桜の日の別れ、桜のひと恋物語

白日朝日

桜の日の別れ、桜のひと恋物語

 三月三十一日。

 わたしたち五人にとって最後の日だった。

 時子と、春名と、なのはと、みつきとわたし、みんなが揃う最後の日だった。

 卒業式を終え、去年やおととしよりすこし早く桜の花びらが散って、新芽が顔を出す前にわたしたちの中からひとりだけここからいなくなる。

 わたしたちは公園でずっと遊んでいた。

 いつもならやらないような鬼ごっこを太陽が山の輪郭にかくれるまでまで続けていた。これから高校生になるのに、跳ねた土でジーンズを汚すのも木の幹に抱きつくよう隠れてカーティガンを汚すこともまるで怖くなかった。

「ばいばい、みんな。また明日ね」

 時子は塾があるからと言っていちばん最初に帰っていった。日が落ちたあとの残照のなかで見たあの子は笑顔をつくりながら泣いていた。いちばん遊ぶのが好きだったのに塾があるからいつも遊び足りなかった時子は、公園を出るときにも曲がり角を曲がって行く時にもわたしたちに大きく手を振った。

「時子、帰っちゃったね」

 春名はスカートをぱたぱたはたいて木くずを落としながら言った。夕方も深くなると昼どきにちょうど良かった服装でも寒くなり、わたしたちはちいさなあずまやに身を寄せておしゃべりを続ける。寒がりな春名にいたっては、スカートなんて穿いてきたくせにまだもこもことした手ぶくろをつけている。

「そういや、春名っていつもその手ぶくろしてるよね」

 あずまやの卓に行儀悪く腰掛けたなのはが、春名に笑いながら声をかける。

「……あ、うん」

 なのはの言葉にすこし遅れるようにして春名は反応した。

 愛想笑いもほんのり混ぜたその表情には春名の動揺がこちらに伝わってくる。それを最初に察知したのはわたしたちの中でいちばん目ざといみつきだった。

「もしかして……その手ぶくろ、彼氏にもらったとか?」

 謎解きをする探偵みたいに指を立ててみつきは春名に尋ねる。口調は冗談めかしているけれど、先ほどのなのはのような言葉とは好奇心のレベルが違うといった感じ。

「ねえ、みそかも気になるよね」

「あ……あー、うん」

 みつきがわたしに振ってきた。周りのことばかり見てたせいで彼女の言葉にやや気のない返事をしてしまう。

「もー、こういう話しても楽しくないでしょ―。時子もいないんだしー」

「あらあら春名さんや、やましいことがなければはっきりと否定すればよろしくてよ」

「やましいことはないですけどー……」

「では、やらしいことかしら?」

 春名とみつきはなぜかお上品を気どった変な言葉づかいで牽制しあっている。

「むー……」

 とはいっても、口げんかのたぐいは昔からまるで得意じゃなかった春名だ。彼女はなんでも顔に出してしまうし、嘘を言うのもはったりをかけるのもほとんどできない。劣勢に立たされた春名はみつきのしつこい質問攻めにまもなく音を上げてしまった。

「……そうですよ。恋人、できました」

 さっきまでのやりとりを引きずっているのか、言葉に敬語が混じったままだ。

 っていうか、やっぱり春名に彼氏できたのか、へえ、春名ってばわたしたちの中ではいちばんお堅いタイプと思ってたけど、意外かと問われればそれほどでもないなあ、なんてことを考えながらもわたしは会話にはうまく入れない。

「わあお」

 と口で言ったのはみつきただひとり。しかしながら最初にその話題を振ったなのはも、なにを隠そうこのわたしも、彼女の告白に色めき立っていたことは間違いない。なにせ、わたしたちのグループで浮いた話なんてものが持ち上がったのは春名のこれがはじめてだ。

「……ねえ、誰かとか詳しく教えなくていいからさ、どういうひとかだけ教えてよ」

「うー……」

「ちょっとだけ」

 春名に尋ねるみつきの口ぶりにはさっきみたいなおちゃらけた色合いはない。

「ほーら、やめとこうよみつき。春名も大人になったんだよ」

 わたしはちょっとふざけつつみつきの質問攻めを抑えようとした、のだけど……

「……いいひと、優しい、今度通う高校でもいっしょ……」

 むしろわたしの言いかたが春名に火をつけたのか、彼女はあっさり白状してしまった。しかも聞いたこっちが恥ずかしくなりそうなノロケだ。いやん。

「なんだよー、ノロケかよー。聞かなきゃよかった―」

 なのははテーブルから投げ出された足をバタバタ動かして冗談半分の悪態をついている。

「あーひどい、自分たちから聞いといてー!」

「なはは、ごめんごめん」

「あやまれば許されるというもんじゃないです―」

 無理やり恥ずかしいことを告白させられた上、当のなのはたちから文句まで言われ、春名は赤面しながらぶーたれた。わたしは春名の機嫌でもとろうと後ろから肩を揉む仕草をする。

「ねえ、これって時子に言ってもいいの?」

 それから、この場にいないもうひとりのためにお伺いを立ててみた。

「……あー。いや、それはしばらくやめといて」

 複雑そうな表情をする春名、ほんとうならわたしたちの仲でひとりだけに隠しごとというのはやらないのだけれど、春名にも思うところがあるんだろう。

「うん、そうする」

 わたしたちは彼女の意図を酌むことにした。


 公園の街灯もぽつりぽつりと灯りはじめ、まるでこの時期の山裾の桜みたいに、こんなところにあかりがあったのかと気づかされる。公園のフェンスはあたりを囲む家々の陰といっしょになり輪郭を失って、その奥に見える真っ黒な山の一部へ溶けだそうとしている。ケータイの時計は十九時半の表示、きっと誰かの門限は過ぎたりしているだろう。

 北風がにわかに吹いて桜の枝を揺らしたのか、わたしたちが身を寄せるあずまやにもいくつかの花びらが降り落ちて、すこし遅れて寒さを体感した。

「さむいね」

 寒がりの春名が最初に音をあげ、

「それを言ったら余計に寒くなるんだよー」

 薄着のなのはが軽く身を震わせながらそれを茶化す。

「でも、そろそろかな……」

「……そろそろだね」

 みつきがケータイで時間を確認し、わたしたちにお開きにしようと呼びかける。つられるようにして春名もケータイを開いた。もしかしたら彼女の両親か彼氏からでもメールが来ていたのかもしれない。気まずそうな顔で、でも帰りたいと告げる勇気は彼女にはないかもしれない。

「それじゃあ、帰ろうか」

 なのはがテーブルの上からぴょんと飛び降りて、遅れて春名がおずおずと立ち上がる。わたしも椅子から立ち上がり、ひとりだけ家の方向が違うから一足先にみんなとさよならをした。

「みそか、メールするね」

「みそか、ばいばい」

「みそか、またね」

 なのは、春名、みつきの順で手を振りあって、わたしは三人の背中が北側の出口へ向かうにつれちいさくなっていくのを見送る。

 もうこれで全員揃うことはない。

 わたしは明日から遠くの街に引越しをする。

 闇に溶けた三人の背中が、街灯の下を通るときにまた一瞬だけ現れて、わたしはこらえていた涙が、まぶたのなかを熱くしていくように感じた。

「あ、あ……」

 たぶん、わたしの背中を見つめる桜の樹だけがこの嗚咽を聞いていたのだと思う。

 もう真っ暗なんだから恥ずかしがることはないと、わたしはその場で膝を折って座り込み両手で顔をおおった。顔を覆う手のひらにはぬるま湯みたいなしずくが次に次にと落ちてくる。

「やだな……どこにも、行きたくないよ」

 つぶやいても現実はなにひとつ変わらないのに、わたしは言葉にしたかった。口にすることに意味がなくても、わたしが口にすることは必要な言葉なんだと。

 このままわたしが帰らなかったらずっとここに居続けられるんじゃないかなんて、ありえないと分かっているのにそういう思考をやめられず、涙はまるで止まらずに、口からは弱音ばかりが漏れて。

 また一度、風がびゅうと強く吹いた。桜の枝を揺らすはずの北風はわたしの丸めた背中に乗っかる。

 風に飛ばされてきたはずの花びらは随分重かった。

「……桜の花びらがいっぱい乗ったのかと思った」

 わたしは後ろから抱きついてきた北風に声をかける。

「北風はこんなにあたたかくないでしょ」

 あったかいほっぺたをわたしの耳のあたりに寄せたみつきが、言葉を返した。

「うん……」

「あ、もしかして泣いてた?」

「見えるの?」

「ううん、雫がほっぺについた」

「ごめんね」

「いいよ、あやまらなくても」

 ほとんど真っ暗で彼女の顔は一切見えなかったけれど、どういう表情をしているのかは手にとるように把握できた。

「いくらでも、泣いていいよ」

 そのみつきの言葉に胸の奥につっかえていた色んな気持ちが溶けて落ちてゆくのを感じた。わたしはまだ泣いているのだろう。それでももう手で顔を覆うことはやめていた。両手はわたしに巻きついたみつきの手に重ねて、

「みつきみたいなひとにそんなこと言われたら、笑っちゃうよ」

 そうしてわたしは笑顔で言葉を返す。

「うん。笑え笑え」

 みつきと触れ合う部分はとてもあたたかくて、それ以外の部分まで溶け出しそうなほどあったかくて、わたしはみつきの顔が見たくなって身体の向きをすこし変えた。

「ねえ、みつき」

「おお、どしたんだい、みそかさんや」

「門限、大丈夫なの?」

 わたしはみつきの家の門限が厳しいことを誰よりも知っている。

「大丈夫、みそかといたら最強だもの」

 みつきはとりたてて根拠もなさそうな理由を口にした。

「最強かあ」

 そしてわたしはその言葉が気にいった。

「ねえ、みつき」

「ん?」

 息が触れ合うほどに顔を寄せ合えば、みつきの表情の変化を捉えることができる。このときのみつきはまるで、弟をあやすときのお母さんみたいな表情をしていた。

「今日でお別れだね」

 みんなが知っていて、わたしから言って誰も触れないようにしてくれたことを、わたしは自分の口からみつきにもらした。

「……ばーか」

「ばかじゃないもん」

「ばかですよ、みそかは。ばかでみそっかすです」

「ばかじゃないです。ばかと言うひとがばかなんです」

「じゃあ、わたしはばかでいいよ。でも、みそかもばかなんだよ」

「なんでさ……」

 わずかな月明かりの下、小学生レベルの口論を小声で続けるわたしたち。

「だって、わたしは絶対に会いに行くよ」

「無理だよ」

「大好きなひとに会いに行かないような、ヤワな恋する乙女がいると思うかね?」

「だって、すごく遠いところだよ」

「関係ないよ、会いに行くよ、最強だもん」

 みつきの言葉はわたしをなぐさめるための虚勢だと思っていた。けれど、まっすぐ見つめて話す言葉にはまるきし嘘が混じっているように見えなくて、わたしはなにを恥ずかしいとでも思ったのか、顔を覆いたくなるような熱量がまた顔へと訪れるのを感じた。

 ぞくぞくするような、あたたかいのに鳥肌が立つような感覚の中、互いの息が届くほど近かったふたりの距離はゼロになった。

 一秒、二秒……三秒……数えていたにも関わらず、正確にどれだけ唇を重ねていたのかは分からなかった。離した瞬間の唇が湿っていたことがなんとなくうれしくて気恥ずかしくて、数えていた秒数はそれだけで頭のなかから飛んでいってしまった。

「いま、どっちから近づいた?」

 みつきは意地悪そうに問いかける。

「さあ、どうでしょうね」

「はじめてのキスだったんだけどなあ」

 大して惜しくも無さそうにみつきは言う。

「じゃあ、返してあげる」

 そうして、奪った唇を返すためもう一度唇を重ねる。今度は五秒間きっちりと。

「……えへへ」

 今度、唇を離すとみつきは耳のあたりを押さえてにやけていた。

「みつき、さっきはあんなにイケメンみたいなこと言ってたのに」

「違うよ。恋する乙女って言ってたでしょ?」

「はいはい……」

 彼女の言葉を受け流すと、わたしは彼女の身体のどのあたりをさわっているのかもよくわからないまま抱きついた。

「あはは、みそかが動物みたいだ」

「忘れないようにね、身体で覚えておくこととする」

 そんな風にして、わたしは門限を過ぎたみつきと数えきれないほどの秒数、身体を寄せ合っていた。


 真っ暗闇に桜が降る、今日は三月三十一日。

 わたしたちがいっしょになった日。いっしょだから、明日が来るのもこわくない。

 わたしは明日、ここからいなくなる。

 身体で覚えたいっぱいのみつきを、わたしの未来に連れて。

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