第4話 母さんの家出
稲妻家の大黒柱ともいえる母、棗は庶民の家庭で育ったということも影響してか、献身的でかつ慎み深い女性だ。だが商業人の娘であるため、金銭面に関しては人格が変わるほど厳しい人だった。特に今現在の経済的に追い詰められた状況の中で夫の面接落ちが知らされ、相当の怒りが爆発したように見えた。
「で、母さんはどこ行ったの?」
「そのまま出ていったんじゃない? 俺だってしばらく前に帰ってきたばっかりなんだから。詳しいことは本人に聞いてよ」
棗をそこまで激昂させた張本人である鬼灯は寝室で寝転がっていた。スーツを買うお金すら惜しいというのに、経済について一切興味もないらしくスーツ姿のままだった。当然、棗の暴走の掃除も紫苑にまかせっきりで、全く動く気配もない。
「父さんあのさ……」
「今日の面接は萌黄の言うことを聞いて、面接官に千年譲ってやったんだ」
「え、そうだったの?」
「千年譲ってやってだな、敬語で返事してやったんだ。そうしたら面接官の奴は何を口走ったと思う?」
嫌な予感が萌黄の頭を駆け巡る中、鬼灯は勢いをつけて身体を座らせる。
「わからないだろう、萌黄。まさかあの男の言ったことなどわかるまい。奴は言ったのだ、『声が小さい』とな!」
「声が小さいって……」
「私だって初めて敬語を使ってやることになったのだぞ。そのせいで柄にもなく緊張しているのも当たり前だろう。その中で答えてやったというのにだ、あの分からず屋は一言『声が小さい』と言い出した。わかるか萌黄、この屈辱感。今まで生きてきて三十三年、あんな仕打ちを受けたのは初めてだ。全部馬鹿馬鹿しくなって、本当に奴を破壊してしまうところだった」
「破壊って、まさか父さん手を出しちゃったの!?」
通りで、それならば棗のかつてない暴れようも理解できた。人間一人殺してしまうということは、立派な犯罪である。この経済的困窮の中で、一家の主が逮捕され(たぶんこちらだけではここまで暴れたりはしないだろう)、慰謝料なんかいろいろと払うことになったら、間違いなく一家は破産である。
だが、鬼灯は気にするなと言いたげに首を振っている。
「出しかけただけだ。いや、出せなかったと言うべきか。本当に殺してしまう衝動に襲われたんだが、殺せなかったんだ。はっきり言って殺してやりたかったけどな。あんな奴木端微塵にしてミンチ肉にしてカラスの餌にしてやりたかった」
「何それ、言ってることが残虐すぎて人間じゃないよ」
「残虐も人間の
結局手を出して帰ってきたというのは、萌黄に伝わった。やはりこの人に就職なんてものは向いていないらしい。母さんがこのまま帰ってこなかったら、生活なんてとてもやってはいけないのだ。だから棗の機嫌を損ねないというのが稲妻家の暗黙の了解になっていたはずだったが、やはり鬼灯はそんなものにも気づいてはいなかったようだ。
これ以上話を聞いていても埒があかない。萌黄は肩から通学鞄を下ろして、本来伝えたかった話を切り出した。
「その話は後でしよう。それよりも、父さんに伝えなきゃならないことあるの」
「なんだ、結婚など断じて許さんぞ。お前はまだ十五になったばかりだろう」
「違うわよ、それにそんなことは知ってる。じゃなくて、今こっちの世界に――戦士一族が来てるのよ」
突然本筋を切り出したのはまずかったのだろうか。鬼灯どころか紫苑までもが、時が止まったかのように硬直してしまった。それも瞬き一つしないから、萌黄からすれば怖いだけである。しかし五秒ほどして二人を凍らせていた氷が一瞬にして溶けた。
「本当か、萌黄!」
父子は声を揃えて萌黄を取り囲んだ。
「本当。じゃなきゃそんな嫌な話ジョークでもしないわよ。あたしのクラスに転校してきたんだけど、急に『
「その様子じゃ答えなかったようだな」
「当たり前よ。答えたりなんかしたら、今度こそあたしたち殺されるもの」
「だよなあ……せっかく三年もこっちで生活できてたのに、なんで今更この平穏を崩しにきたのかな。考えられない」
この生活を一番楽しんでいたであろう紫苑はすでに口を尖らせて目頭を赤くしている。貧しくて辛いことも多かったけれど、彼にとっては誰からも襲われないという平和な世界だったのだ。その安心が崩れるのは一番不安なことだろう。対して、戦士一族に狙われている本人はこの事態を重く受け止めているようだった。
「萌黄、できるだけ奴と関わるな。エスカレートするようなら学校も行かなくていい。あと、いざとなったら魔術で逃げろ……紫苑もだ」
こっちの世界に来て以来魔術使用はしないよう、両親から硬く言いつけられてきた。この世界を追放されればもう行く場所はないからと、世界に順応した生活を送るためだった。しかしその言いつけも関係なくなった。やはり稲妻家にとって状況は最悪と言えた。
「あと、例の剣は持ってきていたのか?」
「さすがに学校じゃ持ってきてないみたいだけど……」
「そうか……よし、今から母さんを連れ戻しに行ってくる。こんなときに一人歩きしていてはさすがにまずいだろうからな」
鬼灯は有無を言わせず早口に言うと、そのまま玄関のドアを開けっ放しにして外へ駆け出していった。子供たちに残した横顔は珍しく切羽詰った表情をしていた。
流れ込んでくる隙間風が、萌黄と紫苑の脇をすり抜けていった。
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