第19話 立腹のエリザベス

 そこから後の紫苑の記憶は鮮明に残ってはいない。

 決死の覚悟で死に瀕している鬼灯の元へ渡り、数々の叫び声や罵声、飛び交う銃声を耳にして――考えたくもないことが脳裏を駆け巡り、震える頬に自然と流れる涙を感じ、他に何も聞こえなくなるくらい叫んで――その場から消えていた。

 逃げてばっかりだね。

 もっと強かったらよかったのに、そうしたら皆を守れるのに。こんな思いさせることもなくて、傷つけさせることもなかったんだ。

 ごめん。

「――さん!」

 声がする。萌黄の声だ。ちゃんと家に帰ってこれたようだ。

「嘘でしょ、父さん、父さん!?」

 ぼんやりした視界の先に、萌黄がいる。制服姿だ。必死に、隣で叫んでいる。真っ青な顔で、ずっと喉から搾り出したような悲痛な叫び声を上げている。何も言えない空気が広がる中、紫苑はむくりと身体を起こした。

「……萌黄」

「紫苑、これ、どういうことなの!? 何で父さんがこんなことに……」

 寄りかかる萌黄の歪んだ瞳が迫ってくる。肩を掴まれ人形同然に揺さぶられても、ただ紫苑は不安定な呼吸を返すことしかできない。

「黙ってないで答えてよ、馬鹿!」

 萌黄に加減なく床に叩きつけられても、紫苑の感覚は未だ戻ることはなかった。恐怖がまだ神経の中を徘徊しているようだった。

 棗に電話しているであろう萌黄の声だけが沈黙の世界に広がっていく。

「母さん早く帰ってきて、父さんが、父さんが……!」

 それだけ伝えて電話を終えた萌黄はぺたんと床に崩れ落ちてしまった。その様子を何も考えずに見つめていると、急に萌黄は呟いた。

「もしかして、あんたのせいだったりするの?」

 その声は実に暗い。

「何か言いなさいよ、あたしの言ってること合ってるの? 間違ってるの? 答えなさいよ」

「俺のせいじゃ、ない……」

「じゃあ何があったの? あんた、知ってるんでしょ」

「知って何になるんだよ……」

「知らないといけないでしょ、こんな状況だったら!」

「知ったって意味ないよ……だって、もう、無理だよ。やっぱり殺されるんだ。いつになったって、変わりはしないよ。勝てないのに勝負を挑むだけ無駄なんだよ、勝てないなら最初から諦めておけばいいんだ……」

「無理、って。無駄ってあんた……」

 そこから言葉は断ち切られてしまった。あるのはフローリングの上に紅を流している父の姿のみ。

 しっかりと見つめることなんて、できない。

 今にも意識が飛んでしまいそうな中、甘い猫の鳴き声が耳に流れ込んでくる。どこかの野良猫が、ミルクを求めて鳴いているような声。緊張の糸がぐいぐい引っ張りこまれているような高音で。

 耳障りな鳴き声はやがて人間に理解できる言葉に変わっていく。

「――この弱虫、重いって言ってるだろ!」

 激昂している。

 狼狽した紫苑が咄嗟にその場を離れると、その真下には今にも潰れてしまいそうな白く長い毛並みの猫が倒れていた。わけもわからず紫苑と萌黄が目を合わせていると、その白猫は生き返ったように飛び起きた。その蒼の瞳は獲物を見つけた猛獣のように輝き、全身の毛を逆立てて怒りを露骨にしている。

「よっくもあたいの身体を踏みつけやがったな! たかが人間ごときがあたいの毛を乱すなど千年早いってんだよ!」

「あの、あんたってどなた様?」

 紫苑も浮かんだ当たり前の疑問を萌黄が声にした。しかしその質問をするや否や、白猫は今にも飛び掛ってきそうな構えを見せはじめた。

「あんた、だと? ふざけんじゃねえ、このエリザベス様をあんた呼ばわりするとは千年どころか一万年早いってんだ、わかるか……いやわかんねえんだろうな」

「え、エリザベスって母さんが前に言ってた――」

「てめえ! まだわかんねえのか、あたいはエリザベス様だ! ちゃんと様をつけやがれ」

 機嫌の悪い猫と機嫌の悪い少女を混ぜ合わせたような声で白猫エリザベスは鳴き続けている。まるで鬼灯の普段の言動そのものだ。二人を放って一人独走するエリザベスは、銃弾を身体中に浴びた鬼灯の姿を目にするなり、そこに腰を下ろした。

「こりゃひでえな……あのクーデターの時よりもひでえ。もしかしたら棗まで道連れにしてしまうかもしれねえぐらいの重傷だ。その割には息はあんのかよ、信じらんねえ程しぶとい奴だな。とはいえいつまで持つかは鬼灯に残ってる魔力次第かねえ」

「え、エリザベス、父さんは今魔術を使えないの。何でかわからないんだけど」

「魔術を使えない、だと? 馬鹿言え、何でもかんでも魔術でぶっ壊すのが趣味の鬼灯が、魔術を使えないだと? 奇妙なこともあるもんだな」

「だから母さんはエリザベスから預けておいた魔力を返してもらえば、魔術を使えるようになるとは言ってた」

「あたいから魔力を返してもらう? 何だよこいつ、そんな最悪の状態になってんのかよ? そりゃ駄目だ、鬼灯の命はすぐ枯れるな」

 白猫は弓なりに身体を逸らし、大きく伸びをした。

「仕方ねえな、あたいが預かってる魔力を少しだけ返してやるよ。そうすればもしかしたら助かるかも知れねえしな……」

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