第56日 終末暦6531年 4月25日(月)

 終末暦6531年 4月25日(月) 海 夕飯なし



 今、私とトキノがいる場所を一言で言うとしたら、それは“文字の海”だ。

 色んな色のインクで綴られた文字列が上へ下へ、右へ左へ。空間を絡めるように満ちている。


 ここからはどうして私たちがこんなところにいるのかを書いていこうと思う。と言っても、事情自体はかなり単純で、きっかけは『終わらない話』だ。


『終わらない話』を読む前、つまり今朝かなり早くに、私はこの日記を読み直していた。トキノはまだ寝ていて、外から僅かに鳥の鳴き声が聞こえる程度の静けさだった。昨日の日記で“記憶が判然としない”と書いたけれど、その記憶を少しでも整理しようと思ったのだ。

 そうして読み直してみれば、本当にびっくりするくらい自分の記憶がごちゃ混ぜになっていることに気づいた。


 私は(自慢するわけでもないけれど)かなり記憶力は良い方だ。日々の出来事とか周囲の様子とか誰が何を言ったかだとか、細かいところまで覚えている。覚えてしまうと言った方が正しいかもしれない。とにかく、以前からそういうたちだ。にも関わらず、日記を読み直せば読み直すほど、“これは本当に自分に起こった出来事なのか”と不思議に思うと共に、“この日記に書かれたことは間違いない”とも思う自分がいたのだった。

 特に、ここ最近だ。シロクジラに飲み込まれた前後の記憶が自分の中では曖昧で、日記の方も何だかよく分からないことを書いている。よほど、私は混乱していたのかもしれない。


 そうして、日記を全部読み終えたタイミングでトキノが目を覚ました。早くから起きている私をトキノは特に何も言わずに、


「おはよう」


 と挨拶をした。


「おはよう、トキノ」


 私も挨拶を返した。お互いにとてものんびりとした挨拶で少し安心した。だって、最近はとっても忙しくてこうして挨拶をまともに交わすことすら難しかったのだから。


 朝食に何か食べようと思ったけれど、冷蔵庫の中には古い食材しか残っていなかった。腐っているものもあったので処分をした。昨日のシュークリームがまだ少し残っていたので、それを食べた。


「とうとうこいつを読むんだな」


 後片付けをして、私たちは部屋の真ん中の丸いテーブルに身を寄せた。テーブルには『終わらない話』が置いてある。御伽草子こと、オトギリさんの部屋では元気よく飛んでいたのに、私の部屋では飛ぶ様子は全くなくてじっとしていた。


「本、飛ばないね」

「本来、飛ぶもんじゃないだろ」

「え、そうなの?」

「そうだよ」


 トキノが呆れて言った。飛んだ方が素敵な気がするのだけど、トキノはそうは思わなかったらしい。


 新しい物語を読み始めるときというのは少し怖くて、わくわくする。黄昏図書館で本を読むときもそう思うし、この部屋で読むときも同じように思う。まるで、深い深い海の底に潜り込むように。そこには何があるんだろう、と胸がときめく。

 私は本の淵に手をかけてゆっくりと開いた。


 息が詰まるような感覚と、浮かび上がるような感覚。二つが同時に襲ってきて私は手足をばたつかせた。シロクジラから脱出した時と一緒、急激に落ちる感覚だ。

 けれど、あの時ほど暴力的ではなくて、優しく静かに包むように落ちていくようだった。スカートとマントがフワフワと揺れて、泳いでいるみたいで。


「こりゃ、何だ?」


 トキノの声も慌てるというよりは困っているようだった。どちらが上で下で右で左なのか分からなくなっていたけれど、トキノは私から見て上の方からゆるゆると泳ぐように私に近づいてきた。


 そこは白い空間、けれど色とりどりの文字が満ちていた。文字は繋がって文章になっていた。それが意味をなしている時もあれば、よく意味が分からないおかしな文章であるときもあった。色は違ったけれど、同じような文体で、そして同じような字体で書かれている。


「俺たちは『終わらない話』を読み始めたんだったよな?」

「うん、そのはずなんだけど」

「となると、ここは『終わらない話』の中ってか? ったく、とんでもない文章に巻き込まれたもんだ」


 見渡す限り文字ばかりで、私たちの部屋どころかアパートもサイハテも見当たらない。トキノが言う通り、『終わらない話』の中に来てしまったと考えるよりなかった。

 ひとまず、トキノと一緒に辺りを歩いてみた。歩くというよりは弾む感じだった。文字を読みながら歩いていたら、面白い文章があったから少し書いておくことにする。


“瑣末な最後は、然したるものでもなく、ただ細心でだった”

“私はシアターで、渡せない明日を愛している”

“慈愛に満ちた自己犠牲はまるで事故のようだと自答した”

“だから、これというのは終わらない話なのだ”

 

 そして、見覚えのある文が鮮やかな赤い字で私の前を横切った。


“これは私が書いた、私の話。

かけがえのないあなたに読んでほしい、あなたのための話。

私が私であるために、あなたがあなたであるために読んでほしい話。


どうか忘れることのないように”


 クジラに飲み込まれる少し前に見た、『終わらない話』の冒頭だ。


「トキノ、あれを追っていこう!」


 私はトキノに言った。私の傍らを浮かんでいたトキノは私の腕の中に飛び込んできたので、そっと抱きしめて視線を同じくする。


「何か思うところがあるようだな」

「うん、あの文章、『終わらない話』の最初の部分。前にちょこっと見たの」

「なるほどな」

 

 トキノはふーんとしばらく唸り、ぶつぶつと独り言を言った。


「御伽草子のテリトリ。その管理者、オトギリ。あいつが最後に残した、『終わらない話』か……」


 そしてしばらくよく分からないことを更にいくつか呟いて、やがて、


「そもそも、この話は黄昏図書館が回収する手筈になっていた。どうしてわざわざよそのテリトリの図書館に提供するのか、ついぞ分からなかったが……。オトギリの奴、もしかして……」

「トキノ、早くしないと……!」


 そうこうしている間にも、冒頭部分は他の文の合間を縫って遠ざかっていくようだった。


「ああ、すまん。行こう」


 トキノが言い、私は頷いた。


 そうして、冒頭部分を追いかけて、私たちはようやく文字の海の底らしき場所にたどり着いた。真っ白な底に冒頭部分が印刷されたかのように張り付いて、まるで本のページのようになった。見上げるようにしてみれば、文がやはり海を満たすように彷徨っていた。

 冒頭部分は赤く光って眩しいくらいだ。


「ここで休もう。ずっと泳いでいたからさ」


 トキノの提案はとてもありがたかった。ふわふわと進むのは楽しかったけれど、何故だか歩くのよりもどっと疲れたように思う。今まさに、冒頭部分の上に座って一休みをしている。

 ひとまず、日記を書いた後にこれからどうしようか決めることになった。


「どうして日記なんか持って来たんだ?」


 さっきそう聞かれて、少し困った。

 シロクジラの時みたいに自分を忘れてしまわないように持って来たんだ、なんて言うのはひどく気まずい。


「まあ、答えたくないなら良い」


 ちょっとすねたみたいにそう言われたので、いずれにせよ少し気まずかった。

 言っても、良かったかなあ……。

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