第6話 残されたもの
私の最初の記憶は、お姉ちゃんだった。
最初に触れたのも、触れられたのも、言葉を交わしたのも、好きになったのも全部、お姉ちゃんだった。
子供の頃からそこにあった私の世界。
ずっとお姉ちゃんが側にいる、目に映る何もかもが美しい世界。
朝目覚めると、私はお姉ちゃんのベッドにいた。
昨日の夜は、確かに隣にいたのに。今はもう、ここにはいない。
主を失った部屋はどこか寂しく、いつもより寒く感じる。
自分の部屋に戻り、制服に着替える。そこでふと思う。私はなんでこんなに辛く悲しい思いをした後に、普通に学校へ行かないといけないのだろう。
別に学校を休むくらいならいつでも出来る。風邪を引いたとか、体調が優れないとか、理由なんていくらでもある。それなのに私は、学校へ行くことを選んだ。
こんな時でも普段通り学校にちゃんと行こうとする自分が可笑しくて、独りで声を出して笑ってしまった。
いつか、この日の悲しさを忘れるだろう。
いつの日か、この日を思い出せなくなる日が訪れるだろう。
それでも、私は生きていかなくてはいけない。
心から愛していたものを忘れて。大切な記憶はいつか零れ落ちる。
私は無意識に、お姉ちゃんという特別な存在より、日常という私を守るものを選んだのだ。
笑い声はやがて嗚咽に変わり、涙がとめどなく流れ落ちる。
あと五分以内に家を出ないと遅刻が確定するけれど、もうどうでもよかった。それに、スカートが涙で濡れてこのままでは外を歩けない。
私はこの日、初めて学校を遅刻することにした。
結局家を出たのは、十時過ぎだった。
今から学校に行った所で、午前の最後の授業に途中参加出来るかどうかわからない。それでも今日学校に行ったという事実のために、学校へ向かう。歩く速度は勿論普段より遅め。
「あれ? 内宮さん、珍しいねこんな時間に登校だなんて」
後ろから声をかけられ振り返ると、同じクラスの亜麻咲さんがだるそうに歩いていた。
「亜麻咲さんも、今日は遅い登校ですね」
「だって、今日はクリスマスですし、少しくらい遅れても文句は言われないでしょ。それに、今日は特別授業で時間も普段と違うからこの時間に登校でもぎりぎり間に合うと思うよ」
それは知らなかった。
「まぁ、急げば間に合うってだけだから、普通に歩いてたら普通に遅刻するけどね」
「亜麻咲さんは、急がないの?」
「それは私の台詞だと思うけれど。内宮さんて、優等生のイメージがあるから、こういう日もちゃんと時間通りに登校するんだと思ってた」
私は言うほど優等生ではない。優等生の振りをするのが得意なだけだ。
そうすれば、お姉ちゃんの側にいても迷惑をかけなくて済むから。
「優等生は、もうやめたの」
もう、いい子でいる理由がなくなったから。
そんな私の心情を察してか、その理由を亜麻咲さんは追及してこなかった。
「ふぅん。ま、私には関係ないけれどね。内宮さんが優等生だろうが、そうじゃなかろうが」
それっきり、私たちは学校に着くまで何も話さなかった。
遅刻ぎりぎりの時間でも生徒用玄関口は人が沢山いた。
慌てて上履きに履き替える生徒、走ってきたのか息を整えている生徒、焦る様子もない生徒。私が普段登校している時間には生徒はまばらで、自分の他に二人か、三人くらいしか見かけないので、これだけ人で溢れている光景を見ると、なんだか違う学校に来てしまったような違和感を覚えた。
「私たちってさ」
上履きに履き替えていると、ローファーを靴箱に入れている亜麻咲さんが静かに話しかけてくる。
「他人から色んなイメージを持たれるじゃん。あれって大概間違ってるよね」
亜麻咲さんが何を言いたいのか分からなかった。
「だってさ、内宮さんは別に優等生じゃないし、私も目を付けられるほど素行が悪いわけじゃない。けれどそういうイメージはいつも私たちに付きまとってくる」
「確かに私は大勢の人から優等生に見られるし、自分でも優等生だと思ってるけれど」
「でも内宮さんはさっきその優等生をやめるって言った。それはどういうことだか分かる?」
私は今きっと変な顔になってるに違いない。
亜麻咲さんが何を言いたいのか、私には全く分からなかったからだ。
「それはね、つまり今までの自分を全否定することなんだよ。それが良い結果を招く場合もある。けれど、内宮さんの場合はなんだか違う気がするの」
確かに私は優等生というイメージが嫌で優等生をやめると言ったわけではない。いらなくなったから、必要ではなくなったからそれを捨てるだけ。亜麻咲さんが言っていることは正しいが、彼女は私の気持ちなど理解できないだろう。
「内宮さんは、今の自分と過去の自分を切り離したいと思ってるんだと、私は思う。それはきっと、解離性障害とかのそれと同じような原因で引き起こされる、いわゆる『今の辛くて苦しい思いをしている自分は自分ではなく、他の誰か』という奴です」
私は、今をちゃんと受け止めている。
お姉ちゃんがいなくなって、まだ時間も経っていないが、私はちゃんと一人でも生きていける。けれど、お姉ちゃんの負担になるのは嫌だったから、私は優等生を演じていただけであって、お姉ちゃんがいなくなってしまった今、優等生を積極的に演じようとは思わない。だからやめる。
「ねぇ、内宮さん。昨日の記憶、ある?」
亜麻咲さんは首をかしげながら訊いてくる。
「内宮さん、今自分が何年生で、何歳だか分かってる?」
理解が出来なかった。
返事も、何も返すことが出来なかった。
「内宮さん、ねぇ内宮さん。君は一年前から同じことを繰り返し言っているけれど、君は一体何をやめて、何を捨てたの?」
私は、私が、分からない。
私は、誰だろう。
「これまで君はお姉ちゃん子という自分を切り離し、その逆にお姉ちゃんのいない記憶を捨ててきた。矛盾するような二つの事象をその身に抱え、ついに君はそれに耐えられなくなった。だから、君はもう一つ人格を作ることにした」
今の私は、どの人格だろう。
「それが、今の君の人格。『お姉ちゃんがいなくなった直後の君』だよ。そのときの君はどの人格よりも落ち着いているし、冷静だ」
頭が痛い。吐き気がする。上手く立っていられない。
ここにいる私という人間は、果たして誰なのか。今の私には分からなかった。
「でも学校では『優等生』の人格でいなくちゃ、駄目ですよ」
なんだか、とても嫌な夢を見ていた気がする。
目覚めた場所は、お姉ちゃんのベッドの上だった。
主のいない寂しい部屋。私は掛け布団から抜け出し、自分の部屋に戻る。
今日は、確か十二月二十五日。私はこんな日でも学校に行かなくてはいけない。
自然と、涙が流れてきた。
それは、昨日の出来事での涙なのか、それともまた別の事での涙なのか、私には判断出来なかった。
今日もいつもの時間に家を出る。
すると意外なことに、玄関の外には同じクラスの亜麻咲さんがいた。
「おはよう、珍しいね。というか、亜麻咲さんて、家こっちだったっけ?」
亜麻咲さんとは朝一緒に行くほど仲は良くなかったはずだけれど。
「ちょっとね、内宮さんに用事があって」
振り返った彼女はやわらかい笑みを浮かべ、そう言った。
「じゃあ学校に向かいながらでいい?」
「うん、その方が私も都合がいいし、私も君もあまり時間がないしね」
そうして私と亜麻咲さんは並んで歩く。
私の『今日』がまた始まる。
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