事であった。

(俺は大学への進学を諦め、就職して早々に独立するつもりでいた……しかし進路相談室の求人票は夏頃には無くなっていて、もう浪人するか、専門学校に通うかの選択肢しか残されていないと思い込んでたんだ)

 その時、誤った選択をしたが為に、高い学費を払って入学した学校の趣旨とは全く違う企業に入社する羽目になったのだ……だから能力も開花せず、不向きな部署に配属されて、結果として会社内を転々とする冴えないサラリーマンになって、挙句に今、失業と云う憂き目に遭っている。それが今の俺なんだ……と、崇は拳を握り締めた。

(そうだ……あの学校に行ったのが、そもそもの間違いだったんだ! この頃の俺は、未だその事を知らない!)

 崇は入院中に、残された選択肢を天秤に掛けて、退院後に結論を出したのだ。今は迷っている最中の筈、まだ間に合う!

 一体、どのぐらいの間この世界に居られるかも分からないのだ。ならば急いだ方が賢明である。

 走る、ひたすら走る。デスクワーカーになって数年、体に負荷を掛ければきっと具合が悪くなるだろう。しかし、そんな事を気に掛けている場合ではない。今から自分が起こす行動によって、自分の将来が大きく変わるのだ。少々調子を崩そうが、必ずそれに見合う見返りはある筈……そう信じて、彼は懸命に走った。


***


「ハァ、ハァ、ハァ……こ、この病院も、あと数年で取り壊されるんだ。院長が破産して、家族は夜逃げ……はは、人生なんて、何処でどうなるか……蓋を開けてみなければ、分からないって事だな」

 その『答え』を、今の俺は持っている! そう考えると、崇は思わず笑わずにはいられなかった。

 皆、先の見えない未来に向かってまっしぐらに突き進んでいる。だが自分はその先の『未来』からやって来たのだ。その自分が、今ここに居る『過去』の自分に『これから先の情勢』を教えてやれば、人生が大きく変わる筈だ。そんな事は、本来なら不可能……だが、今の崇にはそれが出来るのだ。これで笑みが零れない奴が居たら、それこそお笑い種だろう。


(確か、203号室に……居た! 間違いない、30年前の俺だ!)

 不思議な感じだ。自分は今ここに居るのに、過去の自分がすぐそこに居るのだ。まるで他人を見るように、自分で自分を見ているのだ。それも、鏡に映った姿ではない。別の存在として、そこに居るのだ。見ると、ベッド上の彼は、窓の外に目をやりながら、何かブツブツと呟いている。

(そうだ、あの時……窓の外に道路工事の労働者が見えていた。それで思ったんだ、あんなに汗だくになりながら働くのは、俺には向いていないと。それでコンピュータを勉強しようと決めたんだ!)

 しかし、現実には情報処理技師としての道は開けず、商社に営業マンとして入社したのだ。何故、どうしてこうなった! と、嘆きながら毎日会社に通っていたよなぁ……崇はそんな若い日の事を思い出していた。


「失礼、湯沢崇君だね?」

「えっ? そ、そうですけど……何故、僕の名前を?」

「君は知らないだろうが、私は君の親戚だ。ちょっとややこしい関係にあるので、遠縁とだけ言っておこう」

 気さくを装い、崇は過去の『自分』との接触を行った。当然、声を掛けられた過去の彼は、怪訝そうな顔で崇の顔を覗き込んでいる。

「その、遠縁のお方が……僕に何の御用です?」

「おいおい、そんなに邪険にしないでくれたまえ。そう睨まれては、話をしようにも出来ないじゃないか」

 此処で、彼の機嫌を損ねてはいけない。話を聞いて貰えなければ、何も始まらないのだ。

 ……尤も、彼の呟きを妨害した時点で、既にバタフライ効果は始まっていたのだが。そんな事を崇が知る訳は無かった。


「外を見ていたね? 元気に歩き回る人が、羨ましいかい?」

「別に……僕だって病気になる前は、普通にやってた事ですし。大体、治れば元通り動けるようになるんですから、羨む必要はありませんよ」

 ああ、この理屈っぽい物言いは紛れも無く昔の俺だ……と、崇は心の中で苦笑いを浮かべた。

「それは失礼、あまりにも熱心に眺めていたように見えたので、ついね」

「僕は通行人を眺めていたんじゃありません、あそこの工事現場を見ていたんですよ」

 来た! と、崇はいよいよ核心に触れる心の準備をしていた。シナリオは既に出来ている、あとはそれが演技であると見破られないように注意すれば、ほぼ成功だ。

「成る程、土木の分野に興味があるんだね?」

「違います。僕はああいう仕事には向いていない、だから情報処理を……って、何でこんな事を貴方に話さなければならないんですか!」

「情報処理、か……確かに今、将来を見据えて考えるなら悪くない選択だ。今はまだ普及しているとは言えないが、これから先、コンピュータは暮らしの上で無くてはならないものになるだろうからね」

 その言に、過去の崇は目を見張った。何故そのような事が言える、どうして言い切れる……と云う疑問を抱いて。

「私は経営コンサルタントでね。ビジネス界の事を常に先読みして、それを企業の偉い人たちに指導するのが仕事なんだ」

「そ、その予見が、今後コンピュータは爆発的に普及する……って事なんですね!?」

「その通り。しかし、情報処理のプロがプロたる地位を追われるのも、そう遠い未来の事では無い」

 過去の崇は、またも『えっ?』と云う表情になった。然もありなん、目の前の男は、今『コンピュータは流行る』とその口で言った舌の根も乾かぬうちに、自らの言を否定するような言葉を同じ口から吐いたのだ。彼でなくとも、その腹の内は読めないだろう。だが、それもお見通しだと言わんばかりに、崇は口上を続けた。

「考えてもみたまえ。普段使っているテレビや冷蔵庫並みに、コンピュータが普及するとしたら……その扱いに皆が慣れていき、専門家の存在価値は薄れていくに決まっているじゃないか」

 その言葉を聞いた時、過去の崇はすっかり術中に嵌まっていた。こうなれば、崇の策はほぼ成功したも同然である。

「そう、か……確かにそうだな。貴方の予見が全て正しいとするなら、確かに一時はエンジニアがもてはやされるかも知れない。しかし……」

「そう、いずれ技術者たちは仕事を失い、巷に亡者として溢れる事になる。無論、そうで無い者も居るだろうがね。それは一握の、優れた人材だけだろう」

 その『一握の存在』になれる可能性は……と云う疑問は残ったが、リスクも大きいという事は伝わったようだ。青年は、崇に縋るようにして、答えを乞うた。

「じゃあ、僕はどうしたら……これが一番自分に向いていると思って、真剣に考えていたのに……」

「世の中には、沢山の道が用意されている。今、焦って決めてしまう事は無いよ。ただ、情報処理だけは止めるんだ。あれは、高収入が見込める代わりに、過重労働で不人気の筆頭となる業種だ。長く続ける前提なら、選ぶべきじゃない」

 少々……いや、かなり乱暴な言い様であった。が、要するに、彼が情報処理技術者を志さなければOKなので、崇はまったく気にしていなかった。そしてその台詞を言い終えた時、青年は再び俯いてブツブツと呟き始めた。どうやら、ほぼ決まりかけていた進路に疑問が湧き、迷いが生じ始めたようだ。

(これでいい……少なくとも、あの学校への進学は考えなくなるだろう。そうすれば、俺の未来は大きく変わる筈だ)

 そんな思惑を腹に抱きながら、崇は『邪魔をしたね』と云って病室を後にした。そして病院の玄関を出たその時、またも彼の視界は靄の中に紛れ込んだかのように、白く閉ざされ……意識が遠のいていった。


***


「……ん? 此処は……ハッ! お、俺は一体!?」

「お目覚めですか?」

「あ、アンタは……」

 気が付くと、崇は先程の街角で、占い師の前に座っていた。そうだ、俺は過去に飛んだんだ……と自覚するまでに、幾ばくかの時を要したようだ。

「昔の自分に、会って来ましたか?」

「おお、それだそれ! 過去が変わったなら、未来である今の俺は……え!? な、何だこれは!?」

 崇は、自らの姿を見て仰天した。

 無理もあるまい。先程まで彼はピシッとしたスーツに身を包んでいた筈なのに、何故か薄汚れた私服を着ていたのだから……

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